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2004/05/17

ジョルジュ・ペレック『W あるいは子供の頃の思い出』(1975)

Wあるいは子供の頃の思い出
酒詰治男訳、人文書院(1995)

 フランスの小説なので、タイトルの「W」は「ドゥブルヴェ」と読むそうである。「ドゥブルヴェ、あるいはこどものころのおもいで」とつぶやいてみると、やはりフランス語はずるいと思う。

 ふたつの異なる文章でこの小説は始まる。Ⅰ、Ⅲ、Ⅴ…の奇数章はひとまずフィクションで、第二次大戦中に軍を脱走したフランス人の話。Ⅱ、Ⅳ、Ⅵ…の偶数章では、作者とおぼしき語り手が、ほとんど記憶にない自分の生い立ちを回想しようとしている。
 この繰り返しで90ページほど続く第一部では、後者のほうにより強い思い入れが感じられる。1936年のパリに生まれたユダヤ系の「作者」は、まず戦争で父を失い、アウシュビッツで母を殺された。《ぼくには子供の頃の思い出がない》。
 13歳の時、彼は「W」という島を舞台に物語を構想した。第二部に入ると、ひさしく忘れていたその物語が再構成されて語られる。第一部との断絶は読者が勝手に埋めていいらしいが、それはグロテスクな世界である。

 南米の小島に設定された「W」は、運動選手たちの国家である。
〈スポーツ〉と生活が一体化し、国民は選手かその関係者(コーチや大会の役員)しかいない。大部分の女性は生まれたときに殺され、生き残った者たちも、長じてのち競争に勝った選手に供される。
 22の競技、ひとつの村から選出される競技者の人数、大会ごとに決められている勝者の称号、その他もろもろ〈スポーツ〉のルールは事細かに定められているいっぽうで審査員たちの気まぐれに左右される部分も多く、最悪の場合、敗者は殺され死体は晒される。
 物語といいながらドラマはない。えんえんと、この島の陰惨な設定が説明されるだけだ。しかし、第一部から聞こえてくる「ぼく」の過去をめぐる声によって、語りは異様な迫力を帯びてくる。
《なにも言うべきことがないと言うために書いているのではない。ぼくは書く。ぼくは書く。なぜならぼくたちは一緒に生きたのだから。なぜならぼくは彼らの一員だったのであり、彼らの影のあいだの一つの影、彼らの体のそばの一つの体だったのだから。ぼくは書く。なぜなら、彼らはぼくの中に消し去ることのできない刻印を残したのだし、そして彼らのその痕跡が書くことなのだから。彼らの思い出は書くことにおいて死んだ。書くことは彼らの死の思い出であり、ぼくの生の肯定なのだ。》p61

 歴史上の悪夢は彼にとって歴史でも悪夢でもない。



※(2013/12/15追記:水声社から復刊されてました)

W(ドゥブルヴェ)あるいは子供の頃の思い出 (フィクションの楽しみ)W(ドゥブルヴェ)あるいは子供の頃の思い出 (フィクションの楽しみ)
(2013/11)
ジョルジュ ペレック

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