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リチャード・パワーズ『オルフェオ』(2014)
オルフェオ
木原善彦訳、新潮社(2015)

音楽は聴き手を感動させるというところが重要なんじゃないんですか?
 マティソンはほほ笑んだ。いいや。音楽は聴き手の目を覚まさせるところが重要だ。既成の習慣を全て打ち破るのさ。p105

 2014年に出たのにもう日本語で読めるこの小説、まず、こんなにも読みやすいことに何度でも・いくらでもおどろくべきじゃないかと思う。
「べき」というのも変だけど、扱われるのが決してとっつきやすくはないだろう題材であるだけに、それが時間と体力さえ許せばノンストップで最後まで一気に進みたいくらい読みやすい小説になっているのは、それだけでも(だけなものか)たいへんなことだと思うのだ。

 2011年。ほとんど無名に近い音楽家として生きてきたピーター・エルズは、70歳を迎えたいまでは作曲をやめ、おもてむき音楽に関わるのは老人相手の講義だけにして、あとは1人暮らしの自宅にこもり、細菌のDNAをいじっている。「そこから」ある出来事をきっかけに、あれよあれよと巻き込まれてしまった肝の冷える状況の中で彼の選ぶ行動と、物心ついてから70歳にいたる「それまで」の人生を構成するエピソードが交互に語られていく。

「これからどうなるの?」と「どうしてこうなった?」という、読み手を引っぱるエンジンがふたつあり、文章はどこまでも読みやすいからすいすい×2倍の速度で進む――たしかにそれくらい、こちらの気持は駆り立てられる――のだけど、いっぽう、エルズの人生の要所要所で音楽が顔を出すシーンにさしかかると、この小説の文章は筋を追うのをいったんやめて、さまざまな語彙と構文を駆使し、言葉で、ただ言葉だけでもって、こちらに音楽を聞かせようとする。比喩の花火が上がり、文章は数行、ときには数ページにわたってページの上を踊る。
 小説から流れ出す音楽のほとんどに無知で、それらの音楽を脳内で再生できないわたしでも、文章は読めてしまう。そのような場面のたびに「わわわ」と立ち止まるし、それにこれは無知の効用だと思うけど、実在の音楽(の文章化)も、この小説オリジナルの音楽(文章での創作)も、同じように受け取れてしまう。当たり前のようだがこれはおかしな事態だから、無知には無知のメリットがある。
 ――というのは負け惜しみで、この小説に出てくる実在の曲なら本を手に取る以前にどれもしっかり聞いたことがありおぼえているよ、という読者のほうがもっと楽しめるだろうことは想像にかたくない。
 その場合、パワーズの文章を通じて実在の曲を「思い出す」のと、パワーズの文章を通じて架空の曲を「思い描く」のとで、前者には小説の外にモデルがあり後者にはない以上、ふつうに考えたら両者は高い壁できっぱり隔てられているにちがいなく、そこをパワーズの文章芸はどれくらい乗り越えているのだろう。いくら気になっても、わたしにはそれこそ空想するしかないので、そこを実感しながら読める人がうらやましい。

 そしてそれを言うならなによりも、この小説を書いている当のパワーズにとって、自分が聞いた実在の曲を文章にするのと、自分が想像した架空の曲を文章にするのとでは、どのようなちがいがあったのかをぜひ本人に訊いてみたい。
 これもふつうに考えれば、前者は「再現」で後者は「創作」だから歴然とちがいがありそうなわけだけど、再現といっても音楽を文章で「再現」するのはもう「創作」と同じじゃないのか、それとも何かちがいがあるのか、だとか、実在の曲は聞きながら書いたのか、それとも脳内で再生しながら書いたのか、きっと両方だとは思うけど、脳内再生の場合は架空の(パワーズの脳内にしかない)曲を文章で「創作」するのと何かちがいがあるのか、あるとしたらどんなちがいなのか、だとか、作者の口から詳しく教えてほしいことは無数に浮かぶ。
(でも、どこまでも聡明で、どこまでもいい人であるパワーズは、何を訊かれても「うん、それはどちらも翻訳なんだよ」とか、簡にして深すぎる返事をしてくれそうな気もする)
 
 とりわけすばらしかったのは、まだ小説の前半、エルズの講義を入口にしてメシアン「時の終わりのための四重奏曲」が作曲され初演にいたる過程を追ったエピソードで、ゲルリッツ第八A捕虜収容所などという特異な場所で構想され、収容所じゅうの捕虜とドイツ軍将校という特異な聴衆を相手に痩せこけた四人組が演奏をはじめる部分を読んだら、もう当の曲を聞かずにはいられなくなるし、それでじっさい聞いてからは、その場にいた多くの捕虜の気持を想像して不思議かつ神妙な気持にもなれた。

 そして『オルフェオ』でピーター・エルズの人生を語るのは、そういった音楽を描くのと同じ、変幻自在の言葉であり文章である。
 家族や友人や恋人、彼のまわりにいた人びとだったり、彼ら彼女らとの大小さまざまな出来事、接近と離反をもたらした心の移ろいだったり、実現した奇跡だったり実現しなかった夢だったり、そういったもろもろが、形のあるものもないものも、きわめて細かく流麗な――読みやすい――文章にされていく。
 パワーズの文章はとても能弁で、書けないものはないのじゃないかと思わされるくらい、何でも巧みに文章にしてしまう。そんな高スペックの文章を駆使して人間を描くと、描かれる人間もスペックが高くなってしまうという枷がこの人の作品にはあったように思う。力を注いで、つまり言葉を尽くして描かれる人物であればあるほど、その人は頭の回転が速くなり、(少なくとも)一芸に秀で、おこなう会話は機知にあふれていく。
 言いがかりのようだがこれは個人的にずっと気にかかっており、パワーズの文章の特性と相反するために彼の小説に出てこられないタイプの人間というのが確実にいる。いくら言葉の網の目を細かくしても、細かくしたためにとらえられなくなる、ぼんやりした人間が。
 とくに『舞踏会へ向かう三人の農夫』(1985)や『囚人のジレンマ』(1988)といった、初期の「小説の入り組んだ構成が実のところどうなっているのか、整理しきれないまま完成とし、整理しきれていないところに作品の生命が脈打っている」ような傑作よりもあと、小説がもっと長くなっても、始めから終わりまでなめらかで破綻なく進むツルツルした作りになった『われらが歌う時』(2003)や『エコー・メイカー』(2006)では、優秀なパワーズ的人間(ダメな人であっても、そのダメさ具合において優秀になってしまう人たち)のうしろに、どんな点でも優秀ではない人間の不在をかえって意識させられてしまうところが、独特の臭みとしてかすかに鼻についていたように思う。でも今回の『オルフェオ』を読んでいる最中、その気がかりはほとんど感じなかった。
 その理由のひとつめは、書かれていないことはともかく、書かれてあることがこれほど巧みに達成されているのなら、それで十分以上のありがたさじゃないかと思うほど巧みに書かれているから、というもので、もうひとつは、主人公が持てる能力を注いで作りあげた楽曲、たとえば、ピアノとクラリネットとテルミンの演奏に合わせてソプラノがカフカのアフォリズムから取った文章を歌う《難解で冒険的な連作歌曲》(p61)なんかが描写され、「聞いてみたい!」という気持をあおられながら、同時に「それ、むちゃくちゃ退屈じゃないか?」とツッコミの余地があることも、この小説の好ましさに大いに寄与しているように思った。

 ごく単純な意味でなら、そして表面的な意味でなら、主人公のピーター・エルズは、成功しなかった。単純で表面的というのは、もっとも現実的な意味では、ということである。現実は大切だ。大切な現実で成功しなかった人物を描くとき、パワーズの文章は、とてもやさしい。そのことも、この作品の発見だった。
《皆が彼の前に整列する。友人、妻、娘。彼を愛した人々。彼がいいことをすると信じた人々。穏やかな四月の霧の中で彼は思う。僕が望んだのはただ、君たちみんなを喜ばせるささやかな音を作るというだけのことだった、と。何て小さな思考が人生の全体を満たしたのか。何て小さな思考が。p279

 出版社と翻訳家のかたがたにおかれましては、パワーズの80年代作品と2000年代の作品のあいだに残っている『黄金虫変奏曲(1991)と『さまよえる魂作戦(1993)も、どうか、なるべく早く読ませてください。


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追記(2015/08/17):

 作中で主人公ピーター・エルズが作ったことになっている「ピアノとクラリネットとテルミンの演奏に合わせてソプラノがカフカのアフォリズムから取った文章を歌う《難解で冒険的な連作歌曲》」について、ツイッターで @uncycloNana_shi さんから「クルタークの『カフカ断章』ではないですか。」という指摘をいただきました。
 わたしはクルタークの名前も知らなかったので、ググってみてはじめてそんな作品があることを知りました。
 さらに、こちらのブログの記事で、カフカのどんなアフォリズムが使われているかもわかりました(「節操のないクラシック音楽嗜好」2011年5月6日(金))
 これを見るかぎり、エルズの作品として『オルフェオ』の61ページに引用されているものとはかぶっていないものの、パワーズがたまたまクルタークと似た作品を発想したというよりも、この「カフカ断章」をもとに主人公の作品をしつらえた、と考えるほうがはるかに「ありそう」だと思います。
 パワーズに訊いてみたいことが、また増えてしまった。@uncycloNana_shiさんと、ブログ「節操のないクラシック音楽嗜好」のかたに感謝します。

「カフカ断章」はまだ聞いてないですけど、本当にこんな作品を作ったクルタークもすごいし、それを言うなら、こんな作品を作らせたカフカもすごい(だれだ、「それ、むちゃくちゃ退屈じゃないか?」なんて書いたのは)。そういえば、高橋悠治『カフカノート』(みすず書房、2011)なんて作品もありました。

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 …ここまで書いて、今度は、「『オルフェオ』内でエルズの作品に使われているカフカのアフォリズムは、本当にカフカのものなのか?」という疑いが浮かびました。おそるおそる、吉田仙太郎編訳のカフカ『夢・アフォリズム・詩』(平凡社ライブラリー、1996)で探してみると、これは199ページに同じものがあるのが確認できました。
『夢・アフォリズム・詩』は大好きな本なのに、アフォリズムを記憶しておくのは、アフォリズムの内容と同じくらい、むずかしい。
《われわれの芸術は、真実の光によって〈目を眩まされている〉状態である――つまり、あとずさりするしかめっ面の上にさす光が真実なのだ、他にはない。》p175
穂村弘『ぼくの短歌ノート』(2015)
ぼくの短歌ノート
講談社

妻を得てユトレヒトに今は住むといふユトレヒトにも雨降るらむか
大西民子


 やっと出たのでうれしい。これは、穂村弘が「群像」で長く連載している短歌の紹介をまとめた本である。
 たぶん何千という単位でノートしてあるのだろう好きな歌・最近気になった歌の数々から、穂村弘は毎回、「高齢者を詠った歌」とか「天然的傑作」とか「素直な歌」のようにひとつのテーマを定め、それに沿った歌をいくつも取り出してきてそれぞれの魅力を語り、共通点と差異を説明して、そういった歌を発生させた背景を論じていく。
 毎回のテーマ制、そして1回の分量も多くない(4、5ページ)ことから、これは短歌の友人』(2008)のような、長めの論考を入念に準備して「戦後短歌とは」といった大問題への登攀を試みる本ではない。
 それよりももっと、近所を散歩しながら目についた珍しい昆虫だったり、引っかかる表札だったりを次々に指さし教えてくれるような調子でこの本は進む。とても読みやすい。
 だからといって軽いだけの本ではぜんぜんなく、同じ形式をテーマを変え品を変えして積み重ねていくうちに、読んでいるこちらも気がつくとページの中で空を飛んでいたり時代が変わっていたりユトレヒトに住んでいたりするからまったく油断ならない。
「油断ならない」とは「ずっと面白い」の言い換えである。安易な分けかただけど、『短歌の友人』が歌を読む理論編なら――もちろんその理論は個々の歌の読み取りから導かれるものだったわけで――『ぼくの短歌ノート』は、さらにその読みかたを実地に活用してみせる実践編ということになるのかもしれない。ならないかもしれない。雑なことを言った。ごめん(わたしはおそらく『短歌の友人』が好きすぎるのだ)。

 紹介されている短歌はどれも面白いのだが、こうやってテーマごとに並べられると、一首だけで読んだときに感じるだろう面白さよりずっと面白さが増しているように思ったし、もしかすると、一首だけだったら素通りしてしまった歌を、このように並べられることで面白く読ませてもらえた、という場合もたぶんにあったのかもしれないと思う。
 それはまず、「ちやらちやらてふてふ」や「貼紙や看板の歌」や「落ちているものの歌」のように、何だそのくくり、というテーマがときおり混じっているからでもあるし、作者が昔の人の歌も、現代の人の歌も、(現代の人は現代の人でも)プロの歌人だけでなく新聞の歌壇に投稿されてきた歌だって、テーマによっては一堂に会してしまうからでもある。テーマ制という形式が、歌の傾向を縛るというより、かえって歌をごちゃまぜにしてくれるというありがたい結果を生んでいる。

 そんな短歌紹介の本なのだから、さっき冒頭に置いた一首のように、紹介されている短歌を引用するのが本書の紹介には欠かせないように思うのだけど、短歌と同じくらいこちらの目を惹くのは、それらを評する穂村弘の言葉である。
 この本に出てくる、ざっと数えておよそ330首の短歌の多くはほとんど同じ顔をしていない。当たり前だ。それぞれ別の短歌なんだから。それに、テーマごとにまとめられ、ごちゃまぜにされたからこそ、小さなちがいが小さなまま際立って見えるということもある。
 穂村弘は、一首一首、その独特な突起やへこみにフィットする言葉を、あくまでふつうの語彙と言葉遣いの中からさがす。この繊細な観察と表現の的確さがなければ、これだけ多くの短歌をそれぞれ別のものとして読み、また、別々のものを同じテーマの下に集わせることはできないだろう。言いたいことが先にあって、それに合う短歌を引いてくるのではなく、引用歌に合う言葉を組み立てていくうちに、先に決まっていたテーマがもういちどとらえ直されていく、その手つきまでが見える思いがする。どの評も、一点物なのだ。
 なので、ここでは短歌は無しで、穂村弘の言葉だけをいくつか書き写すことにする。引用のうしろの小文字がその回のテーマである。
《わざわざ短歌にした。しかも、結びは「みた」ではなく「みたことがある」である。これによって、一首は単なる報告以上のニュアンスを伴うことになる。或る日或るところでみかけたそいつのことを、作者はわざわざ思い出しているのだ。ここには或る種の感情移入があるんじゃないか。》「コップとパックの歌」p12

《遠足のおにぎりの歌はあるけど、鮨屋で食べる鮨の歌はほとんどない。それなのに、コンビニやスーパーに並んでいる鮨の歌はやけに多い。》「ゼムクリップの歌」p25

《男は自らの体をこのように詠わないし、詠ってもニュアンスが変わって、詩的な衝撃は発生し難いことが予想される。そこに痛みの感覚がないからだ。》「するときは球体関節」p38

《どの場合も、作者は完全に本気。ただ、なんというか、これらの歌はあまりにも非メタ的でありすぎて、現代の人間の目には冗談のようにみえてしまう》「天然的傑作」p56

《「字余りになるにも拘わらず、敢えてこう詠まれているからには本当にこうだったにちがいない」という読者側の錯覚を誘うこと。》「日付の歌」p73

《ここには丁寧に捨て身になってゆくことで何とか活路を見出そうとするようなサバイバル感覚があると思う。》「素直な歌」p79

《おじいちゃんやおばあちゃんは孫がたまらなく可愛い。だが、相手はそんなことにはお構い無し。その非対称性によって、孫可愛さの壁が結果的に突破されている「子供の言葉」p84(強調は引用者)

《窓越しの世界が無人で不動だからこそ、それはもうひとつの世界のスクリーンになりうるのだ。
 では、そのスクリーンに映るもうひとつの世界の正体とは何だろう。私は未来だと思う。》「窓の外」p89

《我々の意識は、現に生命が生きている今から常に遅れ、必ずズレを生じることになる。しかしながら、何かのきっかけで日常の意識に裂け目ができて、捉えられない筈の今の光を浴びることがある。
 日常的な時間の流れのなかでは捉えられない今が剥き出しになるとき、それは永遠の相貌を帯びる。「目の前のコップがびっくりするくらい光って」いたり、「グラスが変に美し」かったりするのは、今から永遠の光が溢れているからではないか。云い換えると、それは可能性の光に他ならない。》「今と永遠の通路」p98

《だが、政治とか経済とか恋愛とは、いずれも人間にとっての優先項目に過ぎない。世界を作り出した神の視点からは全ては等価なのだ。それならば、人間が人間用の意味を読み取らない細部にこそ、世界の在り方の秘密が潜んでいる、とは考えられないか。》「ミクロの視点 空間編」p143

《どこか屈折したナルシシズム。でありながら、平仮名表記及び「する」「だろ」「たる」「たり」「マロ」「ばり」「がら」というラ行音の連鎖によって作中世界はどこまでも柔らかい。あれほど柔らかい「マシュマロ」がその片仮名表記によって相対的には硬くみえるほどだ。》「平仮名の歌」p156

《「浣腸」の意外性、さらに「秘書」とのギャップに惹かれる。現実の中に体ごと突入してゆくことで摑んだポエジーというか、頭の中の想像だけでは書くのが難しいタイプの歌である。》「会社の人の歌」p189

《決して誤らない神仏に対して人間の女の生命力をぎりぎりまで主張する一首は、誤り得る生の輝きを放っている。》「間違いのある歌 その1」p205

 どんなものだろう。「短歌がなくっちゃ、どうもこうもないよ」というのが正しい反応だろうと思いつつ、どうしてもこんなふうに並べてみたかった。
 ほかの本(短歌ではなくエッセイでも)を読んでいてもたびたび見られる、神だとか永遠だとかいった、絶対的なもののあらわれを感受するアンテナの過敏さはこの本でもところどころに顔を出し、ふだん人はそんなにひんぱんに神や永遠のことは考えないだろうから、それは穂村弘の偏りといえば偏りということになるのかもしれない。
 けれども、ここにあるどの言葉からも――つまり本書の言葉ぜんぶからだが――浮かび上がってくるのは、他人の手になる短歌を紹介したいと思った穂村弘が、その歌にだけ当てはまる言葉を、自分の偏りのなかで、かつその歌からの影響を確実に受けながら、一生懸命さがしている姿である。
 だから、それぞれの言葉が、それぞれどんな短歌のために発見されたものなのかは、実際に『ぼくの短歌ノート』で確認してほしい。

 そしてこの本は、そこまでとまったく同じ形式・ページ数の「殺意の歌」でもって、唐突に終わる。最後がそれなのか、とか、「まとめ」も「あとがき」もないの?とも思うが、それはこの連載が「群像」でいまも進行中だからで、そう考えると、この素っ気なさはかえって頼もしく映る。
 何年か後に出るだろう2冊目のノートを楽しみに待ちたい。


 ○  ○  ○


ひとつだけ追記:
 本書の帯には、紹介されている中から選ばれた短歌が一首、大きく印刷されている。それはもちろん面白く(そんな視点、そんな乗り越えかたを想像したことがなかった)、そのことは何度でも念を押したいんだけど、この場所に一首だけ選ぶなら、ほとんど特権的といってもいいくらいの言葉で取り上げられているこちらの歌もよかったのじゃないだろうか。
ハブられたイケてるやつがワンランク下の僕らと弁当食べる
うえたに

《ここには死の凝視も社会への批評もユーモアらしきものも見当たらない。その代わりに独特の感触がある。強いて言語化すれば、「僕」の表情がみえない、ということになるだろうか。[…] ともあれ、一首における高純度の「身も蓋もなさ」は、短歌史の中でかつて踏まれたことのない場所を踏んでいるようにみえるのだ。》「身も蓋もない歌」p127
長嶋有『問いのない答え』(2013)
問いのない答え
文藝春秋

《「この店、来るのってはじめて?」
「ドス江と一度ね」ドス江というのはもちろんあだ名だが、ネルコは彼女の本名を聞いたことがない。》p21

■ わたしがツイッターを始めたのは2009年の暮れで、年が明けてから会った友達に「ツイッターってどんな感じ?」と訊かれた。
「なんか、インターネットのなかにインターネットがあるというか… ネットのなかに世界があるんだよ…」
「なんだそれ」と笑った友達は、数日後、ツイッターを始めていた。だからだと思う、わたしがこんなやりとりをおぼえているのは。


■ 筒井康隆の短篇小説を集めたアンソロジー『秒読み』(2009)の巻末に寄せた「解説」で、長嶋有は書いている(強調は引用者)
《昔の時代にタイムスリップする話は誰でも(筒井康隆でなくても)書ける。僕にだって書ける。主人公は、昔の学校のなつかしい仲間と再会するだろう。親友の御子柴、鈴木、榎本、憧れのサユリちゃん……。でも筒井康隆はこう書く。「フレディ、キャシイ、ロバート、ジョウン、痩せた方のロバート、そしてミルドレッド」 痩せた方のロバート! たしかに、ある人間の仲間が全員、異なる名前なのはむしろ(確率論的にも)おかしい。ときには同名の仲間もいるだろう。でも百人の人間に、同じ場面を書かせたときに「痩せた方のロバート」と書ける人は何人いるだろう。荒唐無稽なんかでない、こういったなにげない描写にも、本当の世界を書こうと気をつける作者の気概が満ちていることに気付く。

(この解説は、書評集『本当のことしかいってない』(2012)にも収録されている)


■ 離れた場所、異なった状況にいるA君とBさんが、たまたま同じものを食べたり、あるいは、まったく同じ言葉を口にしたりする。
 そんなことは、普通によくある。いくらでもある。いまこの文章を目で追っているあいだにも、無数に発生しているだろう。それらのふたつの出来事は、それらだけでは(別々に起きた同じ出来事ふたつだけでは)まだ、偶然の一致というものではない。
 ふたつの出来事が“偶然の一致”になるのは、A君が「あ、Bさんもおれと同じものを食べた」と知ったときか、Bさんが「わ、私あのときのA君と同じことを言っている」と気付いたときか、あるいは第三者のC氏が「おや、A君とBさんは同じことをやっているじゃないか」と発見したときである。そのとき彼らは言うだろう。「やあ、すごい偶然(の一致)だなあ」。
 そしてA君にしてもBさんにしても、離れた相手のことをその時点では知ることはできず、両方を見ることのできるC氏にしても、リアルタイムで同時に見ているわけではないから、それぞれの出来事を認識するのには、ある程度の時間の開きが挟まる。もとから時間をおいて発生しているならもちろん、同時に起きていたとしても、ひとつめの出来事を知るのとふたつめの出来事を知るのには時差という隔たりがある。
 なんらかの出来事に接したとき、「これは前にもあった」と意識して、「前」を1回め、「これ」を2回めととらえ直す。そして「偶然だ」とおどろきが生まれる。そう考えると、“偶然の一致”を体験するのは、“繰り返し”に気付くことでもある。
 当事者にしろ第三者にしろ、“同じふたつ”の両方を、繰り返しとしてとらえる視点があってはじめて、ふたつの出来事は“偶然の一致”になる。視点が偶然の一致を作る。

 ところが、こうも言える。たまたまA君とBさんの両方を見ることのできたC氏が、ふたりの食べているものや、または口にした言葉を、時間の差を飛び越えて「同じだ」と認識し、ふたつをひとつにまとめてしまった瞬間から、そのC氏は、ふたつの出来事を別々のものとしてとらえることができなくなる。
 べつにA君とBさんはお互いのことを知らず、それぞれバラバラに食べたり言葉を発したりしていただけだったとしても!

 先日わたしは電車に乗っていて、近くに立っていた男性が、たまたま同じ車両に乗り合わせていた友達らしき人から声をかけられ、おどろいて「おぉーう」と言うのを見た。
 それから別の路線の電車に乗り換えた数分後、向かいの座席に座っていた女性が同僚らしき人から声をかけられ、やはりおどろき「おぉーう」と口にするのを見た。
同じ返事だ」、ととらえてしまったわたしには、時と場所を隔てて別々に発され、別々のものだったふたりの返事を、あった通りに別々のものとしてとらえ直すことが、もうできない。“偶然の一致”という見方を自分でいったん作ってしまったら、その外に出るのは絶望的にむずかしい。無理だと思う。
 ここにはなんだか、認識の不自由がある。“偶然の一致”を作る視点は、ありのままの出来事を、その“偶然の一致”という枠に押し込める。

 だが本当に厄介なのは、わたしがこんなふたりの返事(おぉーう/おぉーう)をおぼえているのは、それらを“同じふたつの返事=偶然の一致”という枠でくくったからこそだ、ということである。もしも片方だけ(おぉーう)だったら、電車を降りて歩いているうちに記憶の網からこぼれ落ち、その日の夜には思い出せなくなって、忘れたことも忘れてしまっていたにちがいない。
 だれが、耳に入ってきた他人の返事のひとつひとつを、ありのまま、ひとつひとつ記憶できるだろう。「ふたつの返事が同じだった」とまとめたおかげで、今でも思い出せるのである。便利だ。でも、不自由だ。


■ 同じふたつの出来事だけでは、“偶然の一致”は生まれない。両方を見る視点が“偶然の一致”を作る。
 そのとき、視点はふたつの出来事を、同じ出来事の1回め、2回め、という“繰り返し”としてとらえている。
 いちど“偶然の一致”にまとめてしまった出来事ふたつを、再度バラバラに分けるのは困難だ。
 でも、同じふたつの出来事を「(同じだが)ふたつのままで」とらえ、しかもおぼえておくのは、もっとむずかしい。

 以上が、現実からの観察である。小説というのは、この現実(小説の外の現実)をミニチュア化した箱庭でも似せ絵でもなく、独立した別の1個の現実であるのはまちがいないが、長さという点だけからいっても、どうしたってこの現実よりも短く単純になってしまうので、“偶然の一致”はよりかんたんに発生し、より不自由に読者を縛る。

 小説の登場人物には、つねに彼ら彼女ら、書かれている全員を見ている第三者がいる。わたしたちだ。
 上述した現実の例でいう「“同じふたつ”の両方をとらえる視点」が、小説を読むという行為にはいつでも必ず、ついてまわる。読んでいる読者がそれである(当たり前のことを書いている)。
 そんなわたしたちは、小説の中で、登場人物のふたり(か、それ以上)が時間を隔てて、つまりページを空けて、同じ言葉を発したり、同じ物を手に取ったという描写を見つけてしまったら、もう絶対に、スルーしない。
 あらゆることを作品の中に書き込むことはできない → 書かれたものは取捨選択ののち「書こう」そして「消さずに残そう」との判断を経てページの上に書かれてある → だから何事かが一致しているなら、その一致には何らかの意味がある――何事かが繰り返されるなら、その繰り返しには意味がある――と、読者のわたしは思ってしまう。
(落ち着いて考えればそんなのは勝手な思い込みのはずなのだが、小説を読むときはだいたい落ち着いていないので、「ここにはきっと意味がある」とすすんで思い込む)

 それで、別々の登場人物が同じ動作をしたり、同じような内容の言葉を発したら――別々の登場人物が同じ動作をしたり、同じような内容の言葉を発したと書かれていたら――もう確実に、作者(小説)によって“偶然の一致”が作られたということに、なってしまう。わたしという読者が、鬼の首でも取ったかのような勢いで、そういうことにしてしまう。
 そう決めつけてから、そこで偶然の一致が起きた理由だとか、偶然の一致が起きたことに込められた意味など、小説の“意図”だとか“ねらい”をめぐって頭をあれこれ働かせるのは、ほとんど自動的な作業である。小説を読むというのはそういうことだと、あまり考えもなく思っている。
 このようなわけで、小説の中の“偶然の一致”は、本当にたまたま発生した“偶然の一致”ではなく、はなから“意味のある一致”として頭の中に飛び込んでくるし、それだからこそ、ページの上にもともとそういうものとして印刷されているように見えてくる、そしていったんそうとらえたら、もうそういうものとしてしか見えなくなる、ということになる。
「これ、さっきもあった! ということは…」「ここ、あそこと同じだ! じゃあやっぱり…」 エトセトラ。こういうところが、この現実の場合よりもいっそう不自由だ。

 でも仕方ない。無限に複雑で、無限にでたらめなこの現実世界で発見された“偶然の一致”のうしろに“隠された意味”や“何らかのメッセージ”を見る人間はパラノイアと呼ばれるが、それに比べてずっと短く狭く、限りがある小説の中でなら、“偶然の一致”には容易に意味を見つけられる(というか、こじつけられる)のは確かなのだから。それだからこそ、読者が意味を見出せる(こじつけられる)よう“偶然の一致”をたくみに織り込んでおくことは、小説で重宝されるテクニックでもあるだろう。
“意味のある一致”ばかりが増えていく。


■ だけど、と思う。
 だけど、あの日あのときJR線の車内で「おぉーう」とつぶやいた男性と、西武線の車内で「おぉーう」とつぶやいた女性は、たとえわたしが見ていなかったとしても何の影響も受けないで(受けるはずがない)、彼と彼女の「おぉーう」をそれぞれの口からバラバラに発していただろう、というのとまったく同じように、小説の中の登場人物だって、まったく個別にバラバラに、同じ言葉を発したり同じ動作をしていたって、いいんじゃないのか。
 ふたり(か、またはそれ以上)の登場人物が同じ動作をしたり、同じような言葉を発したり、同じ品物を使ったとしても、そこにその事実以上の意味を持たせずに、「ふたり(か、またはそれ以上)の登場人物が、それぞれバラバラに、たまたまの偶然以上に何の意味もなく、そのようなことをした」だけのこととして読めるように、書いてもらうことはできないか。
 さきほどの“意味のある一致”という言いかたに合わせるなら、小説の中で“意味のない一致”を起こしてもらうことは、できないだろうか。
 読者のわたしが作中から無理にでも意味を読み取ろうとするのを止めることによってではなく(止められない)、はじめから“意味のない一致意味のない一致として提示してもらうことは、できないのだろうか。
 さらに言えば、この現実でのありようとはちがった“偶然の一致”を、つまり小説という現実の中にしかないかたちの“一致”を作ってもらうことは、できないものだろうか。

『問いのない答え』は、こんな問いに対する、長嶋有からの答えである。

問いのない答え問いのない答え
(2013/12/09)
長嶋 有

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■ ぜんぶで9話からなるこの『問いのない答え』を読んでいて、まず「お」と思い、進むにつれてますます気になってくるのは、この小説には、ある登場人物があるときある場所でおこなった動作や発言、使った物を、別の人物が別のときに別の場所でまたやったり(動作)、言ったり(発言)、使ったり(物)するという繰り返し・反復がたいへんに多いということだ。
 動作にしろ発言にしろ物にしろ、小説は言葉でできているから、繰り返しというのは、同じ言葉が何度も書かれるということである。しかも、それはだんだん増えていく。


■ いちばん目をひくのは各話と各話のつなぎの部分で、第1話から第2話なら「フレッツ光」、第2話から第3話なら「京都タワー」という同じ言葉で橋が架けられ、話はいったん区切られるようで、すぐまた、つながっていく。
 そして、山荘というひとつの建物を舞台に、まだ登場人物の少なかった第1話「光」と、それよりは場面の切替え・時間の行ったり来たりが頻繁になっても、まだまだ京都というひとつの街で展開した第2話「帰る」で準備運動は済んだと言わんばかりに、第3話「マジカルサウンドシャワー」からこの小説はスピードを上げる。
 高速で走る新幹線に乗っていたネムオの場面は、新幹線型のマウスを握る七海の部屋に移り、七海が腰をさするところから、整体で腰をさすられるに切り替わる。が小さく声を上げると、同じく小さい声を上げたネルコがクローズアップされ、そのネルコが冷蔵庫を開ければ、遠い場所で冷蔵庫の中を思うカオル子に場面は飛ぶ。
 同じ言葉によるつなぎは、各話と各話のつなぎだけでなく、このようにひとつの話の中でも場面と場面を切り替える蝶番のように使われて、それのおかげで人と人がつながる。つなげられる。
 だから、全9話は文芸誌での発表順にサブタイトルがついて区切られていても、その区切りはページが変わるのでもなく控えめな黒丸ひとつで続けられていることからもわかるように、黒丸を取り除いてしまえば、小説ぜんたいが“同じ言葉でどんどん次の場面へ切り替わっていく長篇小説“になる。そう読めるように書いてある。
 同じ言葉は、まず、場面と場面をつなげるものとして繰り返され、その役割を果たす。


■ けれども、そういった前後をつなぐジョイントではない繰り返しもある。
 第3話、が整体されながら「フリップ入力」なのかそれとも「フリック入力」なのか迷う(p45)のは、その数ページ前で「フリック入力」という言葉をすでにおぼえたネムオを経由して、やはり「フリップ入力」か「フリック入力」か迷っていた第1話のネムオ(p14)の姿まで思い起こさせる。
 同じ第3話で、カオル子はスマホの専用アプリでツイッターを見ているから、本体を横にしても画面は回転して横長にならない、とわざわざ書いてある(p48)のは、やはり第1話で、ネムオが寝床で横になったままスマホをいじり、画面が横長になってしまうのに舌打ちしていた描写(p6)への応答であるかのように見える

 こんなふうに、しばらくページを空けてから繰り返されて、2回めが1回めへのアンサーとして読める、同じ言葉がある。
 アンサーとして読めるというのは、繰り返しに気付いた読者が小説の中につながりを発見できるように同じ言葉が反復されている、ということだろう。というか、同じ言葉に気付いた読者が、勝手につながりを作るのだ。
 これは、最初に書いた“同じ言葉による場面の切り替え”ほど直接にではないにしても、ある場面を、それより前の場面に戻って結びつけるという働きの点で、やはりつなぎの役割をしている。ほかにも目立つところをあげれば、

・高校からの帰り道で靴をルミに誉められたフキ子が、クールに《「これ? 穴空いてて」》と答えるところ(p112)と、ネルコに長靴を誉められたドス江が《「これ? 買ってすぐ穴あいてさ、ガポガポ」》と返すやりとり(p25)

フキ子の脇を通り過ぎる夕刊配達の自転車の前籠に、新聞が「独特な三角形」でつみあがっていた(p120)のと、小説家のサキが男のマンションを出た明け方、《まだ配られる前の朝刊が独特な三角形の積み上がり方をしているのを横目に駅へ向かう。》とあるところ(p61)

・漫画家志望のカオリがiPhoneの機種変更に訪れた店で、壁際に「青く光る水のタンク」があると書かれている(p174)のと、七海のあたらしい職場でも《壁際でタンクはうっすら青く光っている(最近なんでも青いよね)。》(p136)

 まだまだ、いくらでもある。読者が「これは、繰り返しだ」と気付くのは2回めにぶつかったときで、そこで「たしか前にもあったはず」と思うから、さかのぼって1回めが1回めとして意識され、2回めと1回めが、あわせて特別なものとして印象づけられる。
(わたしたちが日常で遭遇する“偶然の一致”のできかたと同じ、この順序には気を留めておきたい)

 このように、ページを隔てて点滅する繰り返し(2回め/1回め)によって、どんなことが起きるのか。それには、不思議なことだが、登場人物のふるまいが参考になる。
 第2話で、無職期間の七海がTLに少佐の書き込んだ「マジカルサウンドシャワー」という言葉を目にし、むかし付き合っていた男を思い出す場面がある(p53)。それって、あの男が明け方に鼻歌でうたい、教えてくれた曲名じゃないか! もう、少佐ってば!
 これは、登場人物が作中でめずらしく遭遇した“偶然の一致”である。そして、「フリップ入力かフリック入力か」だとか、「画面が横長になる・ならない」だとか、靴(靴下)の穴だとか、新聞配達の三角形だとかといった、数ページ、もしくは数十ページ離れたところで繰り返される同じ言葉に気付くとき、読者は、マジカルサウンドシャワー!と“偶然の一致”に思い至ったときの七海と同じように、この小説で前に起きたことに思い至る。

 小説の中で同じ言葉が繰り返し出てくることは――同じ言葉の繰り返しに読者が気付くことは――“偶然の一致”ではない。これは「たまたま作者が2度書いてしまった」ための繰り返しがダマのように残っているタイプの小説ではない、ということはわかっている。
 だが、小説に対して登場人物の七海とはちがった場所に立ちながら、大小さまざまな描写や意見を順に頭へ取り込みつつページをめくっていって、小説の中に企まれた繰り返し(擬似的な“偶然の一致”)に思い当たり、「これは2回め→ということは、あれが1回めだったんだ」と小説の内容を再構成していく読者は、自分の頭の中と小説の中を行ったり来たり移動することで、小説に巻き込まれている
 前後の場面をジョイントする同じ言葉よりも幅の大きい、アンサーとして読める同じ言葉は、そういった縦横のつながりを発見し、追いかけさせることで、読者を小説に参加させるはたらきも果たす。
(単純な台詞や動作だけでなく、もっと大きなものも、このような繰り返しとして見ることができる。たとえば、「かつて、少数派だったこちらのことを奇異の目で見ていた人たちが、こちらのほうが一般的になってから『あのころ奇異の目で見てごめんね』と謝ってきたことがない」だとか、「正反対のふたつの意見がどっちも出てくる。いったいどっちなんだ」のような物言いは、いくつもの状況で繰り返され、繰り返されるたびに「お」とつながりを作る)


■ この小説にはこのような繰り返しが「ある」とわかると、見つけることじたいに興味がそそられるようになる。それでもっと見つけようという目で読んでいくうちに(そして実際、探せば探したぶんだけ多く見つかる)、繰り返しのまたちがった側面があらわれる。

 もういちど、七海のところ。くだんの過去の男にまつわるバイブレーターを、数年前の彼女はウェットティッシュのキレイキレイで拭いたのだったが、読者がそのことを思い出すのは、第6話で、庭師のクニコが昼食のとき、新人の田村さんから同じキレイキレイを差し出されたときである(p138)
「ノロとか、怖いですから」と受け渡されたキレイキレイは、清潔感に加えて田村さんのやや神経質な具合を伝えるだけでなく、さかのぼって七海のおぼえた釈然としない気持もこの場面に重ねて立ちのぼらせる小道具になっている(が、そんなこと、クニコには知ったことではない)。
 それにまた、そのバイブレーターに入れる単四電池をさがし、七海がテレビとエアコンのリモコンを取ってきて男に渡したこと(p54)を読者は、第8話の中年主婦・早苗が、別荘で映画を見ようとする夫にリモコンの電池を持ってきてあげようとするとき(p184)や、すぐあと、女子高生の一二三が洗面所に置いてある母親の電動歯ブラシの蓋を開け、電池を「三本も使うんだ」と意外に感じるとき(p198)に、何度も思い出す。

 キレイキレイ電池を三本といった同じ言葉を、こういうところで繰り返すのか、と不意をつかれる(キレイキレイや電動歯ブラシは、なんとなく、バイブレーターとはクラスがちがう気がしていた)とともに、「でも待て」と立ち止まるのである。

 キレイキレイはめずらしいものではぜんぜんないし、まして電池なんて、だれでも、どこでも、普通に使うものではないか。
 だから、ここにつながりを見るほうがこじつけである――とは、思わない。わざわざ書かれているからには、これらの言葉がはっきり“繰り返し”として再登場しているのはまちがいない。
 そういった揺るぎない確信とともに、たとえば湿布だとか、白いすり鉢型のコーヒーカップだとか、チュッパチャプスとポップキャンディだとか、シャーペンの0.3ミリと0.5ミリをめぐる言葉だとかの、「なぜそれを」と思わざるをえないほど普通のものが、ありふれた事柄が、ささやかな言葉のかずかずが、「繰り返されている」という以上のたいした意味を担わされることもなく繰り返されるのを、読者は何度も何度も、目の当たりにし続ける。

 第6話、サキが電車の座席で物思いにふけっていると、ドアの閉まるぎりぎりのタイミングで中学生が二人、乗り込んできた(p139)。これはその少し前、別の路線で斎場へ向かうネムオの前に、小学生が二人乗り込んでくる場面(p123)の繰り返しだし、しばらくあとでもういちど、通勤中のアコの目の前にも《小学生くらいの子供が二人乗り込んできた。》(p183)と繰り返される。
 どれも「二人で乗り込んできた」とわざわざ書いてあるのだから、はっきり繰り返そうという小説の意志のもとで繰り返された繰り返しであるのは疑いようがないが、いっぽうで、「繰り返しじゃなくたって、乗ってくるだろうよ、電車に、二人でさ」とも考えずにはいられない。
 これはいったいなんなのか。


■ こういった小さな繰り返しは、身をもってそれをおこなっている登場人物たちに、何ももたらさない。
 彼ら彼女らは、自分のする動作・使う物・直面する出来事が、ほかのだれかの繰り返し(ほかのどこかの場面の繰り返し)であることに気付いていないし、そもそも繰り返されているのは、あえて「繰り返しだ」、つまり「偶然の一致だ」、と立ち止まるような特別なものではなく、ほかのだれだって日常的にやったり使ったり遭遇する動作であり、物であり、出来事でしかない。そのことはさっきも書いた。
 ところが、そこにまた繰り返しの効果が生まれる。

 実家に帰ったカオル子が、カップを《「ソーサーに置かないと輪染みができちゃうでしょう」》と母親から叱られるときの「輪染み」という言葉(p188)は、100ページをまたいだどこかのお宅の庭で作業しているクニコ稜実が、東屋のテーブルで軍手をコースター代わりにしてお茶を飲む(pp77-8)あいだ、《輪染みがつかないようにと用心》したのと同じ「輪染み」だ。でもその「輪染み」なるものは、いまわたしがキーボードを叩いているこたつ卓で、マグカップの下にできかけている「輪染み」と同じものである。
 オールした朝、大学生の光太がパンを焼く。母親をうるさく思いながらパンを焼く。
《背後でチンと音が鳴った。階下でパンが焼けたのだ。念を押す母の声は聞こえてこない。光太は立ち上がる。》p212

 この動作は、早朝、仕事に出る前のクニコ
《立ち上がり、パンを焼きお湯を多めに沸かす。》p67

という一文を、かすかに引き寄せる。繰り返しだ。いや、繰り返しなのか? パンを焼くなんてだれでもするのだから、そんなのは日常的で普通すぎる動作なのだから、登場人物の二人がパンを焼いたからといって、それはいちいち繰り返しととらえるようなことではないような気もする。でも両方に「立ち上がる」までくっついているのまで含めれば繰り返しに見えてくる… いやいや、やっぱり普通すぎる、パンを焼くくらいのことは、小説を読んでいるわたしだってするんだから…と、そこである。

 小説の中で登場人物のしている日常の動作や、彼ら彼女らの使っているありふれた日用品が、ほかの登場人物のしていたこと・使っている物の繰り返しになっているのを確認したり、または繰り返しなのかどうか判断に迷っているうちに、読んでいるわたしは、それらの普通すぎる行動を「自分もする」とわかる。わかるも何も、ただたんに、自分もしている。
 ということは、わたしも、登場人物たちがおこなう繰り返しの中にいる。

 さきほど、繰り返しの効果を「つながりを作る」ことに見たとき、あちこちに埋め込まれた繰り返しを「前にもあった」と思い出し、小説内のつながりを発見する(作りだす)ことでもって、読者は小説に参加する、と書いた。
 次にこうやって「わたしだって繰り返している」と気付くとき、今度は、小説が本の外にまで広がってきたかのような感覚にとらわれる。

 七海がマンションの踊り場から見下ろしたように(p204)サキが車の助手席で考えをめぐらせたように(p163)、わたしもセブンイレブンの看板を目にしているのだし、ネムオの母の家のように(p50)カオル子の部屋のように(p47)、うちのテレビからも日曜の夜には「サザエさん」が流れるのである。

 長嶋作品の魅力のひとつに、「的確すぎる、“あるある”ネタ」がある。いまの文脈だと、“あるある”ネタを面白がるというのも、小説が本の外に拡張してくることを面白がっている状態だと考えられそうに思う。
 この、小説が広がる感じはとても不思議だ。そのような姿勢をつかめたときに、この小説の面白さはずっと広がりを増してくる――《荒唐無稽なんかでない、こういったなにげない描写にも、本当の世界を書こうと気をつける作者の気概が満ちていることに気付く。》


■ 「なぜそんな小さなことを繰り返すのか」を追っていると、さらにアクロバティックな繰り返しまで目に入ってくる。より詳しくいうと、“繰り返しが多用される小説であるからには、きっと繰り返しである。それはわかる、わかるんだが、これは繰り返しとして成立しているのだろうか、と迷う繰り返し”である。

 またまた、七海の例だ。彼女が職場のエレベーター近くで、まだよく知らない男の落とした紙片を拾ってあげる場面(p132)。《重要なもののようにもレシートかなにかのようにもみえた》その紙片というのは、p109でカラオケ屋を出るが受け取った《長大なレシート》とのつながりを示す繰り返しなのかどうか。
 岩手県にある一二三の教室で、英語小テストの最中にリズ先生が《「アト十分ネ」》と声を上げる(p147)のは、隣の教室にいるフキ子が転校してくる前に東京の高校で受けていた期末試験で女教師の発する《「はい、あと二十分!」》(p102)の繰り返しとして響いているのかどうか(試験監督なら、だれだってそれは言う)。
 ずっと上のほうで書いたように、ネムオ(p6)カオル子(p48)の「スマホの画面が横になる/ならない」には確かなつながりを見ることができる。だが、そこから第7話で、釧路にいるが駐車した車の中から霧の写真を撮ろうとスマホを横にして、《遅れて画面もくるんと横に倒れる。》(p168)までつなげる繰り返しは(確実に繰り返しなのだが、それにしたって)遠すぎるのではないか。

 こういった「繰り返し、なんだろうけどさあ…(微妙すぎやしまいか)」という繰り返しを押さえていくうちに、いよいよ、“繰り返しではないのかもしれないもの”が見えてくる。
 第4話、講師をしている専門学校で学生と話しながら、サキはある言葉が出てこない。
《「髪切ったんですね!」女子学生は手ぬぐいを受け取ったが使わず、正面からサキをみつめ、話を戻した。
「変かなあ」
「ううん、すごくいい」即答される。お笑い芸人の符丁で、そういう返答を表す言葉があったな。学生達が当たり前のようにつかう言い方。思い出せずにいるうちに他の学生達も揃い始めた。》p88

 サキが思い出せない言葉は、第2話ですでにはっきり登場している。
《「ありがとう、髪は変かなあ……」
「ううん、すごくいいよ」と最近の言い方なら「食い気味」にいう富田とカオル子が横並び、ドス江とネルコが後ろから続いた。》p24

 だからサキは、思い出せないことでもって、「食い気味」という同じ言葉を繰り返している。あたらしい髪型への反応であることも含め、これはまだ、“ぎりぎりだが、しかしきっちりつながっている繰り返し”だ。
 だがここに、ずっと先の最終話で、早苗がフェイスブックをやっていて「もしかしてお知り合いでは?」と従妹を紹介されるところを重ねてみるのはどうだろう。
《みつかった従妹に迷わずメールをした。はい、とフェイスブックの問いかけよりも強く思いながら(はい、はい、はい! もしかしてお知り合いです!)。
「早苗ちゃん!」従妹はメールを喜んだ。》pp251-2

 これは、「食い気味」の勢いを(その言葉を出さずに)行動で伝えているように見える。見ようとすれば見える。だったらこれも3回めの繰り返しではないのか。そうとらえてみると、どうなるだろう。

 思い出せないことも繰り返しになるなら、当の言葉を出さない行動も繰り返しになりうる。「繰り返し」「繰り返し」とつぶやきながらこの小説を読み、読み直し、「これは繰り返しとして成立しているのかどうか」と迷う例までも、いわば“繰り返し未満”としてとらえていくうちに、もうちょっとでかかりそうなボタンがかかっていない状態にあえて留められている複数の行動・場面・発言も“繰り返し”として拾えるような視点が育ってくる。
 ついには、学校から帰宅途中のフキ子が、勝手に名前をつけている猫に声をかけて逃げられるというまったく何気ない場面(p115)も、あの加藤が猫(ぬこ)に避けられたことを半日のあいだ気にしていた姿(p91)の繰り返しに――繰り返し未満の繰り返しに――見えてくる。繰り返しを見る目が、繰り返しを増やすのだ。
 すると、なんのことはない、確実につながっている山のような繰り返し以外の、この小説に出てくるあらゆる動作・物品・言葉が、いまはまだ“繰り返し未満”であっても、これから“繰り返し”になる可能性をじつは秘めているように思われてくる。
 どういうことか。


■ ジョイントとして前後をつなぐ繰り返しがあった。アンサーとして離れた箇所をつなぐ繰り返しがあった。登場人物とわたしをつなげてしまう繰り返しがあり、そして、繰り返し未満ながら繰り返しになりそうな、読んでいるわたしにはそうとしか見えない繰り返しがあった。
 もういちど書く。“繰り返し”も“偶然の一致”も、何かにぶつかって「これは前にもあった」と思い当たり、そこからさかのぼって1回めが“1回め”としてとらえ直されてから、「いま触れたのは“2回め”だった」とわかり、発生する。
 だからこれまで並べた繰り返しの例は、この2回め→1回めの順で書いてきた。
 そのぜんぶを、逆からとらえ直してみる。繰り返しの1回めを、「これはあとから繰り返される」とわかっている頭で読み直すのである。

 そうすると、1回めの動作をしている登場人物は、あとに出てくる人物に向かって、パスを出しているように見えてくるのである。それであとの人物が同じことの2回めをするのは、出されたパスを受け取ることになる。
 もちろん「パスを出す」「受け取る」はレトリックで、彼ら彼女らはみんな、自分の動作がほかのだれかによって繰り返されるとも知らず、自分の動作がほかのだれかの繰り返しであるなど思いもせずに、ただ日常の行為として何かを言い、何かをして、何かを使っているだけだ。繰り返しであること以上の意味が含まれないよう細かい注意を払い、丁寧にきちんと、そのように書いてある。
 そうやって、パスを出しているとも知らずに出されたパスが、パスを受け取っていると気付かれないまま、受け取られている。そのパスの受け渡しを読者のわたしが拾ってつなげることで、この小説の“繰り返し”のひとつひとつは成立する。

 寝床のネムオが、本体を横にすると画面も横長になってしまうスマホに毒づくとき、彼は知らずにパスを出している。カオル子は専用アプリを使い画面を横にしないことでもって、ネムオのパスを受け取る。ドス江が京都で長靴に穴があいたと言うのは、隣を歩くネルコへの返答であるのと同時に、東京で暮らすフキ子へのパスだ。七海も部屋で独りバイブレーターをキレイキレイで拭くことによって、田村さんクニコのいる庭にパスを出していた。


■ このように読むとき、彼ら彼女らのどんな動作もパスとして(パスのつもりのないパスとして)見ることができるようになっている自分にわたしは気付く。

 1回めの動作がなされる(ある言葉が書かれる)。同じ動作がもう一度なされれば(同じ言葉が書かれれば)、それは2回めで、繰り返しである。
 1回めの動作が書かれても、同じ動作がもう一度なされないなら、それは繰り返しではない。
 だが、繰り返しになる/ならないは、1回めの時点ではまったく未知だ。そこではまだ区別はない。あるはずがない。

 そして、すでに一度でも二度でもこの小説を読み通し、小さな動作や何気ない発言が、数ページあとで、または数十ページあと、あるいは百数十ページあとで繰り返されるのをいくつもいくつも目撃し、同じ言葉の再登場をシャワーのように浴びてきた読者からすれば、最後のページまでのあいだに繰り返された動作と同じくらいたくさんあった“繰り返されなかった動作”にしても、それらが繰り返されなかったのは(2回目を書かれなかったのは)ただページ数という制約があったからに過ぎなくて、原理的には、すべての動作がいつかだれかに拾われる、出されたパスはきっと受け取られる、登場人物だけでなく読んでいるこのわたしも含めてだれかはだれかに必ず繰り返される、という確信が生まれてくる。それはこの小説への信頼といってもいい。

 五〇代に入った早苗は、亡父の別荘を掃除している最中、百科事典に挟まれた古い押し花を見つける。自分に対しては寡黙で厳格だった父が、小さくかわいい従妹には押し花を作ってあげた。そう思って少しだけ涙する早苗は、それが四十数年を隔てたむかし、従妹ではなく自分が父といっしょに作った押し花であることを、おぼえていない。彼女は過去からの思い出を受け取り損ねているが、そのことがページの上に書いてあるという一点をもって、すでに伝わっている。その真実は読者が、早苗の代わりにわたしが受け取ったのだから。
 それとまったく同じように、だれかのしたことはべつのだれかが必ず受け取る(繰り返す)。受け取られる姿が実際に書かれてあるかどうかは些末な問題だ。この本の中で繰り返された動作も繰り返されなかった動作も、この本からはみ出したところで、いつかだれかに、きっと繰り返されるだろう。
 それは小説が終わったあとの登場人物によってであるだろうし、この小説を読んだ人によってでもあるだろうし、さらには、小説を読んでいない人によってであるだろう。これはそういう小説である。

 第1話から9話まで、あちこちで何回も顔を出す登場人物がいるいっぽう、ほんのちょっとしか出てこない人物もこの小説には何人もいる。第1話の真希山藤さんがそうだし、だって、2回、ほんとうにちょっと触れられるだけ(p137,p205)である。
 でも、ちょっとしか現われないことは、彼女らが端役であることも、独りであることも意味しない。彼女らもだれかを繰り返すし、繰り返されることを、読んでいるわたしはもう知っているからだ。

 だから、だから最終話のラストでは、そこだけを読んだらあまりに突飛な意見がふたりの登場人物(早苗たまたまふたりとも父を亡くしている)の心を借りて繰り返し述べられており、それがここまで読んできたわたしには、じゅうぶん受け入れられるようになっている(強調は引用者)
《私がそうすれば皆がそうしたのと同じだ(そんなわけ本当はないのだが)。自分でもはまっているフェイスブックや少しだけ首をつっこんでみたツイッターや、誰もが首を落としてみつめている小さな画面を思うと、今ここでこう思って動いているのが私ではない誰でもよいんだなと感じる。
 季節外れの鳥の声が響き、顔をあげる。名前は分からないが、自分の別荘でも夏に聞こえる鳴き声で、今のは真似をする中国産の鳥だろう、姿はみえないし、探してもみつからない。鳥の鳴き声を聞いたのは私だけど、私でなくてもよい。電車の遅延の情報や、ど忘れした俳優の名前を、誰かが尋ねて、別の誰かが教えたりしてくれる。猫のかわいさや虹や悪天候を誰かが感じ入って写真に撮っている。あるいはつぶやきさえしないあらゆるたわいないことごと、寒いとか、消しゴムを落としたとか、その、どの気持ちを誰が感じたのでもいい。人は取り替え可能だ。》pp253-4

 ここで早苗が鳴き声を聞いた鳥は、小説の冒頭2ページめでネムオが思いをめぐらしていた「ガビ鳥」であるだろうことと、でも、早苗ネムオもお互いが「ガビ鳥」を思った“偶然の一致”に気付いていないだろうことを、わたしはなんというか、尊いと思う。同時に、まったく普通のことだと思う。まったく普通であることが、なんて尊いのかと思う。
《背後で誰かの声がする。気をつけて、とさっきの母と同じことを言っている。幼児の「大丈夫だってば」と言い返す声がすぐに続く。振り返らなかったが、どこかの母子が路地を歩いているらしい。親はいつでも同じ言葉で常に同じ心配をする。
「ほら、危ないじゃない」母親の声が尖り、子供は転んだのか声がない。振り向いて路地をみようと思ったときに「大丈夫だもん」かわいい反駁の声があがり、梢は笑う。我々は取り替え可能だだがもし取り替わったとしても、そのどの我々も、きっと素敵だ。》p260

 きっと、そうなのだと思う。「取り替え可能」とは「繰り返される」ということであり、それは「受け取ってもらえる(気付かないうちに)」ということである。
 それで『問いのない答え』は、中盤でひとりが投げるともなく投げた問いを別のひとりがなぜかキャッチする、奇跡のように鮮やかなやりとりでひとまず終わる。
《とにかく大人が寂しいってのは、困る。嫌だというより困る、だ。大人は、寂しくてはいけないんじゃないか。楽しいのが大人の定義であってくれないと。バスが速度をあげて、一二三は硬くて古いゴムの手すりを少し強く握る。》p162

《過去のあるとき誰かがまっすぐに問うたことを、今受け止めたように、ぱっと答えが浮かんだ。
「いいんだよ」聞かれてないのにそうつぶやいた。
 大人は寂しくてもいいのだ。》p262

 あとはこちらの現実が引き受けたっていい。それは小説からのパスである。
ミラン・クンデラ『可笑しい愛』(1986,1994)
可笑しい愛 (集英社文庫)
西永良成訳、集英社文庫(2003)

《なんとも具合の悪いことが生じた。じっさい私は(歴史的背景を見失いそうになっているかもしれない人々のために)その時代、教会は禁止されていなかったとはいえ、それでも教会に通うことに危険がなかったわけではないことを想起しておかねばならない。
 それは理解するのはそう難しいことではない。いわゆる革命と呼ばれるものの側のために戦った者たちは、そのことに大きな誇り、前線の良き側にいるという誇りを保持している。その十年か十五年後(ちょうどその頃にこの物語は位置づけられる)、その前線が消えはじめ、それとともにその前線の良き側と悪しき側もまた消えはじめた。だから、元の革命信奉者達が欲求不満を感じ、じりじりしながら代用の前線をさがし求めたとしても驚くにはあたらない。宗教のおかげで(信者と戦う無神論者の役割を演じることで)、彼らは新たに良き側に立つことができ、彼らの優越性という慣例的で貴重な仰々しさを無傷のまま保持することができたのだ。
 しかしじつを言えば、その代用の前線もまた他の者たちにとっては僥倖だったのであり、おそらくこのことを明かしても時期尚早ではないだろうが、アリツェもそんなひとりだった。校長が良き側に立ちたがったのと同様、アリツェはその反対の側に立ちたがった。彼女の父親の店はいわゆる革命の日々のあいだに国有化されたので、アリツェは自分をそんなひどい目に合わせた者たちを憎んでいた。しかし彼女はその憎悪をどのように表明することができただろうか? ナイフを摑んで父親の復讐に出かけねばならないのか? そんなことはボヘミアの慣習にはなかった。アリツェには反対を表明する最良の手段があった。彼女は神を信じようと企てたのである。
 そんなふうにして、神様が双方の救いに駆けつけてきたのであり、そのおかげでエドワルドはふたつの火のあいだに捉えられることになった。》
「エドワルドと神」pp303-5
柴崎友香『よう知らんけど日記』(2013)
よう知らんけど日記
京阪神エルマガジン社

《ときどき、人から「柴崎さんが見ているテレビはほかの人が見てるのと違うものが映ってるのでは」と言われるくらい、世間の人と見る番組がずれてるっぽい。》p28

 小説家・柴崎友香のエッセイ集。もとはウェブの連載で、いまも続いているからちょっとご覧になればどんな感じかおわかりいただけると思う。

 こういうエッセイはウェブで1回分を読むだけならすぐだけど、本のかたちで、しかも250ページを越える分量がまとまっていると、その量から予想されるのをさらに上回る“読みで”がある。半分くらいは毎日少しずつ読み進め、それから残り半分を一気読みしてみたら「思いのほか、終わらない」感じがしばらく続くのでそれも面白かった。
 それで内容はというと、身辺雑記です。大阪弁で綴られる、東京での日常。気になったこと。たまに思い出、移動する大阪。そしてつねにテレビ。
 そう、この人は本当によくテレビを見ている。
 しかも見ている番組が「関口知宏の中国鉄道大紀行」の再放送だったりするので、何というか、筋金入りである。
 それではこれは、いくら『その街の今は』や『星のしるし』の作者が書いたものとはいっても、軽い気持で構えず気楽に読んでいける本なのかというと、たしかにそれはそうなのだが、というか書いているほうでもおそらくは軽い気持で構えず気楽な調子なのだろうが、突如、それこそ『ドリーマーズ』や『寝ても覚めても』へそのまま地続きになりそうなことを喋り出すので「わあ」と思わされることもたびたびある。
 その最適な例……なのかどうか自信はないけれども、未解決事件を扱ったNHKの番組の、グリコ・森永事件特集を見た際に「ついで」のように漏らされる感想が、2行で泣きそうになるほどおそろしかった。
《今回当時のニュース映像見たらお菓子が大量に廃棄されてて、今更ながらに大事件でどんだけ苦しめられた人がおったかと実感。気になるのは脅迫電話の子供の声。その子はたぶんわたしよりちょっと年下で今30歳くらいやと思うねんけど、その録音したことを覚えているんやろうか。》p59

 いや、これは「おそろしい」というのとも違った。想像をあと一歩進めると「おそろしい」になる感覚を、「おそろしい」になる直前の段階で、素手でつかんでいる。
 過去に属すると思っていたものをいきなりひっつかんでこちらに持ってきてみせる、このつかみ取りの感覚があってこそ、数かずの過激きわまりない小説作品――語りの知覚がへんに自由自在で、時間が延びたり縮んだり場所が大きくスキップしたりする(時間や場所を大胆に動かすことでもって、語りの知覚を自由自在にしている)――が生まれてくるんだろうと思わされるし、それにまた小説に絡めていえば、近所にできた食料品店を偵察に行き、冷凍食品が充実してるなあ、お、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」に出てきた“TVディナー”がある!という喜びを、ほかでもないあの柴崎友香が記しているのには、一読者として妙な感激があった。
(柴崎友香は、保坂和志・長嶋有の両氏から「ジャームッシュ以降の作家」と称賛されたのである)

 すでにして相当とりとめがないが、もっと、とりとめなく書く。

 この日記は始まったのが2011年の1月なので、すぐに3月になる。地震があってから1ヶ月くらいのあいだ、東京がどんなふうだったのかを、その時期たまたま実家にいたわたしはぜんぜん知らないままだったので、この日記に書かれている様子がとても興味深かった。
(柴崎友香もそれほど細かく具体的に記録してるわけではないのだけど、それだけに、生活の雰囲気みたいなものが雰囲気みたいなもののまま感じられる気がしたし、それにそういうものはたとえどれだけ細かく詳しく書いてあったとしても、実際にその場にいなかった人間には“わかる”はずがないのだとかえって思わされもした。わたしがいなかった東京。
 でも、柴崎友香は小説では「やりようによっては“わかる”のでは? 伝わるのでは?」という未踏の道をすすんでいる)

 さらにまた、このエッセイには「大阪弁だからこんなふうに書けるんだな」と感嘆させられるところも多々あり、「東北弁ではこうはいかない」と確信できる違いが何に由来するのか、書き言葉にするといっそう舌がもつれるように感じられてならない東北弁ってどういうことなの、としばらく考え込んだ(確信だけは深まった)。
 さらにさらにまた、
《実は、最新長編の『わたしがいなかった街で』を書くに当たっては、『AKIRA』がかなり影響してる。》pp146-7

「え!?」とおどろき、そういえば、と表紙のイラストを見返すことになるこんな言明のうしろにどんな感慨が横たわっているのか、『AKIRA』好きもこのエッセイ集を、『わたしがいなかった街で』ともども、ぜひ読まれたい。



わたしがいなかった街でわたしがいなかった街で
(2012/06/29)
柴崎 友香

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