2017/05/24

芳川泰久『漱石論 鏡あるいは夢の書法』(1994) 1/2

漱石論―鏡あるいは夢の書法
河出書房新社


 ↑amazonは書影のない本にときどきこのイメージをあてているけど、いっそ「画像はありません」のほうがいいと思うんだがどうだろう。

 フランス文学者の著者が、20年以上前に出していた漱石論。11本の論考が収められている。
 最初は「熱力学的ディスクール」といって、熱い/冷たいという「温度差」をものさしに漱石作品を論じたもの。これは面白い。いい意味で「よくやるなあ」という感動があった。
 そのあとは、タイトルにあるとおり、鏡の書法、夢の書法というのをさまざまな作品から組み立てて、さらに別の作品へと応用して「どんなことが言えるか」と続いていくのだけど、正直、こちらは「言おうと思えばこんなことだって言えてしまう」の見本市のようで、まあ読むには読みましたけど…みたいな読み方になってしまった。
 ところがしかし、いちばん最後にある「「声」の検閲――『こゝろ』の話法を聴く」というのがまた急に面白くておどろいた。忙しい読書である。

 なので、感想は2回に分け、まず「熱力学的ディスクール」、次に「「声」の検閲――『こゝろ』の話法を聴く」について書こうと思う。


 高低差(高い/低い)からエネルギーを取り出す古典力学に対して、温度差(熱い/冷たい)からエネルギーを取り出す熱力学。明治の文明開化とは、このエネルギー面でのパラダイム変換のことでもあったそうである。
 温度差を作り出すための機関が蒸気機関で、それにより汽車が走り出す。そしてまた、温度差を生む天然の場所といえば温泉である。なるほど。
《ところで『草枕』は、もっと決定的なフレーズを冒頭から刻印している。作者自身がどこまで意識していたかということを超えて、そのフレーズは、『草枕』がそれまでの古典力学的パラダイムから熱力学的なパラダイムへの変換そのものを語る場であることを告げている。そうしたパラダイム変換をはぐくむべく、古典力学的としか言いようのない主人公の仕草を冒頭から宣言するフレーズ。想い起こそう。[…]》

 中略したけど、さらに倍の分量を費やしてもったいぶってから、いよいよ引用がくる。
《  山路を登りながら、かう考へた。

 おそらく、われわれは長いあいだ、『草枕』のこの冒頭の一行を読み過ごしてきたのではないだろうか。その証拠に、だれもが復唱するのは、これにつづいて語られる画工の「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」といった人生論的な感懐なのだから。しかしながら、『草枕』が重要なのは、結末で「汽車論」を語るのとちょうど対応するかのように、冒頭で、古典力学的な身振りを提示している点なのだ。徒歩で山を登ること。これ以上、古典力学的パラダイムにふさわしい仕草があるだろうか。》pp33-4 太字と下線は引用者

 感動的なほどドヤ顔が見えるし、下線を引いた部分の口調には笑ってしまう。
『草枕』は、山を登ったあと、温泉宿を舞台とし、それから今度は山を下って(位置エネルギーを運動に変える)、舟で移動し(そのとき川沿いに見られる機織りの風景はやがて来る紡績工場という産業の転換を予告していて)、そして到着するのは蒸気機関車の走る鉄道の停車場なのである。よくも目を付けた。感動的なほど、ドヤ顔が見える(2回め)。
 それから『草枕』だけでなく、『二百十日』や『坑夫』からも火山や鉱山が取り出されて「高い/低い」や「熱い/冷たい」が論じられ、『吾輩は猫である』に出てくる風呂場のシーンが注目され(銭湯の湯槽にうごめく人々の姿は分子のブラウン運動に似ているそうで、さらにはエントロピーの法則が見出される)、そういえば吾輩が死ぬのは甕に張られた水の中(冷たい)だったし、それに『坊っちゃん』もまた温泉を行き来するし、その温度差をもつ2ヶ所は汽車で連結されていたし、しかも坊っちゃんは、最後に街鉄の技手になるではないか。だから、漱石ほどこのエネルギーの転換を言説化できた小説家はいない、ということになる。
《物語論的な場に温度の異なる二つの熱源を布置することで、テクストそのものを熱機関に書き換えた作家。そのことこそが、西欧より遅れて短期間のうちに熱力学的なパラダイムを導入しようとした明治期の日本において、漱石にしてはじめて成し得た仕事の射程にほかならない。》p67

「ほかならない」。そんな調子で、高低差と温度差という発見を鍵にすると漱石の作品はこんなふうにも読めるという、楽しい実例だった。「よくもここまでやったものだよ」という尊敬と、文字面は同じだが、「よくもここまでやったものだよ」という呆れが絶妙にミックスされる読後感だった。

 で、この後に続く論考については、後者、呆れのほうの「よくもここまでやったものだよ」が多くなってしまう。
 漱石の作品では汽車や電車がよく走る、そんな場面では、あわせて果実と鼻が登場することが多い、汽車・果実・鼻、この3つが揃ったところに漱石の夢の世界があって――というぐらいなら「ほうほう、それで?」とまだついていけるが、「鼻=男根」となってくると「うん…そうか…」と力が抜ける。
 それにまた、『明暗』に出てくる「清子」という名前が「キヨコ」から「キヨ」→「鏡」→「鏡子」(漱石の妻)と変換されても、どんな顔で読めばいいのか困ってしまうし、『三四郎』において、「水蜜桃」=「水・三・十」、「小川三四郎」=「水・三・四+六」=「水・三・十」、ゆえに両者は同調可能、となるとこれははっきり、凝りすぎた冗談だと思う。
 ――揶揄的に過ぎた。
 ここにあるのは、先人の開発した概念を組み合わせて特注のメガネを作り、それを通せば見えてくる作品の一部分一部分をまた組み合わせて筋道を立てる、しかもそのすべてを言葉でもって行なって読者の吟味に供するという職人技の実践で、「どんなことが言えるか」が「どこまで言えるか」の挑戦になっていくのは自然な流れだとも思う。
 わたしのほうがそれについて行けるだけの地図と体力を持っていなかったという話だろう。文章のアクロバットは相当に華麗だった。それだけはわかる。

 が、そんな無粋な人間でも、本書の最後にあった「「声」の検閲――『こゝろ』の話法を聴く」は面白く読めたのである。「熱力学的ディスクール」よりおどろきがあった。
 どんな内容だったか忘れてしまうのはもったいない。次回、感想はともかく、メモにつとめることにする。

 [→次回
2017/05/16

いとうせいこう×奥泉光『漱石漫談』(2017)

漱石漫談
《奥泉 ―― でも、自分から「私は損ばかりしていました」と主張する人って、どうなのかな?
いとう ―― 「私って、~の人だから」というのと同じで、嫌ですね。
奥泉 ―― 「あたしって、昔から損ばっかりしている人じゃないですかぁ?」
いとう ―― 知らねえよ(笑)。》『坊っちゃん』p118

 先日、熱にうかされて『坑夫』のところだけ読んで引用したいとうせいこう×奥泉光の『漱石漫談』、ほかの部分も読んだのであらためて感想を。

 本書で扱われる漱石の作品はぜんぶで8作。毎回1作にフォーカスしてふたりが漫談をする。
 一方が事前に準備してきた内容にもう一方がその場で応接し、話が深まったり、あたらしい切り口が生まれたり、脱線が続いたりしてとても楽しい。8作と言わず全作品について、さらに同じ作品についても、繰り返し喋って、喋り直して、喋り倒してほしい。それはたいへんだ。

「はじめに」で奥泉光はこう言っている。
《小説を読む行為って、ひとりで本に向かい合う、という行為だけでなく、その小説について語ることとか、その小説について人に面白さを伝えることとかを含めてもいいと僕は思うんです。文芸漫談は、いとうさんの方向、お客さんの方向、テキストの方向、といった具合に多方向に意識が動いていく。この動きそのものが小説を読むという経験になってるんですよね。》p3

 わたしは2015年の奇書にして名著、『『罪と罰』を読まない』(岸本佐知子 ・三浦しをん・吉田篤弘 ・ 吉田浩美、文藝春秋)を思い出しました。あれもわいわい好き放題に(ほんとうに、好き放題)喋っている感じが楽しかった。あの本にしてもこの本にしても、そういうことができるのっていいなという、非常に羨ましい気持。

 奥泉光が『吾輩は猫である』は温泉である、と喝破するところとか、いとうせいこうが『三四郎』の美禰子にえんえん毒づくところ、『門』からの引用を朗読し、朗読するほうも聞くほうもいっしょに圧倒されてしまうところなど、個々の面白かった部分を挙げていったら切りがない。なのでふたつだけ書く。

 まず「へえ」と思ったのは、本の最初が『こころ』を扱う回であること。
 漱石の執筆順じゃないのか、じゃあ何の順?と気になったので、目次の通りに作品を並べ、その発表年と、記録されている漫談の行なわれた日付を書き出してみるとこうなる。何度見ても『坑夫』が大トリなのには胸が熱くなるけど、それは今はいい。

『こころ』(1914) 2013/09/27
『三四郎』(1908) 2009/11/30
『吾輩は猫である』(1905)2016/10/24
『坊っちゃん』(1906) 2007/09/22
『草枕』(1906) 2015/05/13
『門』(1910) 2015/11/08
『行人』(1912) 2016/03/12
『坑夫』(1908) 2016/05/21

 小説の発表順でもないし、漫談の順でもない。何の順だろう。読者の興味がなるべくうまくつながるように、作品のネームバリューを考え合わせて配列した(『坑夫』が最後)、というのがおそらく、きっと正解なのだろうとは思う。思うけど、勝手なことを書くと、奥泉光が何度も持ち出す話がある。
《奥泉 ―― […]漱石の一貫したテーマは孤独ということなんだと思うんですよ。漱石の孤独はすごく独特で、どういう孤独かというと、つまりひとりでいるという孤独じゃない。ひとりになっちゃう孤独なんかたいしたことない。そうではなくて、人とコミュニケーションして、失敗しちゃう孤独なんですよ。》
[…]
《『坊っちゃん』もそうですよね。最後の『明暗』なんかも同じです。つまり、たいしたことは起こってないのに、人物たちがものすごく緊張していている。『明暗』の夫婦はべつにお互い浮気してるとかなにもないですよ。なにもしてないのに夫婦間にただならぬ緊張感が走っている。どういう緊張かというと、コミュニケーションに失敗するのではないかという恐怖感なんですよね。》『三四郎』pp60-1

《奥泉 ―― […]「吾輩」も、しゃべることだけはできないんだよ。せめてテレパシーで自分の考えを人間に伝えられるといいのに、それもできない。
いとう ―― ああ、人間語をしゃべれないんだね。でもこれって、漱石っぽい。コミュニケーションできたかどうかわからないという問題は、『坊ちゃん』だろうがなんだろうが、漱石作品の主人公が常に持っているもどかしさだと奥泉さんが年来言ってるやつ。》『吾輩は猫である』p96

 コミュニケーションの失敗と孤独にまつわるこの話は、本書後半の『門』や『行人』の回でいっそう深められていく印象があった。
 そういった効果も加味して順番が練られているのだとしたら、喋っているふたりだけでなく、それをした人も巧みであることだなあと思った。
(ついでに書くと、この本も前の『文芸漫談』も、ふたりの発言の中で太字にする部分のセレクトがすごく絞られており感心する。わたしだったらもっとだらだら太字だらけにしてしまう)

 そしてもうひとつ引用したいのは、いまの時代に「ふつうの小説」として一般的に通用している小説があるとして、漱石が模索していた「そういうのではない小説」のありかたを、ふたりが漱石作品のあちこちから推測してあれこれ喋っている部分である。
 そのヒントが顕著なのが『草枕』であり、そして『坑夫』であることには深く納得する。「そりゃそうだ」と思うから意外性はない。
《いとう ―― そもそも那美さんは強力な物語を持っているのに。
奥泉 ―― そう。那美さんは、かつて川に身を投げた伝説の「長良の乙女」に似ていると言われているんですよ。さらに先祖にも長良の乙女みたいに自殺した人がいる。
いとう ―― 出た! 物語中の物語ですよ。「親の因果が子に報い」でしょ、これ。
奥泉 ―― 画工のイメージの中ではオフィーリアとも重ねられる。だからこの人は絶対に身投げするしかないんだよ
いとう ―― 物語的には。
奥泉 ―― 僕が作者だったら、「うーん、なんとか身投げさせるか」と考えちゃう。
いとう ―― 身投げさせなかったら、読者がかなり肩すかしを食らう感じがあると思うんですよ。でも身投げしない上に、肩すかし感もない。せいぜい岩場で向こうに落ちるだけ。不思議だなあ。
奥泉 ―― 漱石はわざとそこまでやっておいて、これが小説というものだぜというはっきりした信念を見せている。だからこれは漱石が本気を出した小説なんですよ。新聞小説作家になってからは本気を出していないと思う。
いとう ―― そんな感じする?(笑)
奥泉 ―― いや、言いすぎました(笑)。》『草枕』p169

《奥泉 ―― いとうさんと僕が考える小説というものにいちばん近いのが、『坑夫』なんだよね。つまり僕らの小説の定義は、「なんじゃこりゃ!」と思わず言いたくなるようなもの。[…]
いとう ―― ストーリーもほぼないよ。坑夫のところに雇われに行き、でも働き始める約束もないまま坑[あな]に入らされて、なんとか戻ってくる。そこで、ぷつっと終わる。物語的な起承転結とか一切なし。
奥泉 ―― 過剰に反物語的。『草枕』はアンチ物語を真正面から打ち出した作品だけど、『坑夫』のほうが反物語のエッジが効いてる気がする。》『坑夫』pp235-6

 で、わたしがいちばんおどろいたのは、『三四郎』もそっち側の作品だという発言。これは「わかりやすい小説のように見せて、実はすごい実験小説なんだ」、と(いとう、p70)
 その指摘は、作中で登場人物の弾くバイオリンが、断片的な音しか鳴らさないという点からなされる(!)。
(しかも、『三四郎』より前にある『こころ』の回でも琴の音について似た言及があり、ここの指摘の予告として働くようになっている。やっぱり見事な構成)
《奥泉 ―― […]いわゆる西洋古典音楽[クラシック]というのは構築的なんですが、漱石はそういう音楽にはけっこう否定的、というか、正面から書かないんですよ。むしろ断片の響きがよく小説中に出てくる。バイオリンやピアノは必ずノイズっぽく鳴るんですよ。それがいいというふうに漱石は書くんですよね。
いとう ―― なるほど。つまり音楽というのは時間芸術だから、時間が流れていくのを編成していくわけです、いろんな和音で。だけど漱石の言ってる断片というのは時間芸術じゃないですよね。むしろ音が絵になってるわけですね。
奥泉 ―― そう、つまり画なんですよ、漱石は。絵画的な発想をしているんですよね。》『三四郎』pp68-9

 ここの部分と、ここから続く2ページが本書の白眉だと思う。
 絵画のような小説、と言っても一瞬の静止画ではなく、時間の流れとともに変化する人物のありようを内側に封じ込めた絵画としての小説、といったふたりの仮説は、こうまとめてもよくわからないだろうから、実物で読まれるのをおすすします。
《いとう ―― 漱石はなんでそんなふうなことを発想できたんでしょうね。[…]
奥泉 ―― 漱石が有利だったのは、僕たちがすでに自明としてしまっているリアリズム以前を知っているということなんじゃないかと。》『三四郎』pp70-1

「作家の○○についての本」の最大の功徳は、それを読んだあと、○○本人の作品を手に取らせることだと思う。わたしは『坑夫』だけでなく、『三四郎』と、あと『門』も読み直すことにしました。
2017/05/05

漱石『坑夫』 イン 文芸漫談


 引っ越しをして1ヶ月になる。だいぶ遠い土地に移ってきたけど立派な書店も見つかって、店内をぐるぐる歩き回ること数周、新刊コーナーの前を通るのもこれで何度めかというときに、それまで見過ごしていたこんな本に目が留まりアッと思った。

漱石漫談
漱石漫談
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いとうせいこう 奥泉光
河出書房新社
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 まじか、と手に取り、おそるおそる目次をめくると『坑夫』の2文字が見えたので、しっかり掴み直してレジに急いだ。いくらか体温も上がっていた気がする。その理由をこれから書く。

 いとうせいこうと奥泉光の二人が、漫談の形式で文学作品を語るライブイベントが「文芸漫談」。
(それを活字化してまとめた最初の単行本がこちら。その文庫版がこちらだがすごいタイトルだ)。
 毎回小説1作を題材にする形式でいまも年に数回ずつ続いているその様子はたまに「すばる」に掲載されていたと記憶するんだけど、最近はぜんぜん追えていなかった。
 でもこの新刊のタイトルなら、その文芸漫談シリーズから夏目漱石の作品を扱った回をまとめて1冊にしたことはすぐわかり、するとわたしの興味はただ一点、「じゃあ、じゃあ、『坑夫』は取り上げられているんですか」になる。

 夏目漱石の『坑夫』。
『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』、『こころ』なんかに比べたらもちろん、『彼岸過迄』だったり『道草』だったりと比べてもいまひとつ話題になることが少ないような気がするこの作品が、わたしの漱石ベスト・オブ・ベストだった。

 だから『坑夫』について書かれているものならなるべく読みたい・読ませてほしいとずっと思っているのだが、ここしばらくでいえば『別冊太陽 夏目漱石の世界』(2015)では『坑夫』は目次にもなかった(だから買えなかった)。
 そして奥泉光その人でいえば、『夏目漱石、読んじゃえば?』(2015)なんて本を出しているのに、やはり目次のチラ見では『坑夫』で項は立てていないようだった。
 さらに何より文芸漫談コンビでいえば、去年の『文藝別冊 夏目漱石:百年後に逢いましょう』(2016)の表紙を本屋で見て、アッこれは文芸漫談も入ってる、ならもしかして…!と期待して読んだものの、扱っているのは『草枕』だったし、それにこのムック、全ページを通してほかの執筆陣にも『草枕』リスペクトが多く、そりゃ『草枕』はすごい、すごいでしょうよ、知ってます、でも『草枕』と同じかそれ以上に『坑夫』だってあたらしいじゃないか――と、臍を噛む思いだったのである。
 つまり、漫談のお二人も『坑夫』はあんまりお好きじゃなかったのかな、と。

 それが、何の前情報も知らずに、自分の部屋からのルートもまだあやしい本屋でもって遭遇したこの新刊の目次で、ついに『坑夫』が選ばれている、『こころ』や『坊っちゃん』と同じくしっかり1回を費やして語られている――しかも本のいちばん最後、大トリで――のを見つけたのである。
 そりゃ即買うし、大急ぎで帰ってまず『坑夫』の回だけを読んでから書き始めたのが今回のこの文章である。本題はここから。

坑夫 (岩波文庫)
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夏目 漱石
岩波書店
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 わたしが『坑夫』(1908)をすごいと思うのは、ひと言でいうとこれは「文章が一文一文進むごとに小説ができあがっていく、その過程を読むたびに体験できるすぐれて生々しい小説」だからなのだが、これではわれながら意味がわからないので、ざっと説明してみる。
 書かれた順番は、長めのものだと『草枕』(1906)を一気に書いたあと、初めての新聞連載である『虞美人草』(1907)が続いて、『坑夫』はその翌年、2作めの新聞小説として3ヶ月かけて発表されたそうだから、漱石のキャリアではまだ前半の作品ということになるはずだ(その次が『三四郎』)。
 小説は「自分」の一人称で進む。以下、引用は岩波文庫版から。
《さっきから松原を通ってるんだが、松原と云うものは絵で見たよりも余っ程長いもんだ。何時[いつ]まで行っても松ばかり生えていて一向要領を得ない。此方[こっち]がいくら歩行[あるい]たって松の方で発展してくれなければ駄目な事だ。》p7

 若い「自分」は東京の生家で何か問題を起こしたらしく、もうまともな世界には居られないと思い詰めて出奔し、ひと晩たってもまだ歩いている。「何でも暗い所へ行かなければならない」などと言っているので、つまり死ぬつもりなのである。
 それが、たまたま出遭った胡散臭い男から「坑夫になって働くつもりはないか」とスカウトされて承諾、銅山へ向かう汽車に乗る――と続いていくのだけれども、こんな冒頭の数ページからつまずく点がどんどん出てきて、小説はなめらかには進まない。

「自分」の一人称とさっき書いたが、起きていることがリアルタイムで報告されるわけではない。『坑夫』の語り手は、19歳だった自分の身に起きた出来事を、すべてが終わったあと、もっとずっと先の時点からふり返って、この小説を語っていく。
 それだけだったら『坊っちゃん』(1906)だって同じなわけだが、『坑夫』の語り手はもっと変である。
 まず、語っている「いま」の時点がいつなのか、ぜんぜんはっきりしない。
『坊ちゃん』のそれもたいがい大雑把ではある(東京に帰り街鉄の技手になったあと、くらい)けれど、『坑夫』の場合は最後まで読んでも、そして繰り返し読んでも、強くなるのは「いま」がいつなのか決めていないという印象、語りの現在が語りの現在として定まっていない感触である。
 だから読んでいるあいだじゅう、語り手と語りの内容の距離は(語っている自分と語られている「自分」の距離は)いいかげんに伸び縮みする。落ち着かない。
 そして、語っている内容が変である。
 語り手は過去の自分の言動、起きた出来事を語るだけでなく、当時の自分の心理の移り変わりまでも、いまの時点(いつだか不明な、いまの時点)から分析して説明を加えようとする。
 その分析が回想としては常軌を逸する細かさで続き、そのあいだ出来事の進行はストップするけどお構いなしで、そのくせたいていの場合、分析は途中で「もう無理」と投げ出されてしまう。
 というのは、過去の心理状態をふり返り、心理の外枠になりそうな自分の性格について語ろうとするたびに、この語り手は「自分の心理がどうにも一貫していない」という事実にぶつかって、無理につじつまを合わせるよりも「一貫してない」「説明がつかない」と書いてあきらめるほうを選ぶからだ。
「まずこう思った」「つぎにこう変わった」「つながってない」「そういうものだから仕方がない」。正直すぎる。
 自伝であれ、自伝形式の小説であれ、そういった類の書きものを成立させるうえで必要とされる正直さの程度を踏み越えると、「正直」は「過激」になる。小説の、前から1/3を過ぎたあたりにはこうある。
《よく調べて見ると、人間の性格は一時間ごとに変っている。変るのが当然で、変るうちには矛盾が出て来るはずだから、つまり人間の性格には矛盾が多いと云う意味になる。矛盾だらけのしまいは、性格があってもなくっても同じ事に帰着する。》pp103-4

性格があってもなくっても同じ事に帰着する。」!!
 この一節だけでも、「そんなことを言っていたらこれは小説になるのか」との疑いが湧いてくるが、じつはその疑いは、語り手じしんが小説のはじめから繰り返し繰り返し表明していたものなのである。
『坑夫』において、人間の性格の一貫性(まとまり)への疑いは、いわゆる小説とされているものの小説らしさ(まとまり)への疑いと並行してあらわされる。
《本当の事を云うと性格なんて纏った[まとまった]ものはありゃしない。本当の事が小説家などにかけるものじゃなし、書いたって、小説になる気づかいはあるまい。本当の人間は妙に纏めにくいものだ。》p14

《小説になりそうで、丸で小説にならない所が、世間臭くなくって好い心持だ。[…]もっと大きく云えばこの一篇の「坑夫」そのものが矢張そうである。纏まりのつかない事実を事実のままに記すだけである。小説の様に拵えた[あつらえた]ものじゃないから、小説の様に面白くはない。その代り小説よりも神秘的である。凡て[すべて]運命が脚色した自然の事実は、人間の構想で作り上げた小説よりも無法則である。だから神秘である。と自分は常に思っている。》p124

 なめらかに進む小説、きちんとまとまった小説、そういった「いわゆる、ふつうの小説として通用しているらしい小説」への素朴な突っ込みを、『坑夫』の語り手は、この小説を進めながら行なっていく。

 そんな語り手を採用した書き手が、ただ正直で素朴であるはずはない。
 自分の語り方に「これじゃ小説にならんのである」とぶつくさ文句を連ねながら、それでも語り続ける語り手の口と筆を借りて、職業作家に成りたての漱石が「じゃあ小説って何なのよ」「書こうと思えばこんなふうにだって書けちゃうわけだろう」との問いかけと確かめを一歩一歩やってみた、実作かつノート、ノートかつ実作として『坑夫』は読める。
(語り手の「いま」が定まっていない、と前のほうで書いたけど、場所によっては語り手の立場さえ定まっておらず、漱石が地声で語っているとしか見えないところも数ヶ所あって「おい」と声をかけたくなってしまう。書こうと思えばそんなふうにだって書ける)

 そんなところからいっても、およそ筋も起伏もない『草枕』を面白く読む人なら『坑夫』もきっと楽しめるはずだし、そうでなくても、漢語の詰め込み(言葉の多彩さ)を武器のひとつにする『草枕』に比べて『坑夫』のほうがずっととっつきやすいと信じる次第なのだが、ここまでの紹介の仕方では、『坑夫』はいかにも理屈っぽい小説、骨ばっかりで身の少ない小説、実験小説らしく実験してみました小説、つまりは、読みにくい小説のように思われるかもしれない。
 そうではなく、まったくそうではなくて、上述したようないわゆる小説への問題意識――という言葉も硬すぎるから、「こんなふうにだって書けちゃうわけだろう意識」とでも言い換えたい――そのものに価値があるのではなく、そんな意識を充填して書かれていく小説が、そのせいで生々しいライブ感のもとに進行していく、そこがいちばん面白いのだと強く言いたい。
 それは、語り手が自分で突っ込みを入れつつ進むから、というライブ感にはとどまらない。実作かつノートとして読めるとさっき書いた、その未完成ぐあいが語り口として生々しい、というのも一面ではあるけどまだ足りない。
 どうしても引用が要る。長々とした引用が。

 小説の前半、「自分」が銅山に連れられていくまでを語る部分に顕著なのだけど、道中の風景を描く際に語り手は、「どうしてその時の自分に風景がそのように見えたのか」まで書き込もうとする。しぜん、心理と風景は不可分に絡み合う。
 これは、登場人物の心理を風景描写で象徴的に示す(よくある)やり方と似ているようでぜんぜんちがう。まるで心理を語る文章によって風景が作られていく、そのさまがそのまま書いてある。文章が風景を作るのだ。
《時に日は段々暮れてくる。仰向いて見たが、日向は何処[どこ]にも見えない。只日の落ちた方角がぼうっと明るくなって、その明かるい空を脊負って[しょって]る山だけが目立って蒼黒くなって来た。時は五月だけれども寒いもんだ。この水音だけでも夏とは思われない。況して[まして]入日を背中から浴びて、正面は陰になった山の色と来たら、――ありゃ全体何と云う色だろう。只形容するだけなら紫でも黒でも蒼でも構わないんだが、あの色の気持を書こうとすると駄目だ。何でもあの山が、今に動き出して、自分の頭の上へ来て、どっと圧っ被さる[おっかぶさる]んじゃあるまいかと感じた。それで寒いんだろう。実際今から一時間か二時間のうちには、自分の左右前後四方八方悉く[ことごとく]、あの山の様な気味のわるい色になって、自分も長蔵さんも茨城県も、全く世界一色の内に裹まれて[つつまれて]仕舞うに違ないと云う事を、それとはなく意識して、一二時間後に起る全体の色を、一二時間前に、入日の方の局部の色として認めたから、局部から全体を唆されて、今にあの山の色が広がるんだなと、どっかで虫が知らせた為に、山の方が動き出して頭の上へ圧っ被さるんじゃあるまいかと云う気を起したんだなと――自分は今机の前で解剖して見た。閑[ひま]があると兎角[とかく]余計な事がしたくなって困る。その時は只寒いばかりであった。傍に居る茨城県の毛布[ケット]が羨ましくなって来た位であった。》pp81-2

※途中に出てくる「茨城県」は「長蔵さん」と同じで登場人物

 このような前半に対して後半は、たどり着いた銅山の深い坑道を案内されて見て回る一部始終が大半を占める。
 真っ暗な闇の中、小さな灯の揺れるカンテラだけ提げて、ときに腰まで冷たい水に漬かりながらうねうね続く狭くて細い道を歩き、ぬらつく梯子を下へ、もっと下へと降りて、底まで降りきったあとはまた登らなくてはいけない坑[あな]への行き帰りが、実際に見てきたようにありありと具体的に、また、さまざまな比喩を動員して語られる。
 ここでは、心が風景を作っていくのとは逆に、自分の外にビクともしない不動の現実として坑道がある。すると今度は、厳然と存在する岩のなかを、自分の身体さえろくに見えないまま必死で歩いていくうちに、「もう世間には出られない」「死ぬか」「生きるか」と二転三転する「自分」の心理が坑道の描写とやはり絡み合い、酷使される身体から心が出たり入ったりして見える。描写が身体を連れて歩いていく。
《「八番坑だ。これがどん底だ。水位[ぐらい]あるなあ当前[あたりめえ]だ。そんなに、おっかながるにゃ当らねえ。まあ好いから此方[こっち]へ来ねえ」
と中々承知しないから、仕方なしに、股まで濡らして附いて行った。ただでさえ暗い坑の中だから、思い切った喩[たとえ]を云えば、頭から暗闇に濡れてると形容しても差支えない。その上本当の水、しかも坑と同じ色の水に濡れるんだから、心持の悪い所が、倍悪くなる。その上水は踝[くるぶし]から段々競り上がって来る。今では腰まで漬かっている。しかも動くたんびに、波が立つから、実際の水際以上までが濡れてくる。そうして、濡れた所は乾かないのに、波はことによると、濡れた所よりも高く上がるから、つまりは一寸二寸と身体が腹まで冷えてくる。坑で頭から冷えて、水で腹まで冷えて、二重に冷え切って、不知案内の所を海鼠[なまこ]の様に附いて行った。すると、右の方に穴があって、洞のように深く開いてる中から、水が流れて来る。そうしてその中でかあんかあんと云う音がする。作事場に違ない。初さんは、穴の前に立ったまま、
「そうら。こんな底でも働いてるものがあるぜ。真似が出来るか」》pp221-2


《[…]硬く曲がった脊中[せなか]を壁へ倚[も]たせた。これより以上は横のものを竪[たて]にする気もなかった。ただそのままの姿勢で向うの壁を見詰めていた。身体が動かないから、心も働かないのか、心が居坐りだから、身体が怠けるのか、とにかく、双方相び合って、生死の間に彷徨していたと見えて、しばらくは万事が不明瞭だった。始めは、どうか一尺立方でもいいから、明かるい空気が吸って見たい様な気がしたが、段々心が昏く[くらく]なる。と坑のなかの暗いのも忘れて仕舞う。どっちがどっちだか分らなくなって朦朧のうちに合体稠和して来た。然し[しかし]決して寝たんじゃない。しんとして、意識が稀薄になったまでである。然しその稀薄な意識は、十倍の水に溶いた娑婆気[しゃばけ]であるから、いくら不透明でも正気は失わない。丁度[ちょうど]差し向いの代りに、電話で話をする位の程度――もしくはこれよりも少しく不明瞭な程度である。》pp226-7


《梯子はまだ尽きない。懸崖からは水が垂れる。ひらりとカンテラを翻すと、崖の面[おもて]を掠めて弓形にじいと、消えかかって、手の運動の止まる所へ落ち附いた時に、又真直[まっすぐ]に油煙を立てる。又翻す。灯は斜めに動く。梯子の通る一尺幅を外れて、がんがらがんの壁が眼に映る。ぞっとする。眼が眩む。眼を閉って[ねむって]、登る。灯も見えない、壁も見えない。ただ暗い。手と足が動いている。動く手も動く足も見えない。手触足触[てざわりあしざわり]だけで生きて行く。生きて登って行く。生きると云うのは登る事で、登ると云うのは生きる事であった。それでも――梯子はまだある。》pp236-7

 風景も、心も、文章が書いていくから「ある」ことになる。書かれたものを読むうえで、これは当たり前という言葉もあたらないくらい当たり前すぎる前提なのだけど、セルフ突っ込みと未整理な分析をつなぎ、断片を断片のまま並べてなお延びていく力を持った『坑夫』の曲がりくねりデコボコした語りを追っていくと、読んでいるあいだずっと、その当たり前のことに、見えないはずの前提に、目を見開かれされ続ける。
 小説の生成する様子を写し取っていく小説。
 いちばん最初に「文章が一文一文進むごとに小説ができあがっていく、その過程を読むたびに体験できるすぐれて生々しい小説」と書いたのはそのような意味である。
《さっきから松原を通ってるんだが、松原と云うものは絵で見たよりも余っ程長いもんだ。何時[いつ]まで行っても松ばかり生えていて一向要領を得ない。此方[こっち]がいくら歩行[あるい]たって松の方で発展してくれなければ駄目な事だ。》p7

 この書き出しが、2回めに読むときは、これじたいでうねり、動いて見える
 そして、結局たいしたことは起きないまま終わるこの小説の幕切れ、あまりに格好よすぎて引用できないが、「よっ、小説!」と呼びかけたくなるラストの切れ味は、冗談でなく、『明暗』の終わりに匹敵する。
 夏目漱石はこれを1908年に書いた。早い。早すぎると思う。

 ハッとする文章が次から次に出てきて、あたまから終わりまで読みどころのかたまりになっている『坑夫』、何より、まとめられるものなんてない、と述べているこの小説は、青空文庫でもここにあるし、文庫もいろいろ出ているので、いちどためしに読んでみてほしい。
「ライブ感」とか「生成」とか書くのはかんたんだけど、そういうことは本来、全文を引用しながら追っていかないと意味がないのだから。

 → ちくま文庫
 → 新潮文庫
 → 岩波文庫
 → Kindle版(無料)


 ――と、好き放題に書いてきたが、このような小説として読んできた『坑夫』について、これまで「あんまりお好きじゃなかったのかな」と淋しく勘ぐっていた、いとうせいこう・奥泉光両氏のセッションからごく一部を引用する。わたしは少し、熱が出ました。

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《いとう ―― 僕も奥泉さんもこの小説がほんと好きだけど、かなりマイナーだから、これまで取り上げるには至らなかった。
奥泉 ―― だから神奈川近代文学館で漫談を、と言われたとき、よし『坑夫』だ!と。
いとう ―― 漱石ハードコア。ここでやらなかったらどこでやるんだと。》p229

 むちゃくちゃ、高評価であった。
 もういちど書く。むちゃくちゃ、高評価であった
《奥泉 ―― いとうさんと僕が考える小説というものにいちばん近いのが、『坑夫』なんだよね。つまり僕らの小説の定義は、「なんじゃこりゃ!」と思わず言いたくなるようなもの。[…]
いとう ―― ストーリーもほぼないよ。坑夫のところに雇われに行き、でも働き始める約束もないまま坑[あな]に入らされて、なんとか戻ってくる。そこで、ぷつっと終わる。物語的な起承転結とか一切なし。
奥泉 ―― 過剰に反物語的。『草枕』はアンチ物語を真正面から打ち出した作品だけど、『坑夫』のほうが反物語のエッジが効いてる気がする。》pp235-6

 でしょう! そうでしょう!!
 「あんまりお好きじゃなかったのかな」なんて、下司の勘ぐりだった。
《奥泉 ―― ちょっと不思議なナレーションなんです。
いとう ―― 立脚点がゆらぐのよ。あれ、そこ突っ走っちゃうの、と何度も思った。もしかしたら、漱石の頭の中で整理されてない部分もあるのか。でもそれが僕にとってはリアルだし、面白かった。》p238

《奥泉 ――[…]坑道の底から這い上がるシーンの描写なんてものすごくリアルでしょ。でも、これは取材したから書けたわけじゃない。漱石が細部まで想像力を発揮して、場面にぐわっと入り込んでいるから書ける。漱石の全小説の中で、細部にもっとも想像力を働かせたのがこの小説だというのが僕の認識です。》p238

『坑夫』本文から引用しつつ語っているところも引用する。そう、ここは(ここも)本当にすごい。岩波文庫だと64ページから。
《奥泉 ―― そして汽車を降り、二人で歩き始める。ここの風景描写はすごいですよ。夢なのか現実なのかわからない。駅を降りると一直線の道です。

〈左右の家並[いえなみ]を見ると、――これは瓦葺[かわらぶき]も藁葺[わらぶき]もあるんだが――瓦葺だろうが、藁葺だろうが、そんな差別はない。遠くへ行けば行く程次第次第に屋根が低くなって、何百軒とある家が、一本の針金で勾配[こうばい]を纏められる為に向うのはずれから此方[こっち]まで突き通されてる様に、行儀よく、斜に一筋を引っ張って、何所[どこ]までも進んでいる〉。

いとう ―― うまいなあ。『坑夫』の魅力はリアルなところはリアルな描写をし、さっきみたいに人間関係は四角になったり丸くなったりする。この町の描写もほぼ抽象。絵でいえば、抽象画とリアリズムの具象とが、主人公の気持ちの変化と同時に起きている。文も変わる。過激です。
奥泉 ―― その交替が格好いいんですよね。夢幻の風景は筋とは関係のない叙述です。でもそのとき主人公が体感したに違いない鮮烈な風景を漱石は想像していく。》pp243-4

 記録によれば、文芸漫談のこの回はおよそ1年前、神奈川近代文学館で2016年5月21日に行なわれていた
 ぜんぜん、知らなかった。なんで自分が客席にいなかったんだ…と悔しくなり、すぐにその10倍の強さで、それがこの本で読めてよかったと思った。
《いとう ――[…]物語ではなくて、「事実」を集めてくるという手法ね。『坑夫』、やっぱり刺激的な小説です。漱石作品の中では異色作ですが、文の生々しい力にもびりびり来ました。
奥泉 ―― やっぱり素晴らしかったよね。ぜひこれを機会に皆さんも読んでください。》p254

「皆さんも読んでください」。これに尽きる。
『坑夫』について、28ページを費やしてほめちぎってくれた『漱石漫談』は、ほかの部分もきっと面白いのじゃないかと思う。残りも読んだら、また書きます。


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(2012-09-27)