2020/01/21

内田百閒『百鬼園随筆』(1933)

旺文社文庫(1980)

 文庫本の裏にある紹介文を引用する。
《幼時の思い出を語り、債鬼に追われる顛末を録し、さり気ない身辺のことどもを綴りながら、その平易な文章の裏側に恐るべき哄笑の爆弾が仕掛けられている。室生犀星をして“天下無敵”と賛嘆せしめた日本語の精華。昭和初期に随筆ブームを巻き起し、内田百閒の名を一躍高めた古典的名著。》

 昭和初期の「随筆ブーム」も気になるが、それはともかくこの『百鬼園随筆』は、たしかにここに書かれている通りの本である。
 幼時をはじめ、さまざまな思い出を語る文章が、たしかにある。債鬼に追われるほか、実際に起きたのだろう出来事の顛末や、もっと地味な身辺のあれこれを綴った文章も、たしかにある。何も間違ってない。
 この本を読み返すたびに思うのは、しかし、ひとつひとつの文章の書かれっぷりはおそろしく雑多だということだ。「たしかに思い出話」「たしかに身辺雑記」と分類できて、そういうものとして落ち着いて味わっていられるものがたくさんがあるいっぽう、「こんな書かれ方のエッセイがあるものか」「これはもう小説じゃんよ」と立ち上がってしまう文章も山ほどある。そんなあれこれのすべてをひっくるめ、一冊に収める枠に何とか使えそうなものとして“随筆”を持ってくるしかなかったんじゃなかろうかと、あきれながら感心する。つまり、ここで“随筆”は何の枠でもない。『百鬼園なんでも箱』である。
(だから何も調べずに決めつけるが、この本の題と同じ意味での“随筆”がブームを起こすなんてありえないだろう)

 たとえば、子供のころの思い出話に「遠洋漁業」がある。千島の探検をした郡司大尉の講演を聞いて真似をしたくなった百閒少年は、幼馴染みの「壽さん」といっしょに目高[メダカ]を30匹捕まえる。保存食にするために干して乾かし、それから火鉢で煎って醤油で味付けまでして、ひどい臭いがするけれども空き鑵に入れて戸棚にしまう。
《さうしておいて遊びに出た。私共は一先[ひとま]づ目高の事を忘れなければいけない。さうして、腹がへつて帰つて来て、何か食ふものはないかと考へた時に、目高があるから、あれを食つて飢ゑを凌[しの]がうと思はなければ面白くない。しかし、外に出て見ても、目高の事ばかり気になつて、忘れる事はとても出来さうもないから、又ぢきに帰つて来て、二人で目高を食ひ始めた。鑵の中から出して、一匹づつ食つた。にがくて、煙臭くて、口の中がぢやりぢやりして、ちつともうまくない。》p36

 そりゃそうだろうという話ながら、もう一文だけ続きがある。
《それを我慢して、幾匹も幾匹も食つてゐる内に、何となく悲痛な気持になり、何を云ひ出したのか忘れてしまつたけれど、後で壽さんと喧嘩[けんくわ]をして別れた。》p36

「悲痛な気持」から唐突な喧嘩に流れる子供の心理を、さっきあったことのように簡単にたぐり寄せて文章にしている(少なくとも、そんなふうに見える)手つきに、目の覚める思いがする。書いているのは、当たり前だが子供じゃないのに、である。

 たぶんこれよりさらに幼いころの思い出が「虎列剌」。読み方は「コレラ」で、あの伝染病を漢字だとこう書くのはこの本ではじめて知った。
 家族で海水浴に行って旅館に泊まっていたら、夜中に2階で虎列剌の客が出た。叩き起こされ、慌ててみんなで未明の海辺を逃げることになる。
《土手の道は暗かつた。足許[あしもと]の石垣の下で、浪が砕けるたびに、ぴかりぴかりと光るものがあつた。細い道が、あやふやな薄明りで、魚の腹のやうな色をして伸びてゐるけれども、直[す]ぐ先で闇との見境がなくなつてしまふ。後から何だかついてくるらしかつた。虎列剌と云ふ恐ろしいものが、わざと姿を消して、私共を追つかけてゐる様に思はれた。
 夜が明け放れてから、港の町に著き、そこで俥[くるま]を雇つて駅に出た。巡査や駅員のゐる所では、だれも口を利かなかつた。》p16

 その語を聞いても意味がわからなかっただろうコレラから逃げる(=コレラが追いかけてくる)怖さ――もしかすると「怖さ」とさえはっきり理解できていなかったかもしれない、わけのわからなさ――が、「虎列剌」の文字面と相まって、それを何か生き物のような存在にしてしまっている。コレラがそのようなものに思われた幼時の感覚に似た印象を、もう幼児ではない読者に対し、「虎列剌」の文字面を使った文章で再現しているとでも言おうか。こんなふうに言葉を使うから、思い出話も思い出話だけには収まらなくなって、「虎列剌」が読んでいるいま、こちらにまで忍び寄ってくる感じがする。

 かと思えば子供時代のずっとあと、書いている現在に近く、いわゆるふつうのエッセイにも近いのが「大人片傳」。これは語学教師だった百閒の「鳳生大学」での元同僚、大人[たいじん]こと森田草平のエピソードを集めたものだが、その大人が出てこなくても、教員室でのお昼について書いている部分はとくに面白い。
 そこでは毎日11時になると昼食の注文を取る。人がいいものを食べていると自分も御馳走を食べたくなるが――
《一体出先の午食[ひるめし]に御馳走を食はうとするのは、何と云ふ浅間しい心根だらう。明日からは握り飯を持つて来る事にきめたいと思ふのである。さうして手辨当を一日二日続けると、また他人[ひと]の食つてゐるものが欲しくなる。忽[たちま]ち握り飯を廃止して、暫らく振りに天丼を食ふ。初の二口三口は前後左右の物音も聞こえなくなる程うまい。しかし凡[およ]そ半分位も食ひ終ると、又いろいろ外[ほか]の事を考へ出す。御飯が丼の底まで汁でぬれている。天丼と云ふものは、犬か猫の食ふものを間違へて、人間の前に持ち出したのだらう。ああ情ないものを食つた。明日からは、もう何も食ふまい。腹がへつたら、水でも飲んでゐようと考へる。》pp97-8*太字は引用者、以下同じ

 勝手すぎるし極端すぎる煩悶だが、わたしはこれを読んだ次の日に天丼を食べに行った。ともあれ、そこに大人が登場する。
《さう云ふ教員室の午食時[ひるめしどき]に、草平大人は、脇目もふらず、お皿を鳴らしてライスカレーを食つてゐる。》p98

 この「お皿を鳴らして」という、一見何気なく読み流しそうなのに、よく考えれば考えるほど卓抜なものに思えてくる表現は、よそで見たおぼえがない。スプーンを急いで使うとき、鳴るのはたしかに皿である。ほかに用例はあるのだろうかと訊きたくてここを引用した。あるんだろうか。
 身の回りの小さなことが面白おかしく書かれるだけでなく、スペクタクルが描かれることもある。大正12(1923)年の関東大震災よりも前、海軍の機関学校に勤めていた百閒は、週一で学校のある横須賀まで行っていた。駅からの道の途中に工廠があり、「恐ろしく大きな軍艦」が建造されているのを行きも帰りも見て通った。
《鉄骨の足代の底から、伸び上がつて来た鉄壁が、いつとはなしに、見上げる様な高さになり、煙筒も帆柱もない、のつぺらぽうな大きな船の形になる迄に、一年かかつたのか、二年たつたのかわからない。鉄骨の枠の中に、その大きな物体が固定して、もうちつとも伸びなくなつてからでも、一年ぐらゐは過ぎたらうと思ふ。毎週一囘づつ、横須賀に行く私には、向うの岬の展望を遮つて、枠の中に赤黒い丘の如く聳え立つてゐる陸上の船が、横須賀の自然の一部となつてしまつたのである。》p30「進水式」

 その船がいよいよ完成した進水式に、百閒も呼ばれる。
懸橋は段段に高くなつて行つて、厳[おごそ]かにしつらへられた台に通じてゐる。辺[あた]りの気配が次第に引きしまつて来るらしかつた。その台の上に起[た]たれた高貴の方[かた]が、小さな黄金の槌を挙げられたのを、遙かに拝したやうな気がした。不意に辺りがしんとして、息がつまる様に感じた瞬間、忽[たちま]ち何処からともなく湧き上がる様なざわめきが傳[つた]はつて、それが段段に大きくなつて来た。軍艦の胴体を繋ぎ止めた最後の綱の端が、高貴の方の前に導いてあるのを、黄金の槌を以[も]つて打ち断[き]られたのである。大きな薬玉[くすだま]が割れて、鳩の群が出鱈目の方角に乱れ飛んだ。どよめきが益[ますます]大きくなつて、何の声だか、響だかわからなくなつた途端に、私は、はつとして全身に水をかぶつた様な気がした。すぐ目の前にある赤黒い丘が、少しづつ動き出したのである。まはりのどよめきは怒号に達してゐる。その中に、微[かす]かに音楽の音色も混じつてゐるらしい。胴体が辷[すべ]り出した。見る見る内に速さを増した。辷つて行く艦底を目がけて、砂囊を無暗[むやみ]に投げつける人があつた。何処かで、火花が條[すぢ]のやうに走つたと思つたけれど、はつきり意識する事が出来なかつた。足の尖[さき]から、地響が傳はつて、段段大きくなる様に思はれた。
 赤黒い胴体が、速さを増して海の方に遠ざかるにつれて、少しづつ、輪廓の収縮して行くのがわかる様な気がした。それが何とも云へぬ物凄い感じを與へた。
 遠くに見える海面に、白浪をたてて、のつぺらぽうの軍艦が浮かんだのを見ても、何となく気持がぴつたりしなかつた。あんまり勝手のちがつた光景を瞬間に眺めて、私は壮大な感激を十分に会得する事が出来なかつた。ただ、今まで目の前にそそり立つてゐた大きな物が急になくなつて、その向うに大勢の人の顔が一ぱいにつまつて居り、向きの違つた風が吹いて来て、辺りが何となく白け返つてゐる事の方を、しみじみと感じた。》pp31-2「進水式」

《あんまり勝手のちがつた光景を瞬間に眺めて、私は壮大な感激を十分に会得する事が出来なかつた》と言っているけれども、こうやって文章で、ただ文章だけで、「あんまり勝手のちがつた光景」のスケールを紙上に収めようとしていることにわたしはちょっと感激する。そのうえで、《辺りが何となく白け返つてゐる事の方を、しみじみと感じた。》なのである。
 なお、震災後に百閒はこの横須賀の様子を見に行く。
《駅の前の広場を過ぎて、すぐに崖の下の狭い道にかかる所の様子が変つてゐた。暗い筈の道が妙に明かるかつた。見上げる崖の上の山の姿が、すつかり変わつてしまつて、高さがもとの半分にも足りなかつた。大地震が、横須賀の自然を変へてしまつたのである。姿の変つた山を見上げた時、私は不意に芽出度[めでた]い進水式当日の記憶から、急にゐなくなつた、のつぺらぽうの軍艦の姿をなつかしく思ひ出した。》p32「進水式」

 この人は「大きいもの」、「大きな変化をもたらすもの」によく惹かれ、果敢に観察して文章化を試みる。そしてまず「大きいもの」として、自然が捉えられている気がする。『第二阿房列車』(1954)でも、車窓に日の出と富士山の組合わせを見て仰天するところとか、水害のあとの阿蘇山の絶景を写し取った部分があった。「大きいもの」として、自然を描く調子と建造物を描く調子とに違いがなく、半分なくなった山といなくなった軍艦が重ねられるとすれば、『東京焼盡』(1955)も同じように自然を観察する眼で見られ描かれたものとして読めるかもしれない。いまひどく乱暴なことを書いた。

 大きいものの対極の小さい文章として、アフォリズムのように読めるものにも、たびたびびっくりさせられる。
《本を読むのが段段面倒くさくなつたから、なるべく読まないやうにする。読書と云ふ事を、大変立派な事のやうに考へてゐたけれど、一字づつ字を拾つて、行を追つて、頁をめくつて行くのは、他人のおしやべりを、自分の目で聞いてゐる様なもので、うるさい。目はそんなものを見るための物ではなささうな気がする。》pp39-40「風呂敷包」

《「己[おれ]は嘘はついてもそんな嘘はつかない」と彼が云つた。方針を立てて嘘を吐くのを恥づかしいと思つてゐない。》p67「梟林漫筆」

私と云ふのは、文章上の私です。筆者自身の事ではありません。p188「蜻蛉玉」

 もういちど書き写す。
私と云ふのは、文章上の私です。筆者自身の事ではありません。p188「蜻蛉玉」

 もういちど、書き写す。
私と云ふのは、文章上の私です。筆者自身の事ではありません。p188「蜻蛉玉」

 砂糖をなめて「甘い」と言うみたいで気が引けるが、百閒の文章は本当に自在である。その自在な文章の粋を尽くして書かれた頂点として、わたしは「地獄の門」を選びたい。なんだか言葉遣いが大げさになってしまって恥ずかしい。
 これは金に困った「青地」という名を持つ「私」がはじめて高利貸の家を訪ねるところから書き起こされ、金を借りるまでにどんなやりとりがあったか、そしてそれからどうなっていったかを描いた、一種の小説だとまずは言えそうである。それにしても冒頭からもう怖い。
《暗い横町の角を曲がつて、いい加減な見当で歩いて行つた。今まで、大通で向かひ風を受けてゐたのに、急に風の当たらない向きになつたので、頸[くび]から顔がほてつて来るやうに思はれた。しかし、その所為[せゐ]ばかりでもないらしい。軒燈に照らされてゐる表札を見ながら行くと、その家の番地が、だんだんに近くなつてゐる。道端に寝てゐた犬が寝返りした拍子に、私はびつくりして、飛び上がつた。
 暗い小路を二三度曲がつて、もうここいらに違ひないと思ふあたりを探して歩いたけれど、路地ばかり無暗[むやみ]に沢山あつて、なかなかその家は見当たらなかつた。初めての、知らない家を訪ねるのだから、夜ではわかりにくいと思つたけれど、昼日中[ひるひなか]、さう云ふところを訪問する元気はなかつた。》p132

 気は進まない・だがほかに方法がない、という重苦しい気持を抱えて、しかも見つからない家を探さないといけないのである。気が滅入る。
《酒屋で教はつた角を曲がつて行くと、暗い道が、少し坂になりかかつたところに、変に明かるい街燈が一つ起[た]つてゐた。手前の家の石垣の陰になつてゐて、余程傍まで行かなければ見えなかつたのである。近づいて見ると街燈の丸傘に「田島」と云ふ字が、はつきりと読めた。私は、はつとして、その字を横目にちらりと見たきり、急いで前を通り越して狭い坂道をどんどん下りてしまつた。》pp133-4

 この「はつとして」目当ての家をいったん通り越してしまう心理が、痛いほど、嫌になるほど、よくわかる。このあと、借金の手続の進められる様子がおそろしく細かく描かれ、それは「私」が受け入れるべきでないことをひとつずつ受け入れていく(ほかに方法がない)過程と言っても同じだが、読んでいるこちらは《私は顔の熱くなるのを感じた。》(p145)など自身に向けられた直截で容赦ない表現を追いながら見守ることしかできない。
 心胆を寒からしめるというのはこういう文章のことかと思うけれども、百閒の観察は苦しむ「私」を見つめつつ、苦しめる高利貸「田島」の人となりをも容赦なく浮き彫りにしていく。借金、しかも高利貸の現場において優勢・劣勢は一方的だろうが、その文章化ということになると、決してそうとは限らないようである。それも、高利貸の非道を筆の力で暴く、みたいなことでは全然なく、ただその現場を丹念に描写することで、この作者は上述のすべてを行なうのである。
《私は、それから直[す]ぐに帰つた。
 玄関には、また細君が控へてゐて、同じやうな挨拶をした。今夜は昨夜ほど、顔が長くないやうに思はれた。
「やあ」
 と主人が、昨夜の通りの強い声で、私を送つた。
「御免下さいませ。お気をおつけ遊ばしませ」
 と云ふ細君の声が、玄関の前に迫つてゐる崖の、暗い石垣にぶつかつた。》pp151-2

 自身の経験に材をとっているのは間違いないにしても、みずからの姿を書き、相手を書き、さらに別の人間に焦点がスライドしていくこんな文章を読んでいくうちに、これはもう自身の経験の話ではなくなっている。入口と出口がちがっていて、最後のページで「いま自分は何を読んだんだ」と茫然としてしまう。

 いくつか抜き出しただけでも、これだけさまざまな文章が集められた百閒の文章の見本市、バラエティボックスみたいな一冊がこの『百鬼園随筆』で、最後に「手套」というスケッチを、文庫本の1ページ弱なので全文書き写す。こんなにも小さな出来事と、こんなにも小さな心の動きを、よくも「書くべきもの」としてとらえ、よくもこんなに丁寧かつ簡潔に書いたものだよなとつくづく思う。
《某月某日私の乗つた電車が水道橋を過ぎる時、私は金入れの中から囘数切符を出さうとした。その時手袋をはめてゐたので、手先が利かないため、十銭の小さい銀貨がついて出て、下の床に落ちた。私はその落ちた事も、落ちた所も知つてゐた。だから先[ま]づ切符を一枚切り取つてから、序[ついで]に煙草代を十五銭出して置くうちの十銭は、今落としたのを後で拾ふ事にしてもう五銭だけ金入れの中から出して、それをずぼんのポケツトに入れてしまつてから、最後に床に落ちてゐる十銭を拾ふつもりでゐた。さうして私が切符を切り取つてしまつた頃、丁度私の前に腰をかけてゐた学生が、わざわざ席を起[た]つて来て、私の足許[あしもと]に落ちてゐる銀貨を拾つて、私が気がつかないでゐると思つたのだらう、一寸[ちよつと]会釈しながら私に渡してくれた。私は気の毒な事をしたと思つて、礼を云つてそれを受取つた。けれども、その時初めて気がついたらしい、驚いた様な風も出来なかつたし、したくもなかつた。又する必要も認めなかつた。その私の落ちついた冷やかな態度の中に、その学生は、私が銀貨を落とした事を知つてゐて、後で拾はうと思つてゐた事に気がついたらしかつた。いくらか間のわるい様子をして、出口の方に行つてしまつた。私は本当に気の毒な事をしたと思ひ、その親切な学生にすまなかつたと思つた。けれども相手の親切に報いるため、もつと驚いた様子をすべきだつたとは考へない、又その学生が、彼の敢[あへ]てした親切のために、それ丈[だけ]の極[き]まりの悪さを負はされるべきものだとは猶更[なほさら]考へない。》pp58-9

 次は『続百鬼園随筆』です。



■ 旺文社文庫『百鬼園随筆』(1980)目次:
短章二十二篇
 琥珀
 見送り
 虎列剌
 一等車
 晩餐会
 風の神
 髭
 進水式
 羽化登仙
 遠洋漁業
 居睡
 風呂敷包
 清潭先生の飛行
 老狐会
 飛行場漫筆
 飛行場漫録
 嚏
 手套
 百鬼園先生幻想録
 梟林漫筆
 阿呆の鳥飼
 明石の漱石先生

貧乏五色揚
 大人片傳
 無恒債者無恒心
 百鬼園新装
 地獄の門
 債鬼

七草雑炊
 フロツクコート
 素琴先生
 蜻蛉玉
 間抜けの実在に関する文献
 百鬼園先生言行録
 百鬼園先生言行餘録
 梟林記

解説 戸板康二
「百鬼園随筆」雑記 平山三郎


*新潮文庫の『百鬼園随筆』は、仮名づかい以外はこの旺文社文庫の本篇と同じものが入っている。芥川龍之介の手になる百閒像を使ったこの表紙はたいへんよいものです(買ってしまった)。

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