2020/01/31

内田百閒『続百鬼園随筆』(1934)

旺文社文庫(1980)

『百鬼園随筆』(1933)がヒットしたので編まれた第2弾、なんだと思う。
 全体は4ブロックに分かれる。最初の「近什前篇」と最後の「近什後篇」がいわば新作パートで、そこに入っている計22篇はだいたいが『百鬼園随筆』のあとに書かれたものらしい(巻末についている平山三郎の「雑記」による)。
 で、それらは――『百鬼園随筆』のあとで読むと――意外なくらい、ふつうの随筆に見える。あの“次に何が出てくるのかわからない”、そして“読んでいるこれが何なのかわからない”アナーキーさを期待すると肩透かしを食う、というのが正直な感想。
 もちろんふつうのエッセイとして面白い、と急いで付け足して、いくつか引用する。

 まず「立腹帖」。子供の時分、腹を立てすぎて怒りのあまり歯ぎしりをしていたら耳が動くようになったという百点のエピソードから始まって、自分が真剣に腹を立てたときの出来事と、その際の心身の具合を書いていく。
 もっとも強烈な怒りは関東大震災の前、新橋駅で駅夫から「不正乗車をした」と決めつけられた話。もちろんそんなことはしていないので抗議すべく駅長室へ行くが、駅長は聞く耳を持たず駅夫に加担する。ここまで、段階的に腹立ちが増していく。
《「失敬な事を云ふな」と云つた拍子に、私は声が咽喉[のど]につかへてしまつた。怒りのために、身体の方方が、ぴくぴくふるへるのが自分で解つた。》p20

《階段や、プラツトフオームにゐた澤山な人の顔が、ただ、ぽかりぽかりと浮動してゐる白い汚染[しみ]の様にしか見えなかつた。》p21

《私は、あんまり腹が立ち過ぎて、口の中がかさかさに乾いてしまひ、咽喉の奥にも苦い物がこびりついて、急には声が出なかつた。》p21

 わかる。すごいよくわかる。わたしも同じような状態に陥った15年くらい前の高田馬場ドトールでの出来事を思い出し、あの店はまだあるのかGoogleマップで探してしまった(なかった)。
 窮した百閒は、自分はそんなことをする人間ではないと示すため名刺を出す。当時教えていた海軍機関学校と陸軍士官学校と法政大学の肩書きをまとめて刷り込んだ「護身用」の名刺である。
《駅長はその名刺を取り上げて、暫らく眺めてゐる内に、不意に足音をたてて起[た]ち上がつた。あつけに取られてゐる私に一礼した上で、
「御身分のある方に対して、誠に失礼いたしました。謹んでおわびを申します」
 それから、駅夫の方を指しながら、
「部下の失態につきましても、私からおわび申上げます。何分数多い乗降客の中で、お人柄を見誤つたものと存じますから、平にご容赦願ひます」と云つた。その云ひ方が、非常にしらじらしくて、私は益[ますます]腹が立つた。何か云はうと思つてゐると、駅長は起つたなりで、重ねて切り口上で云つた。
「私からおわび申上げます。部下は後程よく叱り置きますから、これでお引取り下さい」
 私は駅の前に出たら、空も道も真つ黄色に思はれた。黄色い道がまくれ上がつて、向うの通から、家竝[いへなみ]の屋根の上に跨がつてゐる様な気がした。》pp22-3*太字は引用者、以下同じ

 強い感情が身体(耳)を動かすばかりか、感覚までおかしくするのを文章で書き留める。わたしが百閒の本から拾いたいのはそういうところである。
 そして「続立腹帖」もある。こちらで回想されるのは、森田草平と飲んでいた夜のこと。なりゆきでふたりは別の座敷にいた慶応大学の学生たちに絡まれる。次第に空気が不穏になって、帰る間際、ひとりがとつぜん百閒の横面を張って《私が向き直る隙もなく、その男は、もう往来の暗闇に姿を隠してゐた。》
《帳場から飛び出して来た男達に抱き止められたまま、私は憤激の為に身体がふるへて止まらなかつた。
 私は、どんな手段によつても、この男を探し出さなければ承知しないと考へつめた。二日も三日も心が平静に返らなかつた。
 それから十年たつてゐる。その時殴られた恥よりも、その恥を十年後の今日、なほ忘れ得ない妄執の方を、恥づかしく思ふ可[べ]きである。しかもその恥を更に自ら文に綴つて、人中にさらして悔いない程、私の遺恨は深いのである。》p25

 この文章を百閒は、「三田新聞」の原稿依頼に応えて書いている。ねにもつタイプ。わたしが百閒の本から拾いたいのは、こういうところでもある。

 次は「炎煙鈔」。子供のころから火事を見物するのが好きだった百閒が、数かずの火事の様子を綴る。生き物のような炎の書きぶりを見てほしい。
《昼火事は、従兄の家のすぐ裏なのであつた。もう大方荷物を運び出した後の、がらんとした家の中から見通しになつてゐる裏の藁屋根の家の廂[ひさし]を、炎が流れる様に這[は]つて行くのが見えた。》p170

《さうして今度表に出て見た時には、往来はあわただしくなり、郵便局の前で人人が罵り合つてゐた。外から表の戸を破つたのださうである。何となく辺りが明かるくなつた様に思はれ出した。油屋の中庭から、内側で燃えてゐる燄[ほのほ]の色が、空に映り始めたらしい。さう思つてゐるうちに、不意に大きな火の筒が、屋根の棟を突き抜けて、暗い空に、ばらばらと火の子を吹き上げた。
 燃えさかつてゐる最中に、油屋の二階から、火を引いた油が真赤な瀧になつて、辺りに渦巻いてゐる大きな燄の中に、不思議な光りを放ちながら、流れ落ちた。》p171

 さらっと書き流すようで、百閒の炎は、たしかに流れている。いまのは昭和9年(1934)の文章だが、その11年後、昭和20年4月14日にあった出来事を『東京焼盡』(1955)から書き写す。どうもわたしは『東京焼盡』が好きすぎるな。この日は午後11時に空襲警報が鳴った。
《大概大丈夫と思はれる様になつてから土手の方へ行つて見たが、丁度その時雙葉の一番こちらの外れの一棟が焼けてゐるところにて、その火が土手沿ひの道にかぶさつてゐる何百年かの老松の枝に移り、白い色の燄[ほのほ]が水の傳[つた]はる様に梢から幹に流れた。雙葉の一郭は大変な火勢にて、すつかり火の廻つた庇[ひさし]だか天井だか解らぬ大きな明かるい物が、燃えながら火の手から離れて空にふはりと浮かび、宙を流れる様に辷[すべ]つて、往来を越して土手に落ちた。土手も燃えてゐる。土手が燃えるかと更[あらた]めて感心した。アスフアルトの往来には白光りのする綺麗な火の粉が一面に敷いた様に散らかり、風の工合では吹き寄せられて一所にかたまつたり、又一ぱいに広がつたりしながら、きらきらと光つてゐる。道もせに散る花びらの風情である。[…] 大分寒くなつたが、雙葉の火に暫く向かつてゐると暖かくなる。》『東京焼盡』(旺文社文庫)p115

 どうしてこんな文章が書けるんだ、と空恐ろしい気持でいたが、B29が来なくても、むかしから家は燃えており、むかしからそれを百閒は見ていた。でもだからって、どうしてあんな文章が書けるんだ。

 ところでこの『続百鬼園随筆』が珍しいのは、新作に挟まれた真ん中に、新作ではないパートがあることである。それは旧作も旧作で、なにしろ百閒が十代後半から二十代のはじめに書いた文章が集められ、「文章世界入選文」と「筐底稺稿」というくくりでまとめられている。
 まず「文章世界入選文」。その当時「文章世界」なる文章指導雑誌があり、百閒は17歳から18歳にかけて投稿を続けていた。選者は田山花袋。採用されたもの・されなかったものが計8篇読める。
 とはいえ、それらはいわゆる写生文の練習で、起きた出来事・見た景色をありのままであるかのように綴ったものであり、「百閒の若書き」という前提がないと(いや、あっても)あんまり面白くはない。こんなに細かいところまで気付いたんですよ、という観察のための観察めいた部分も目についた。
 しいてあげれば、8篇中最初の3篇が「乞食」といって家の前を通りかかった盲目の乞食を「おい。目くら」と呼び止め食べ物を与える話と、「按摩」といって家の前を通りかかった按摩を「おい、按摩や」と呼び止め家に入れて祖母のマッサージをさせる話と、「靴直し」といって家の前を通りかかった靴直しを「おい靴を直して呉[く]れんか」と呼び止め靴を直させる話、と連続しており、この一方的な上下関係を繰り返し題材に選んでいる事実が百閒青年の何かを示唆することになったりするのか、ほんの少し気にかかる。
 このころは百閒もまだ百閒ではなかったのかな、とページをめくって「筐底稺稿」。「稺」を調べると「稚」のことだったので、ずっとしまってあった幼稚な文章、くらいの意味なのかもしれない。ところが最初の「鶏蘇佛」を読み始めると、いきなり様子が違うのである。
《何でも本を読まねあおへん、と堀野は何時[いつ]も云つた。それから、早く読むと云ふのが自慢であつた。仰山読まうと思や、早う読めねあおへん、と堀野が口癖の様に云ふ、僕は成程[なるほど]と思つて、成るたけ早く読む様に稽古をした。堀野と友達になつた御蔭で、急に本を読むのが、好きになつた。》pp112-3

 こんなふうに仲がよかった中学(旧制)時代からの親友、堀野。《その堀野が死んで仕舞つたのである》。これは早逝した彼の思い出を綴った追悼文だった(「鶏蘇佛」は堀野が俳句を作るときの号)。
 こんなふうに遊び、こんなことをしょっちゅうやって、《まだ続く筈[はず]の所を、七年目に堀野が死んでしまつた》。堀野はこんなことをした、でも堀野は《死んで仕舞つた》。堀野はこう言って、自分がこう思っていたら堀野は《たうとう死んで仕舞つた》。こんなことがあった、《そのうちに堀野が死んだ》。
 やったこと、言ったことをひとつずつアルバムに収めるように書き記しつつ、時間が経ってからも間隔をおいてぶり返してくる感情をそのままなぞっているのか、「死んだ」「死んで仕舞つた」と重ねていくこの13ページの文章は、さっきの写生文に比べると子供と大人以上の開きがある。百閒がこれを書いたのは高等学校(旧制)在籍時で、写生文とせいぜい2年しか違わないことにおどろく。
《去年の秋、同窓の井上啓夫君が死ぬる前、堀野と二人で見舞に行つた。帰りに色色[いろいろ]病人の事を話しながら、畦道を傳[つた]つた。その内に日が暮れかかつた。僕が何時[いつ]も散歩する辺であるから、僕は割合平気であつた。堀野が、此[この]辺の道案内は、一切あんたにまかしぢや、と云ふ。僕が先になつてずんずん歩く。後から堀野がてくてくとついて来る。何時の間にか、二人とも亡父の話しをして居た。しみじみと話し合つて行くと、秋草が頻[しき]りに裾[すそ]に触れた。農家に灯がちらつき始めた。もうこんな話は止めよう、と堀野が云ひ出した。それから、堀野の内へ帰つて、明かるい洋燈[ランプ]の下で、お祭の御馳走をよばれた。》p118

 このころから百閒はもう百閒だったんだな、と考えを改めながら、今よりずっと身近に死があった時代のことをちょっと思った(この「鶏蘇佛」のあとに続くのも、別の友達の追悼文である)。
《鶏蘇佛の遺友は、君が生前の友誼[いうぎ]をかたみとして、若き日と分れた。これから後の年月に、蚊柱の夕、落葉の暁を数へつくして、黄壌の君が僕を忘れる時があらうとも、僕は嘗[かつ]て君と共に花を踏んで惜しんだ少年の春をいつまでも偲ぶであらう。
   入る月の波きれ雲に冴え返り》p123

 このまっすぐさを見たことで、後年の変幻自在な文章がいっそう底の見えないものになった気がする。なお、ここではひと言も触れられていないけど、この堀野には妹がいて百閒は――というのはまた別の話だった。次は『無絃琴』です。



■ 旺文社文庫『続百鬼園随筆』(1980)目次:
近什前篇
 雞鳴
 春秋
 立腹帖
 続立腹帖
 傅書鳩
 百鬼園師弟録
 或高等学校由来記
 食而
 大晦日
 目白
 学校騒動記
 大鐘

文章世界入選文
 乞食  按摩  靴直し  大晦日の床屋  西大寺駅  初雷  参詣道  私塾

筐底稺稿
 鶏蘇佛  破軍星  雀の塒

近什後篇
 風燭記
 俸給
 啞鈴体操
 黄牛
 薬喰
 忠奸
 掏児
 炎煙鈔
 南蛮鴃舌[ちいちいぱつぱ]
 琴書雅游録

解説 内田道雄
「続百鬼園随筆」雑記 平山三郎


*確認していないけれども、新潮文庫の『続百鬼園随筆』には(仮名づかい以外は)同じものが入っていると思う。
*ちくま文庫『立腹帖』には、「立腹帖」のほかは鉄道関係の文章が集められている模様。「続立腹帖」がないのか…
*福武文庫『長春香』なら「鶏蘇仏」が入っていることがわかった。

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