2008/07/03

イランと鰐


 駅を出て、何も考えずに煙草の自販機にお金を入れてボタンを押したら「taspoでタッチしてください」。買えず。タスポ効果的だよタスポ。
 
 そんなこととは関係なく、先週、早稲田松竹で見たアニメ2本のこと。
「ペルセポリス」と「カフカ 田舎医者」。土曜日(6/28)とはいえ、午前中からけっこうな入りだった。私も行ったわけだし。
 
 まず「ペルセポリス」(2007)
 何の予備知識もなかったが、これは、イラン生まれでいまはフランスに住んでいる女性が描いたコミックを原作とする、自伝アニメだった。公式サイトがここにある。感想…… 立派な半生だった。

 次に「カフカ 田舎医者」(2007)
 これも知らなかったんだが、「田舎医者」だけでなく、山村浩二傑作選だった。映画館の紹介ページくらい読んでから行け、という話である。

 上映されたのは「校長先生とクジラ」、「頭山」、「年をとった鰐」、「子供の形而上学」、そして「カフカ 田舎医者」。
 ぐるんぐるん絵が変容していくほかの作品に対し、唯一、紙芝居っぽかった「年をとった鰐」が、いちばんの衝撃。原作は有名な絵本で、有名だけど未読(→これ)。
 とにかく、鰐の動きがすごかった。長い胴体の前後にひと組ずつ短い脚がついている、そんな動物の身の運びが、ごく少ない(たぶん)絵で表現される。あんなものやこんなものを口に入れ、アゴを動かす鰐。体の向きを変える鰐。岩に登る鰐。そして蛸。
 誤解されるかもしれないが、「こんなにエロくていいのだろうか」と考え込んだ。“声優”ではない“朗読”に、ピーター・バラカンを選んだセンスにも敬服する。
 鰐のショックが冷めないままだったので、「カフカ 田舎医者」は、DVDでもういちど見直したい。TSUTAYAにあるんだろうか。
 早稲田松竹での上映は7/4(金)まで。


「年をとった鰐」&山村浩二セレクト・アニメーション   カフカ 田舎医者
2007/06/09

日記

■ MXテレビ(9チャンネル)で月曜23時から再放送中の「ウルトラセブン」は、いよいよ来週6/11と6/18で最終話。「史上最大の侵略(前後編)」。

早稲田松竹「フラガール」(2006)を見てきた。松雪泰子が歯を食いしばって築きあげたものを、笑顔の蒼井優があざやかにかっさらう映画だと思われた。

 これだけは断言できるのだが、巷間いわれていたほど訛りの再現性は高くないので、距離をもって見ることができひと安心(当たり前だ、映画なんだから)。とはいえ、完成した常磐ハワイアンセンターの天井が映ったときには、塩素と湿気の入り混じった暑苦しい空気が押し寄せて、一瞬、鼻がきかなくなった。
 高校のとき、ハワイアンセンター(現:スパリゾートハワイアンズ)の城下町から通学する友達がいたが、彼が言うには、「小学校の同級生に、火吹き男の息子がいた」。そんな映画も見てみたい。
 上映は最終日で、“席が八割方埋っている早稲田松竹”ははじめてだった。むせび泣く声とか聞こえてきた。時間が合わなくて併映の「ゆれる」は未見。


 こんなものを見つけた。
  ほぼ日:「いまさらフラガール!」
  http://www.1101.com/hulagirl/index.html
2007/05/17

映画「恋愛睡眠のすすめ」(2006)

ミシェル・ゴンドリー監督

 ミシェル・ゴンドリーの新作が、しばらく前から公開されていたと知ったので見に行った。渋谷のシネマライズ。スペイン坂は、実際の傾斜以上に急角度に思われる。

 タイトルからしてどうも夢の話らしい、くらいの予想をしていたが、もっと不思議なものを見せられた。
 しばらくメキシコで暮らしていた男の子がパリに戻ってきて、隣室に引っ越してきた女の子と仲良くなり、さてそれから、みたいな筋はあるのだけど、これは、公式サイトで紹介されているような、夢見がちな主人公の現実と夢が混ざっていって、次第に区別がつかなくなり……という映画ではない気がする。たぶん。
 現実を浸食する夢の世界、とか、危うし客観!とかいうよりも、手作り感満載の小道具を使って撮った変な映像のあれこれを、流れをもった105分のつらなりにするために、いちおうの枠として「夢」をもってきたのじゃないだろうか。たぶん。
「たぶん」「たぶん」と続いたが、たぶん、映画館を出たあとで、自分の見たものから「夢」という設定を取り外しても、映画の印象は変わらない。だから上映中も、どこから夢のなかに移ったのか、いま映ってるこれは現実なのかとか考えるのを途中でやめたのはよかったんだと、これは「たぶん」ではなくはっきり思う。そんな見方、はじめからするなよとも思った。
 たとえば、ちぎった綿を天井に投げて、すかさずピアノの正しいキーを叩くと綿は浮かんだまま落ちない雲になる、というようなシーンには、ぜんぜん派手ではないのにすごいしあわせな空気があふれていた。いま思い出しても顔がにやける。この言葉、あんまり使いたくないのだが、映画のあちらこちらが、めちゃくちゃかわいいのである。手芸でマジックリアリズム!
 そういった、どばどば多幸感を産出する場面の数々を作るにあたって、「夢」と同じように「恋愛する二人」というのも、それらを映画にみちびき入れるための口実なのだ(それがなくたって映像は成立するのだ)、とまでは言えないように思われるのが、なぜか悔しかった。

 よくわからんけど楽しそう、という空気は、ダンボールとセロファンの小道具や珍妙な発明品ばかりでなく、もっと根っこからこの映画を浸していて、主人公が入り込むことになる、働いてる人がひどく親密な小さい職場、というものの描き方もまた、思い返すだに楽しい気持にさせられる。日常的に衝突が起こるのまで含めた、親密な空間。凶悪な下ネタ野郎はいても、悪人は一人もいない。倉庫のような狭苦しい仕事場で、ヒロインが同僚と喋っているうちにヒートアップして軽い取っ組み合いになり騒ぎ出すと、ドアの奥からうんざりした顔の上司が登場、

「ケンカするんなら友達をやめろ!」

と一喝するのに笑った。登場人物は全員いい年をした大人でありながら、主人公とヒロインを「男の子」「女の子」と呼ぶほかない世界がたしかにあった。

 このようにかわいらしい映画の、かわいらしいプログラム(薄いピンク色)も逡巡した末に買ったが、監督へのインタビューの一節だけで充分、もとは取れたように思う。
Q. 観客にはこの映画から何を感じてほしいですか?
A. 女の子にモテない僕をかわいそうだと思って欲しい[…]多くの女の子から、“女の子に相手にされなかった過去を克服できるよう私が手を貸してあげる”という申し出があったらいいね。
2007/02/04

爬虫類は「爬」の字が怖い

 あれはどういう関係だったんだろう、それぞれ中学生と大学生くらいの男子がふたりで話しているのを見た。中学生は大学生にいちおう敬語を使っていたから、兄弟ではないと思われる。

中「映画は見ないんですか、映画は」
大「たまに見るけどね。好きなの?」
中「『キング・アーサー』とか『トロイ』とかめちゃ好きですよ。
  そういうの見ないんすか?」
大「ああ、それ系なら『アナコンダ』が面白いよ」
中「それちがうでしょう、おれが好きなのは戦い系なんですよ!」
大「馬鹿お前、『アナコンダ』は戦いだぞ」
中「ち~が~う~ たぶんち~が~う~」

 大人が子供を手玉に取る風情に深く感じ入ったので、帰り道、隣駅のTSUTAYAまで行ってDVDを借りてきた。それでついさっき見終えた私に言えるのはひとつだけ、「アナコンダ」は戦いだ。



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2006/12/09

「パプリカ」を見にいく

今敏監督、2006


 映画版「パプリカ」を見てきた。なにかすごく見事な90分だった気がする。

 原作だと、いくつかの出来事の進展を追うことで設定を説明し、中盤あたりから徐々に加速、クライマックスへとなだれ込むのだったと思うが、映画はこれを大胆にカットして再構成、原作の軸であるストーリーがいよいよ盛り上がってきたあたりからはじまるので驚いた。しっちゃかめっちゃかな幕開けにひたすら急展開が続くなか、随所随所で必要な説明を織り込んでいく。要領のいいダイジェストというより、蛮勇に近い力技。

「パプリカ」の舞台は近未来の日本、精神医療研究所。この世界では、特殊な機器を使うことで患者の見ている夢を映像としてモニタしたり、セラピストがその夢のなかに入り込むことができるようになっている。患者と一緒に夢のなかからビョーキの原因を探索するのである。なかでも優秀な研究員である千葉敦子は、“パプリカ”というコードネームでもって社会的に地位のある患者の治療を極秘裏に行ない、めざましい効果をあげている。さらには“DCミニ”という新装置によって、患者とセラピストは簡単に夢を共有することができるようになったのだが、これを悪用すれば任意の相手に他人の悪夢を投射して精神を破綻させることもできるから、千葉をこころよく思わない人間はもちろん悪用しようとする。しかも“DCミニ”には、使えば使うほど効果が高まっていく特性があり、ひらたく言うと、使用者の夢の出来事が現実に発生する。かくして世界は現実と夢が入り混じり、そんななかで“DCミニ”の争奪戦および人格破壊を狙った戦いが勃発する。映画はここらへんからはじまる。

 同じ今敏の監督した「パーフェクトブルー」(1998)というアニメは、たしかアイドルから女優に転身した女の子が主人公で、はじめのうち、そのまま実写にできるくらい地味で淡々とした話が進行するのだが、彼女は現状に対する不満から次第に妄想を膨らませ、それは徐々に現実を侵食してだんだん区別がつかなくなっていき、ついには現実/妄想の境界が破れます、みたいな映画だったと記憶する。しかしこのようなあらすじ以上に私がはっきり憶えているのは、8年前にこれを見たとき、やたらと反感を抱いたことだった。
 思うに、アニメは“現実”と“非現実”を描き分けるのには向かないのじゃないだろうか。「パーフェクトブルー」には、リアルな描写で組み立てた“現実”があることになっていた。そこに“非現実”を並べてくるのだが、下地の“現実”にしてからが、どれだけ緻密な絵で描かれていても(緻密な絵で描かれているほど)“非現実”を描くのと同じであり、両者の混乱をめざす以上、それぞれを明確にちがった質の絵で描くわけにもいかないから、ますますどちらも同じものにしか見えない。
 たぶん監督は、現実も非現実もいっしょの絵になってしまうというアニメの特性を逆手にとって、どちらも区別できなくなる映画を作ろうとしたのだろうが(だから「どっちも同じに見える」のは意図した通りでもあるのだろうが)、それだけに、はじめに“現実”をきっちり作り、それとはちがうものとして“非現実”をちらつかせ、最後に「なんと!区別がつかなくなりました!」と驚いてみせるような過程のぜんたいがひどくマッチポンプに思え、しらけてしまったのだった。自明の前提がこの映画のゴールだったのかと。
(ただ、「アニメは現実も非現実も同じで描かれるから区別がつけにくい」のなら、「小説だってぜんぶ同じ文章で書かれる以上、やはりその区別はついていない」のかもしれず、現実/非現実のちがいを虚構の階層の描き分けと捉えれば、「メタフィクションなんてないのでは」とも思えてくる。作者がメタフィクションのつもりで書いているものをメタフィクションとして読まない、という無作法にいまの私は惹かれている。一方、やっぱりアニメと小説は別物で、あの平坦さのためにアニメの絵は文章よりも不自由なのかもしれず、しかし、文章が平坦でないと感じられるならその根拠はどこに求められるのか、などと考えても煮詰まるばかりで落ち着かない。この個人的イライラが「パーフェクトブルー」への反感になったのだとしたら、あれは八つ当たりだったのかもしれないと8年目にして気がついた。そのうち見直したい)

 ここで「パプリカ」に戻ると、この映画では、前述したように原作の序盤を大幅にカット、登場人物にとって、覚めて見る世界と夢のなかがごっちゃごちゃになっている状況からはじまる。これはなによりもまず、長い原作を90分にまとめるための方策だったのだろうが、そのために映画は現実/非現実の区別を取り払ったところからこころおきなくスタートを切ることができる。“DCミニ”のおかげである。両者はいきなり同じ平面に描かれているのであって、そうなるとアニメは強い。たびたび繰り返される妄想の(=現実の)パレード。一目で黒幕とわかる悪役のように、はっきり類型的なキャラ。場面転換につぐ場面転換。コスプレとコスプレとコスプレ。開き直った職人芸を見た。起きている危機は世界中、あるいは日本中、少なくとも東京都区内を巻き込む大事件であるはずなのに、「主要登場人物」以外の脇役をほとんど出さないという潔さによって、この映画はかえってスケールが大きくなった気がする。パプリカ最後の戦法にはおそれ入った。

 そのようなわけで「パプリカ」は、“DCミニ”の代わりに“ヤク中の人”を持ち込んでリアルとでたらめをいっしょくたにした漫画『真夜中の弥次さん喜多さん』(しりあがり寿)並みにうまくできているんじゃないかと思った次第です。


追記:
 人から言われてなるほどと唸ったが、「妄想を絵にするとパレードのかたちをとることが多い」のはなぜだろう。『真夜中の弥次さん喜多さん』もそういうシーンのオンパレードだった。パレード・オンパレード。って、言ってみたかっただけである。