2010/09/18

  ◇  ◇  ◇


 私の実家は東北の過疎の村にあり、まわりは今でも田んぼと山しかない。夏の夜はカエルの鳴き声に包まれて眠り、冬の空に揚げた凧が、強風に糸を切られて彼方の山まで飛んでいく一部始終を肉眼で追うことができた。

 身近な行動圏内に銀行がないとか、病院がないとかいうレベルではなかった。たとえばお店というものは、床屋と魚屋しかない。あと食料雑貨店が1軒だけあるが、これがうちの実家で、コンビニよりは駄菓子屋に近い。幸運にも歩いていける距離の郵便局では局長の娘が窓口で働いている。小学校の今年度の新入生は6人で、3年生と4年生は複式学級だと聞いた。そういえば以前、こんな話を書いたことがある。そんな田舎でも貧弱に育つやつはいる、というサンプルが私だ。
(こういうことを人に話していると、どれだけ説明しても、ある程度以上は通じないんだと感じる瞬間がある。やはり、自分で見たことのないものを想像するのはむずかしいのだと思う。田舎では人家は並んで建っておらず、点在するだけ、というのを理解してもらうのに20分かかったこともある)

 どうしてこんなことを書いているかというと、そんな実家でしばらく家事手伝いをすることになったからだった。短くて半年、でももっと長くなるかもしれず、予定はぜんぜん立っていない。とりあえず身の回りのものと、ダンボールいくつかぶんの本を送り、いまの東京の部屋をどうするか思案中。ひらたく言えば、今週末に引っ越します。カテーのジジョーというのは大型台風よりなお大きい、こともある。

 田舎の話を続けると、高校は毎日バス通学で、さすがにファーストフード店とか映画館のある町のほうまで出ていけたけれども、いまやそのバスも廃線になっている。「じゃあ、いまの高校生はどうしているんだろう」という疑問がとうぜん生まれるが、父親いわく「高校生? いないな」。じつにエレガントな回答と言うほかない(原文東北弁)。
 こういう土地では、ほとんどの用事を足すのに車が不可欠なので、車を運転できない人間は成人と認められない。逆にいうと、車に乗って外に出ていけさえすれば、上に書いたような「あれがない、これがない」問題はとたんに解決するように見えるかもしれないが、そうなってこそ、本屋の棚の充実具合などといった絶対的な“程度の差”を突きつけられ、いっそう悲しくなるのは想像に難くない。だいたい私に車の運転ができるのだろうか。徒歩だけで生活可能なところを都会と言います。

 ほかに環境のちがいとして大きいのは、日常生活でかかわる人間の大多数が、こちらのことを(名前や役割を越えて)家庭環境まで知っている、という点だと思う。距離感がゼロに近いというか、こちらに侵食してくるし、いつのまにか自分も相手を侵食している。もし東京で生まれ育った人がこんな共食い状態の人間関係に放り込まれることになったら、と考えると勝手に胸が痛む。私が定年を迎えた都会の人なら、「老後を田舎で」なんて世迷い言はぜったいに吐かない。そこにエルドラドはない。
 もちろん、私じしんはそういうところで育っているので適応に問題はなく、それよりも、いまはこんなにも身近にある古本屋と喫茶店から引き離されることのほうが気にかかっている。電車に乗ることもなくなるから本のページはすべて家でめくることになり、そうなるとブックカバーが要らなくなる、という発見に小さくおどろいているくらいの呑気野郎である。それにまた、書店で開かれるトークイベントに行けなくなる、なんてことは、話としてあまりに遠すぎるので悔しくもならない。負け惜しみではない。石油王の暮らしを羨んでも仕方がないのと同じだ。

 しかし、ネットという問題があった。

 こんな土地には、光回線はまだ届いていない。当然だ。が、ADSLも未対応のままだったいうのは予想を越えていた(基地局から遠すぎ)。ケーブルテレビも存在しない。NTTの人によれば、「2020年を目標に、光を全国くまなく行き渡らせるよう努力しております」とのことなので、実家がブロードバンド化されるのは早くて2020年だと思う。
 ・・・だから、最近はチベットでも光回線が使えるらしいのに、うちの実家ではダイヤルアップしかない。10年前の、電気鶏を絞め殺すようなピーガガガという音、上方から少しずつ表示されていく画像、テレホタイムという単語、といったもろもろが脳裏によみがえり、ネットがすでにインフラになってるだなんてただの勘ちがいなのだという悲しい事実を思い知らされた。なにが民主主義2.0だ、と小声でふてくされ、むしろ自分たちはトライステロにネットワークしてもらうべき、歴史の陰におしこまれてしまう側なんじゃないかと一瞬思った。好き放題に書いている。

 そう考えてみると、やはりテレビというのはすごいんだなあ、と今さらながら見直してしまう。実家はとっくに地デジ化されているし(ライフライン!)、必要以上に大きい型のテレビが、なぜか余ってさえいるらしい。本当に、なぜ。
 とはいえ、私が毎週欠かさず見ている番組は「タモリ倶楽部」と「モヤさま2」だけで、なのにその両方とも、実家では放送がなかった。天からするすると下ろされてきたライフラインを、自分の手で払ってしまった感触がある。
(「でも、モヤさまはDVDも出るからいいじゃないですか」と言ってくれた友達がいたが、「とてもDVDには入らないような回こそがモヤさまの醍醐味」という私の返事は、われながら正しかったと思う。こないだ日曜の赤羽編が、見ているあいだはそんな意識はなかったものの、大江アナモヤさま2の見納めだったのかもしれない)

 ・・・そのようなわけで、というか本来はこのことを伝えるつもりで今日のぶんを書き始めたのですが、ここ数ヶ月のあいだ滞りがちだったこのブログの更新は、さらにいっそう、滞ります。M&Dは、読むだけでもネットが要る。というか、そういう読みかたを選んでしまった。

 いっそこれを機にブログもツイッターもやめるという選択肢はありだろうかと妄想してみたけれど、現実にはこういうものもあると知れば、即効で・かつ全力ですがりつきたくなったのが正直なところ。
 他社の似たサービスはどれも電波が入らないと言われたから、これがほんとに唯一の希望である。まともにつながり安定して使えたら、docomoは私をCMにしてもよいと思う。つながらなかったら、おとなしくピーガガガの人になります。

 そしてまた、「半年、本を買わない」という決意がありかなしかについても書くつもりでいたが、いいかげん疲れてしまった。いま金曜の夜中で、寝て起きたらこのPCも梱包しなければならない。
 来週中の復帰をみずから祈っています。かしこ。
2009/08/29

パソコンが壊れた

前回

 どうやっても起動しないのだった。
 この数日のあいだ、じたばたしてみたものの、リカバリも無理な様子。
(今日は携帯から更新している)

 読中日記にはまだアップしてないぶんがあったんだが、もう一度書き直すことを考えると早くもぐったりしてくる。
 しかし、いまのこの暗い気持と、携帯のキーをプチプチ打つ行為のギャップがまぬけな感じで救われる思いだ。

 8月28日現在、『ヴァインランド』はまだ読み終えていません。

2009/05/14

素材の味だったり


 何年か前の正月にテレビで見て以来、なんの関係もないとき唐突にフレーズのいくつかが頭のなかに甦り、かといって生活の大抵の時間は忘れて過ごしているからあらためて人に話したりすることもなかった物件を、今日たまたま、ネットにつないでいる最中に思い出したのでさがしてみたら、あっさり見つかった。
 うれしいはうれしいんだけど、いろんなものが無作為に沈んだ得体の知れない沼のようなものである(あってほしい)自分の脳内が直接ネットにつながれているようで、ちょっと変なかんじでもある。
 こうなると、Google様でも届かない自分の直接体験の記憶が逆にますます大切になりそうな気もするが、しかしそんなものが本当にそういう意味で価値があるのかどうかは別の話だ。それとも、こういう逡巡ってもう古いのか。
 ↓とか言いつつ、おぼえてて・さがして・見つけたのはこんなものだけど。

 さまぁ~ず「キノコの話」
 http://www.youtube.com/watch?v=p7pnneyoT1U
2009/05/07

サン・ジョルディの日は4月23日


 今年は去年ほど柏餅を食べていないことに気がついた。意味のない気づきであった。

■ 人に本をあげるのはむずかしい。気に入らない本をあげても仕方がない。この人ならこれを気にいるんじゃないか、と踏んだ場合、すでにその人はその本を読んでいる、という可能性もある。
 ちょっと前、そういうことも考えず、発作的に岸本佐知子の『ねにもつタイプ』を誕生祝いとしてある友達に送りつけた。このセレクトについてどうこう言われたくはない。でもamazonでギフト包装をつけ、確定ボタンをクリックしてから不安になった。
 その友達とじっさいに会う機会が連休中にあったので、もしかしてあの本、自分でお持ちだったんじゃないでしょうか、と訊いてみたところ、予想は的中し、誕生日のまえにちょっと入院したとき自分で買って読み、そのまま病院に置いてきたという。そこに私が送りつけた格好だ。プレゼントとしてあきらかに失敗である。
「置いた本が追ってくる感じだったんですね。それも『ねにもつタイプ』が」
「与えれば与えられるんだな、と思いました」

 そういう意味ではないんじゃないか。そのうち何かおごろうと思う。


■ ついさっき知った。こういう本が出ていたらしい。
 
 
ガルシア・マルケスひとつ話ガルシア・マルケスひとつ話
(2009/04)
書肆マコンド

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「書肆マコンド」ってなんだろう、と思ったら、↓このサイトの人が書いたことをまとめたみたい。
 
 ガルシア・マルケス活用事典
 http://members.jcom.home.ne.jp/macondo/index.html

 このサイトじたい知らなかったが、ちらっとのぞくだけでもすごい。ぜんぶ読みたい、ということで、この本はぜひほしい。
 ちょっと高い(3360円)んだけど、出版元であるエディマンのサイトにあるブログを見てみたら、この本、『百年の孤独』の舞台であるマコンド村の美麗な地図が、羊皮紙に印刷されて巻末についているという。
 ほしい。すごくほしい。すごくほしいものは自分で買う。
2008/09/22

日記


■ 9/20(土):

 10時前から高田馬場の早稲田松竹「ノーカントリー」。混んでいた。
 ああ、これはすごい。公開時に見にいけばよかった。連続殺人鬼が追いかけてくる。はじめて追いつかれるシーン、沈黙が続いたあとの一撃で、体が文字通りビクリとなった。ただの電話のベルもめちゃめちゃまがまがしく響く。緊迫しすぎ。そして終わり方に茫然。
 生身なのにターミネーターみたいな殺人鬼がとにかくこわい。なんかの象徴としてとらえられれば落ち着くんだが、あんな変な武器とか(圧搾空気を発射するボンベ?)特殊な行動倫理では無理だ。なにより髪型がこわい。

 見終わってどっさり疲れる。映画館を出て芳林堂に行ったらナボコフ『ディフェンス』新装版が平積みになっていたので買う。喫茶店で別の本を読みつつ、こっちも半分まで読む。
 
 5時、映画館に戻って「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」。満員。
 ああ、これもすごい。公開時に見にいけばよかった。20世紀はじめの石油王、その突撃人生。「極端」で「過剰」で「偏って」「歪んだ」人間。
 それといちばん激しくぶつかる、変なカルト宗派の神憑き預言者もすごかった。この2人が対決する場面は芝居のなかで芝居がされている感じ。聖書を知らない私には見えない工夫とかたくさんあったんだろうが、最後、ボーリングのレーンがある部屋のシーンはもう、歪みすぎて笑っていいんだかなんなんだか。そしてやっぱり、終わり方に茫然。
「ノーカントリー」の殺人鬼も、見た瞬間にわかる“ヤバい人”になっていたが、こっちの青年預言者も顔つきからしていかにもヤバい。俳優ってすごい。なにより髪型がこわい。

 見終わって8時、またも疲労困憊。「髪型がこわい2本、ってことか」と考え込みつつ、近くで飲んでた友達に合流。
「社長のワイシャツ」「『ポニョ』はすげえ」「3次元からはじめよう」「『新しい太陽の書』が3組」「香川県だけは」「一緒に成長したいタイプ?」って、もう何の会話だったかわからない。
 うっかりビールを飲んでみたら眠った。帰宅0時。


■ 9/21(日):
 
 寝ていた。



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