2019/10/26

内田百閒『第三阿房列車』(1956)

旺文社文庫(1980)


 こないだ『第二阿房列車』の感想を書いたとき、ぜひとも引用するつもりでし損なった箇所があったので、まずそこから書く。
「雷九州阿房列車」で大分に着いた百閒は、早くも駅長室で新聞記者や放送局の人間に囲まれ取材を受ける。自分に向けられた小さな円柱形のマイクを百閒は「マイク」とは書かず、「お菓子の五家宝」に喩える。そんな物体を差し出しながら記者いわく、「高崎山の猿を見に来られる筈だと云ふ記事が、こなひだの新聞に出て居りました」。
 巻末の平山三郎氏の解説によれば、この九州への旅は昭和28年(1953)の6月。ちょっと調べると、大分市万寿寺別院の和尚が野生の猿に餌付けして「高崎山自然動物園」を開園したのが同じ昭和28年の3月だというから、東京からはるばるやって来た百閒の目的もその猿を見ることだろうと誤解されても仕方なかったのかもしれない。でも百閒は百閒であり、これは阿房列車なのである。
《私の場合、猿の方で私をどう思ふかは知らないが、私は猿の顔は好きでない。[…] 猿の顔は憎い。見てゐると腹が立つて来る。さうして人間の内のだれかその猿に似た顔を思ひ出して不愉快になる。今迄に私が見た猿の数は、さう多くはないから、自分の経験だけで全豹を律するわけに行かないかも知れないが、私は猿を好く思つてはゐない。》「雷九州阿房列車 後章」、『第二阿房列車』(旺文社文庫)p158

 いつになく強い調子なのでちょっと意外に思っていると、さらに子供の頃の思い出として、家の者が見世物小屋にいた猿に蟹の入った袋を渡し、猿が大いにうろたえるのを百閒も面白がって見ていた、という回想が挿まれる。あまつさえ、いま、高崎山の猿にも蟹を土産に持って行ったらどんなことになるだろうと想像したりする。どうも百閒は猿が相当嫌いであるらしい。猿の顔は憎い。私は猿を好く思つてはゐない。こんなところにも百閒の偏りはあった。しかし書いておきたかったのは、猿よりも五家宝のことだった。
《「行くとすれば午後だが、明日になつて見なければわからない」
「折角いらしたのですから、成[な]る可[べ]く行つて御覧なさい」
「さうしませう。しかし行かなくても、猿と約束はないし、彼らは僕を待つてはゐない」
 五家宝[ごかばう]が口のそばにあると、何だか息苦しい。君、もういいだらうと云つたら、よしてくれた。
 口を利[き]いた時間よりは、黙つてゐる間の方が長く、ぼつりぼつり話しただけだが、テープレコーダーと云ふ物は、黙つてゐた箇所はちよん切り、しやべつた所だけをつなぎ合はせるさうである。その晩宿屋に落ちついてから聞くと、私がラヂオで何かしやべつてゐたさうで、こちらは何も知らない時に、気持の悪い話である。五家宝につかまつたら、さうなる事は解つてはゐるが、何しろあの仕掛けは、聖代の不祥事だと思ふ。》pp160-1

《黙つてゐた箇所はちよん切り、しやべつた所だけをつなぎ合はせる》。《こちらは何も知らない時に、気持の悪い話である》。
 わたしがよくやっている、本1冊のあちこちから部分部分を切り取って――「引用」ということで文章は「そのまま」であるようにして――並べるのも、実際に書いた本人からしたら、都合のよい所だけテープをつなぎ合はせるのと同様、書いてもいないことを書いたように仕立てる勝手な真似なのかもしれないと考えると、聖代の不祥事のささやかバージョンなのかもしれず、何だか申し訳ない気持になった。
 だから、というわけではないけれど、今回の『第三阿房列車』の感想はなるべくページの順で書いてみる。


■ 「長崎の鴉 長崎阿房列車」

 阿房列車の名前にサブタイトルがついているのは『阿房列車』『第二阿房列車』にはなかった本書からの趣向だが、書いてあることはいつもの阿房列車で好調である。
《出発当日の日曜日、照れ臭い様な秋晴れの上天気である。お午まへに、雨を含めるヒマラヤ山系君がやつて来た。いつでも私の所で荷ごしらへをしてから出掛ける。旅具を詰める鞄は、すでに借りて来てある。鞄は交趾[こうし]君の所有であるけれど、かう度度、いつもきまつて私が使ふなら、私の物だと考へてもをかしくはない。私がさう考へる事は、少しも他に影響する所はない。又行く先先の宿屋の女中や、列車ボイや赤帽が、一一借り物だよと私がことわらない限り、勿論私の鞄だと思つてゐると云ふのは、客観性の裏打ちである。人がさう思ひ私自身もさう考へるなら、貰つてしまつてもよささうに思ふ。「交趾君、貰はうか」と云つたら、彼はいやだと云つた。いやなら貰はなくていい。私が使はない時、彼が使ふ時、彼の手許[てもと]に在るのは一行差支ないから、私が貸したつもりになつてもいいし、さう云ふ考へ方はいけないなら、さう思はなくてもいい。
 その鞄の、柔らかい光沢のある皮が、はちきれるほど詰め込んでから、さて、出掛ける事にした。》p10 *太字は引用者、以下同じ

 こういう無茶を言う人の風景描写が一級品であることを、読む側のわれわれはどう受けとめればいいのだろう。どうにも片付かないので、いつでも、いつまでも、「ほれぼれ」と「何でだよ」の間で揺れる振り子になってページをめくることになる。
《由比駅の前後に見る清見潟の海波は、今日はいつもより大分高い様であつたが、水は美しく澄んで、磯辺の風情を点綴[てんてい]する波間の岩に、真白い繁吹[しぶ]きを打ち上げてゐた。
 安倍川でも大井川でも、それから随分行つた先の天龍川でも、おのおの色合ひは違ふが、どの川も川上の空に夕暮れの色を残してゐた。天龍川では大分暗くなりかけた靄[もや]の中に赤い筋が流れて、心無き阿房列車の旅心をそそつた。》
[…]
《遠州平野の遠い向うの山の端に、光は消えてただ色ばかりが残つてゐる大きな落日の沈んで行くのを見入つてゐる時、風圧で窓を押し曲げる様な擦れ違ひ列車が来た。一瞬で通り過ぎたのに、その後にもう落日はなかつた。》p14

 長崎阿房列車ということで、九州に行くとなれば百閒は熊本県八代の松浜軒まで足を延ばす。『阿房列車』の「鹿児島阿房列車」以来訪れるのも4回目、珍しく実名で書くほどお気に入りである。もとは八代城主の庭園で、「いまでは旅館としては営業していない」みたいな説明を百閒関連のガイド本か何かで見た気がするが、ここによれば、戦後すぐの昭和天皇の巡行で御宿泊所として使われた → それをきっかけに旅館経営をしていた時期がある、みたいなことらしい。
 そういえば最初の「鹿児島阿房列車」には、案内してくれた人から百閒が、陛下の泊まった部屋を使ったらどうかと誘われる場面があった。行って見てみると畳の座敷があんまり広いので、《差し押へに立ち合つた様な気がする》と率直すぎる感想を述べていた(『阿房列車』pp136-7)
《巡行の陛下も、宿屋では旅客として宿泊料をお払ひになる建て前だと云ふ新聞記事を読んだ。一人一室一泊一円と云ふのは昔の早稲田ホテルであつて、その当時は方方に一泊一円が流行した。陛下はさつきの広間に一室一人で一万円ださうである。戴かなくてもいいし、戴きたくないし、戴いても合はぬさうだが、時勢でさう云ふ事になつて、下し置かれるのでなく、御支払ひ遊ばされるのだから止むを得ない。
 女中に、お心附けを頂戴したかと尋ねたら、「まあ。そんな」と云つたきりで口を噤んだ。それは女中の方が当然である。お酒の上の無駄口をつつしむ事にして、後は内攻した。》「鹿児島阿房列車 後章」、『阿房列車』(旺文社文庫)p137

 この『第三阿房列車』でも、松浜軒にはあとでまたやって来る。そして陛下というか皇族についてもあとでまた記述がある。


■ 「房総鼻眼鏡 房総阿房列車」

 九州の次は房総半島で、ルートがふたつの楕円を描くので「鼻眼鏡」ということになっている。三等列車で小刻みな移動を続けるのはこれまでなかった。いろいろやっている。
 銚子の駅で降り、犬吠岬の宿屋に向かう途中で犬に吠えられるという出来事を、たんに実際あった小さな事件として書き留めるだけで何も付け足したりしないのはさすがだと思った。すぐ太字にしたがるわたしなんかは見習うべきなんだろう。
《枕許の棧のねぢれた障子の向うで、夜通し濤声を聞いた様に思ふ。しかしその為に眠れないと云ふ事はない。いつもの通り、いやいつもよりはもつと長く、十時間半寝続けて、枕にひびく浪の音の中で目をさました。よく寝られるのは難有[ありがた]いが、あんまり長く寝た後では、根が利口ではない、のではないかと自分で疑はしくなる。》p49

 あちこちで「利口かどうか」にこだわる百閒だった。この旅館で面白いのは窓の外である。
《丁度上げ潮で、宿のすぐ下まで大きな白浪が打ち寄せる。燈台の出鼻の下に、突怒偃蹇[とつどえんけん]と云つた格好の怒つた様な岩が連なり、こつちから見ると向うの海を低く遮つてゐる。その岩の向う側に敲[たた]きつけて砕けた大浪の繁吹[しぶ]きが、岩の蔭から宙に舞ひ上がり、爆弾の様だと先[ま]づ思つたが、日清戦争の石版刷りの地雷火が炸裂した所の様でもあり、又少し離れてゐるし、硝子[ガラス]戸を閉めてゐるので浪の音は聞こえないのに、さう云ふ壮烈な景色が展開するのが、昔の活動写真の戦争の場面を見てゐる様な気もした。》p50*下線は引用者、以下同じ

 寄せては砕ける大波が見えながら、音はいっさい聞こえない。そこから連想される《日清戦争の石版刷りの地雷火が炸裂した所》とは、おそらくこういうものじゃないだろうか(雑な検索・地雷のは見つからなかった)。
 激しい光景から音が消えている、というのが石版刷りと目の前の景色とで共通しているように受け取られているわけだけど、いま、爆発の瞬間を描いた絵を見せられたとして、わたしは「音がない」という感想を持つだろうか。持たない気がする。そういうもの(絵とは音がないもの)だと、信じる以前に信じ込んでいる。そう考えると絵(なかんずく、派手な絵)の受け取り方にも、百閒とわたしの間で、あるいは昔といまの間で、同じところと違うところがあるのだと思う。しかしこういうことを考えはじめると、「いや、やっぱり、音がないと思うかも」という気もしてきて、考えはじめる前の印象は永久に失われるのだった。
 そんなことより生半可な百閒読者としてもっと気になるのは下線を引いた部分で、《昔の活動写真の戦争の場面》と来たら、思い出されるのは百閒じしんの「旅順入城式」だ。

 文庫本で4ページしかない短篇「旅順入城式」は、「私」が日露戦争を記録した活動写真の上映会に行く話である。黒い布の張られた法政大学の講堂で、旅順の山々や、そこを行軍する兵士たちの顔を見ているうちに「私」はどんどん――読んでいて不可解なくらい――悲しくなっていく。ほかの多くの短篇同様「夢である」とは明記されないにしても、夢の中で活動写真を見ているという格好で、そう書くと枠は二重になっているはずなのに、悲しみの感情でその枠が溶けてしまう。どの文章から何が起きているのか、何度読んでも不思議になる。
 初出は大正14年らしいが、昭和28年の阿房列車の1コマで犬吠岬の波濤を《昔の活動写真の戦争の場面》のように感じるとき、百閒のあたまに昔の「旅順入城式」がちょっとでもかすめたりしなかっただろうか――と、勝手な読者らしく小さな連想を書きたかったのだけど、ここで「旅順入城式」の実物を読み直すとこんな部分があった。
《大砲を山に運び上げる場面があつた。暗い山道を輪郭のはつきりしない一隊の兵士が、喘ぎ喘ぎ大砲を引張つて上がつた。年を取つた下士が列外にゐて、両手を同時に前うしろに振りながら掛け声をかけた。下士の声は、獣が泣いてゐる様だつた。》「旅順入城式」、『冥途・旅順入城式』(旺文社文庫)p230

 声、してるの? さすがに当時のフィルムに映像と同時録音の音声は入っていないだろうから、そこからすでに夢の上映会なんだと思う。無音のスペクタクルのつもりで「旅順入城式」を連想したのに、そのつながりがなくなってしまった。拍子抜けというか、むしろすがすがしい。本当に勝手だった。
《山砲を打つところがあつた。崖の下の凹[くぼ]みに、小さな、車のついた大砲を置いて、五六人の兵士が装塡しては頻[しき]りに打つた。大砲は一発打つと、自分の反動で凹みの中を前後にころがり廻つた。砲口から出る白い煙は、すぐに消えてなくなつた。音も暗い山の腹に吸はれて、木魂[こだま]もなく消えてしまつたに違ひない。弾丸は何処[どこ]に飛んで行くのだか、なほ心もとなかつた。しかしそれでも打たずにはゐられないだらうと思つた。打たずにゐたら、恐ろしくて堪[たま]るまい。敵と味方と両方から、暗い山を挟んで、昼も夜も絶え間なしに恐ろしい音を響かせた。その為に山の姿も変つたに違ひない。恐ろしい事だ。そこにゐる五六人の兵隊も、怖いからああして大砲を打つてゐるのだ。》(同)p231

 恐ろしさを受信するアンテナが敏感すぎる。書き写す前はそうでもなかったのに、なんだかこっちまで怖くなってきた。夢と映画の枠を溶かし、小説とこちらの枠を溶かす。阿房列車に戻ると、百閒は鴨川の宿屋に移動してまた浪を見ていた。
《大きな浪が、後から後から打ち寄せて、その砂浜で崩れる。ぢつと見つめてゐて、浪は何をしてゐるのだらうと思ふ。人の脊丈ぐらゐあつて、大きいけれど犬吠岬の浪の様に怒つてはゐない様である。渚に近い海面から、小さい無数の波がこちらへ打ち寄せようとしてゐるらしい。そこへ沖から大きい浪が来て、浪頭のうしろに小さな波を残し、自分だけ先に来て大袈裟にどどどと崩れる。どう云ふ料簡だか解らない。東京へ帰つて二三日経つてから、ふとこの鴨川や犬吠岬の大浪の事を思ひ出した。私はもう帰つて来てかうして外の事をしてゐるのに、あの辺の浪は矢つ張り大変な姿勢で、浪頭を振り立てて、大きな音を立てて、寄せては崩れてゐるのだらうと思ふと馬鹿馬鹿しい。丸で意味はない。無心の浪と思ふのも滑稽である。》pp56-7

「旅順入城式」から四半世紀以上を経て、あの過敏なアンテナは、キャッチする周波数は変わっても過敏なままだとわたしは思う。


■ 「隧道の白百合 四国阿房列車」

 最初の「長崎阿房列車」で出発する前に、こういう部分があった。
《元来壮健とは云はれない私の身体の調子が、ここの所ずつといい。それで私は段段不安になつた。なぜと云ふに、今かう云ふ風であつては、次の順序は病気になる外はない。もともとがたぴしした身体で念ずるのは、一病息災と云ふ事であつて、無病息災なぞ、自分の事としてはもとより、だれにだってそんな馬鹿げた事がある筈のものではない。》pp8-9

 この「不安」が本当になってしまうのが今度の「四国阿房列車」で、冒頭1行、百閒は帰りの途についている。
《夜十一時に、阿波の小松島港を出帆する関西汽船太平丸に乗り込んで、大阪へ帰る事にした。その時間になる迄、小松島の宿屋で休息したが、ぐったりした気持で、身体の置き所がない。晩のお膳に坐る元気もない。》p60

 これまでの阿房列車はどれもこれも、家または駅から出発 → 目的地 → 帰る、という時系列に従って書かれてきた。それがいきなり乱れている。
 百閒はこのあと船の中でも高熱にうなされ、大阪に着いた早朝から病院を探してと、しんどい目が続く。それで何とか東京に帰り着くまでが綴られるのが前半で、後半でやっと今回の旅行のスタートにさかのぼる。
 書かれる順番がこのように組み換えられている阿房列車は、百閒が苦しそうだからというだけでなく、さらにそのバッサリした編集のためもあって、なんだか寂しい。
 もちろん時系列に沿っているときだって、起きたことの何を書き何を書かないかでさんざん編集はされているし(当たり前)、そこにのびのびと回想が割り込んで来たりもするわけだけど、それでもあくまで旅程の順番通り、という進行が阿房列車の太い線だったことが、今回の体調不良阿房列車でよくわかった。以下は京都から大津を過ぎたあたり。
《列車の最後尾に乗つてゐるので、トンネルに這入ると、中が曲がつてゐない限り、入り口の穴がいつ迄も見える。穴の外の光線がこちら迄は射さないけれど、暗闇の中にきらきら光る線路を傳つて、いつ迄も追つ掛けて来る。展望車の室内の一番後ろの隅に据ゑた花瓶に、花が生けてある。開き切つた大きな白百合が一輪、少し前に頸を伸ばして、ゆらゆら揺れてゐるのが、暗闇の向うに遠ざかつて行く穴の外の明かりの面に乗り出し、遠い光線を背景にして、急に光り始めた。見つめてゐると、花の輪郭が段段大きくなる様な気がし出した時、トンネルを出た。もう一度見なほして見たが何の事もない。トンネルの中で白い花の夢を見たのか、それとも又少し熱が出て来たのか、何しろ余りいい気持ではない。》p69

 こんなあやしい描写にも、病人が無理をしている様子を感じてしまう。もっとも、調子が悪い状態で旅をする様子を「書いている」のは東京の自宅に戻って回復してからの百閒であるわけだから、これを読んで「書かれている」百閒を心配するのは余計な気遣いである。それはわかっているつもりだけれど、読む側にとって「書いている」存在と「書かれている」存在の区別は塗り潰されていて、あんまり分けられるものではなくなっているのでは、といった、一人称の書きものにいつでも付いて回る疑問がいつも以上に濃く感じられた。


■ 「菅田庵の狐 松江阿房列車」

 明治生まれの人間にとって、天皇や皇族はどんなものだったのか。主語も話題も大きすぎるけど、百閒の文章でたまにでてくるそれらの話は、有り体に言って、面白ポイントであることが多い。今回の「松江阿房列車」では、発車間際に回想が始まる。
《一二年前九州の八代からの帰りに、博多で増結する寝台車に乗り込んだら、ご新婚後間もない順ノ宮様が、夫君の池田さんと御同伴で大勢の御供をつれて、或は御供につきまとはれてかそれは知らないけれど、貧乏人の引越し程の荷物を持つて、私共と同じ車に乗られた。》p82

 順ノ宮[よりのみや]様とは、順ノ宮厚子内親王(平成の天皇の姉)、昭和27年に結婚して皇籍を離れた人だった。こういうことはぜんぶウィキペディアの引き写しである。
 ところで、わたしが岡山に引っ越してきてから、地元育ちの人と話をしていて「池田さん」「池田の殿様」という名前を聞くことが何度かあった。殿様て、と不思議に思っていたその池田さんこそ、ここに出てくる《夫君の池田さん》、旧岡山藩主の血を引く池田隆政なのだった。回想は続く。
[…] 夜明近くに、山陽道の早春の闇を驀進[ばくしん]する汽車の轟音の中から、ちりちりと云ふ目覚し時計の鈴の音が聞こえて来た。池田さん御夫婦は未明の暗い内に岡山駅で降りられると云ふ事であつたから、おつきのだれかが寝忘れない為に、目覚し時計のねぢを巻いておいたのであらう。列車中に目覚し時計を持ち込むと云ふのも風雅である。おつきのなせる業だらうと思ふけれど、或は順ノ宮様の新妻としての心遣ひだつたかも知れないしさうであつたのか、どうかこちらには解らないが、深夜の列車寝台の鈴音を思ひ出すと、何となく可愛らしい様な気がする。》p84

 結婚したふたりは、このあと岡山市内で動物園を開園する。それが池田動物園といって、わたしの家からけっこう近いことは最近知った。この『第三阿房列車』をはじめて読んでからたぶん10年くらいは経つはずだが、そのとき完全に読み飛ばしていたこんなところに関係のある土地で生活しながらまた読み返していることに、運命的とかいうのでは一切なく、ただただ、おかしな気持がする。列車は午後いっぱい東海道を走り続ける。
《いくらお天気がよくても、晩になれば暗くなる。名古屋に這入る前、進行の右側は空も地面もすでに夜になつて遠い星が瞬き、人の家の燈火がちらちらしたが、進行の左側は向うの低い山の端に残照が懸かり、まぶしいばかりの明かりの手前に、辺[あた]り一帯の工場の煙が帯になつて横に流れてゐる。暗い方へ向かつて走つて行く汽車につれて、段段暗くはならずに、却つて山の上が明かるくなる様であつた。線路に近いこちらから、その山裾に向かつて真直ぐに流れる幅の狭い小川だか掘割りだかの水が、巨大な金の伸べ棒の様にきらきらつと光つたと思つたが、瞬間に汽車が通り過ぎて、その豪奢な色ばかりが目に残つた。》p86

 こういうのは本当にいくらでも読んでいられるが、線路は有限なので駅に着き、大津で一泊した翌日は、目的もなくぶらぶらするためタクシーに乗る。すると田んぼの中を走る線路のそばにたくさん人がいた。ちょうどこれから、皇后陛下の乗った宮廷列車が通過するらしい。百閒も道ばたに車を止めさせ、煙草を吸いながら列車を待つ。なかなか来ない。
《大正の何年頃だつたか、はつきりしないが、矢張り今日の様な綺麗な秋晴れの空の下を、金色に光る宮廷列車が相模野[さがみの]を走り抜けて、逗子駅へ向かふのを見た事がある。美しい皇后が金色の汽車に乗つて、頭の狂つた王様の許[もと]へお見舞に行かれると日記に書いたが、後にその時分の日記を公刊する時、右の文句は全部伏せ字にして隠した事を思ひ出す、当時私は兼務で横須賀の海軍機関学校の教官をしてゐたので、その行き帰りの或る日、宮廷列車を待避して、当時の皇后陛下、即ち後の貞明皇后の御通過を御見送りしたのである。
 何十年前の事だか、繰つて見なければ解らないが、その時以来、私は宮廷列車と云ふ物を見た事がない。だから今、皇后陛下をお見送りすると云ふ殊勝な心根の外に、綺麗な宮廷列車が見たいと云ふ好奇心もある。いつ迄待つても構はないが、しかし早く来ないかなと思ふ。
 到頭来た。土手の前の学校生徒の群れが列[なら]んだ。すぐに人家の蔭から五六輛編成の短い汽車が走つて来て、忽ち目の前を通り過ぎた。機関車の前面に交叉した日の丸の鮮やかな色が、行つてしまつた後まで目に残つた様であつた。》p101

 かつては伏せ字にしたことを、「かつては伏せ字にした」と明かしながらわざわざ書き、それでいてこの時点でも、見送るのを《殊勝な心根》とするあたり、この題材とどういう距離をとっているのか何とも言えない。この引用とひとつ前の引用は終わり方が同じですね、とだけ書いて話題を変える。
(追記:おととい見かけたこのツイートが、あんまりタイムリーだったので貼っておく)

 このあと百閒は島根県松江の美保関に行く。そこの宿屋では芸者が「関の五本松」という民謡を歌う。というか、歌おうとする。ウィキペディアの記事をざっと読み、あとYouTubeにあったこの動画の前半45秒くらいを見てから以下の部分を照らして読むと、内田百閒という人の、理屈で殴りに来る面倒くささがあらためて、非常によくわかる。
《「関の五本松、一本伐[き]りや」
「一寸[ちよつと]待つて貰はなければならん。五本あるものを一本伐れば、残りは四本にきまつてゐる」
「ですから今、そこを歌ふところですわ」
歌はなくても算術の上でわかつてゐる
「そんな無理云うて。だつたら歌、歌へやしません」
「しかしながら、歌ふのは彼女の天職だらう」
「彼女つて」
「君の事さ」
「どうも大けに。一本伐りや四本」
「そうれ見ろ、矢張り四本だ。どうもさうだらうと思つた。さうなる計算だからな
「後は伐られぬ」
「構やしない、伐つちまへ」
「後は伐られぬめをと松」
「をかしい事を云ふぢやないか」
「シヨコ、シヨコ、ホイノマツホイ」
「をかしいね。速断だらう」
「なぜですの」
「五本と云ふ奇数が、偶数の四本になつただけの話さ」
「ですから」
「だけどもさ、そりや君、御無体[ごむたい]と云ふものだ。四本が二夫婦だと云ふのかい」
「さうなんでしよ」
「美保ノ関ではさうかも知れないが、さうとばかりは限らん。我我他国の者には腑に落ちかねる」
「どうしてでせう」
「野郎松ばかりが四本突つ起[た]つてゐるかも知れないし、かみさん松が四本列[なら]んでゐるのかも知れない。一本だけが雄松で一夫多妻の松かもわからない。ポリガミイだ。その反対の一妻多夫の場合も考へられる。これをポリアンドリイと云ふ」
「そんな六づかしい事、知りませんわ」
「しかし本場の本当の節廻しを初めて聞いたが、何でもなささうで、さうでないね。随分六づかしさうだ。僕、ほとほと感に入つた」
「あら、お口が悪いのかお上手なのか、どつちなんでせう」》pp112-3

 だれしも酒の席で「ポリガミイ」「ポリアンドリイ」と絡まれたくはないよな、と、もう一度さっきの動画を見ながら思う。翌日、酒から醒めたあたまで以下のように述懐するが、そしてこれは何度も読んだことがあるこの人の基本姿勢だが、なるほど《さうなる計算だからな》の理屈っぽさもこれと一貫していた。
《どこへ行つて見ても面白くはない。元来私は松江へ見物に来たのではない。それでは何しに来たのかと云ふ事になると自分ながら判然としないが、要するに汽車に乗つて遠方まで辿り著いたのである。しかし旅行には区切りをつけなければならない。それで松江に泊まつてゐる。外へ出て方方廻つて見ても面白くもないから帰ると云ふのは宿屋へ帰るので宿屋へ帰ればどう面白いかと云へば宿屋が面白いわけもない。しかしながら物事が何でも面白い必要もない。》p121


 ところで、「小説である」と特別うたっていない文章が、それでも「小説として読める」ことに、理由や条件は要らないと思う(理由や条件が必要なのは、逆に、ある文章が「小説として読めない」と主張したいときじゃないだろうか)。
 阿房列車のシリーズは、実際に行なった鉄道旅行を題材に一人称で書かれていることをもって「随筆」に分類されがちなのではないかと思うし、わたしもおおむねそんなつもりで読んでいるが、別にこれを小説として読んだっていいわけである。現実に材をとり、一人称で、旅行記ふうの小説はいくらでもある。
 とりわけ百閒が、懐かしいような寂しいような風景を描写するとき、その文章じたいは小説の叙述と(超常的なことが起きることもある小説の叙述と)変わらないために、阿房列車が小説に乗り入れているように見えることはこれまでも何度もあった。
 ところがこの「松江阿房列車」の後半では趣が変わる。さっきの「四国阿房列車」が体調不良のせいで時系列が編集されたのとも違い、はっきり意図して、百閒が阿房列車を小説にするのである。
 それは例によって旅館に取材の記者が十数人集まるところから始まり、まとめて相手をした後もなかなか帰らない男が一人いて、その男は百閒とヒマラヤ山系氏のお膳にも割り込み自分は神であるとのたまうがその正体は――と続くのだけど、そういう趣向が面白いのかというと、どうしてここ(阿房列車)でそんなことを、との戸惑いのほうが先に立ってしまう。
 さっき百閒が自分で書いていた《物事が何でも面白い必要もない。》にならえば、文章が何でも「いかにも小説な小説」になる必要はないのじゃないだろうか。現実にあったことだけを文章化し、その文章でもって題材(現実)に魔法がかかって見える、というこれまでのスタイルに踏みとどまってほしかった気がわたしはする。おそらくそっちのほうが大変なので、ここでは小説になってしまったのではないか。
 ただ、この急な小説化の入口がこんなふうになっているのにはうなった。百閒は取材された場から《ふはふはした》足許で座敷に戻る。
《帰つて見ると山系君が一人、ぽつねんと坐つている。変に長い顔をしてゐる。
「どうしたんだ」
「はあ」
「何をしてゐたの」
「なんにもしません」
「顔が長いよ」
「僕がですか」》p124

 百閒で「顔が長くなる」といったら、もう短篇「山高帽子」の中に半分入ってしまっているようなもので、いきなり怖くなる。ただしまだ半分は阿房列車シリーズだから、この直後、『阿房列車』にも『第二阿房列車』にもあったあんまりな比喩がまたあった。
《「何だか、こつち側が寒いのです」
「僕は僕のこつち側が寒い」
「僕、そつちの横へ行きませうか」
「さうしよう、こつちへ移つて、二人で竝[なら]ばう」
[…]
「二人しかゐないのに、向き合はないで、かうしておんなじ方を向いて竝んでゐるのは、気ちがひが養生してゐる様な気がする。貴君はさう思はざるや」
「僕は気ちがひの経験はありません」
「さうかね」》p126

 こうなると百閒も意地で繰り返しているように見えてくる。なお、この翌々日の百閒は、大阪まで戻って何もすることがなく、天王寺動物園を訪れる。目が行く檻はあの檻である。
《別棟の檻の中に大きなチムパンヂイがゐた。見るからに憎らしい顔をしてゐる。大体、猿の顔にろくなのはない。このチムパンヂイは上野にゐるのと東西呼応して、新聞で時時紹介される。硝子戸の外の廊下になつた所には、三輪車その他子供の運動用具が置いてあるが、さう云ふ物に乗つて藝当するところなぞ、見たくもない。今は向うの隅つこにちぢまつて、バナナの皮を剥きながら、上目使ひにこつちを眺めてゐる。その顔を見てゐると腹が立つて来るから、山系君を促して前を離れた。》p138

 今回のこの記事の最初に引用した猿の話に引き続き、本当に嫌いなんだな猿が、というこの部分を拾っておくのは、このあと、『第三阿房列車』の最後は「列車寝台の猿」と題されているからである。


■ 「列車寝台の猿 不知火阿房列車」
《蚊帳の裾から、きたない猿が這入つて来て、寝巻を引つ張つた。爪の先が横腹の肌にさはつて気持が悪い。振り向いて見ると、猿の癖にひたひが広くて人間の様な顔をしてゐる。起き直らうと思つたがうまく行かない。もう少しで魘[うな]されさうになつた所で、目が覚めた。
 起きて見ると曇つた空が低く垂れ下がつてゐる。さうして時時薄日が射す。こんな日は雷が鳴り出すかも知れない。》p155

『第三阿房列車』ラストの旅、そして『第四阿房列車』は出なかったから阿房列車連作の最終回は、こうやって始まる。
 あれほど嫌いな猿だし、夢だし、なんだか不吉なスタートだが、このシリーズに無数にある読みどころのなかでも、「風景描写」「変な理屈」と並んでわたしが好きな、「岡山の話」と「感覚がおかしなことになる」の両方が今回は長々とあった。
 東京駅を夜に出発して、翌日の昼頃に岡山駅に停車する。
《岡山は私の生れ故郷でなつかしい。しかしちつとも省[かへりみ]る事なしに何十年か過ぎた。今思ひ出す一番の最近は、大正十二年の関東大地震の後一二年経つた時と、もつと近いのは今度の戦争の直前とであるが、しかしその時は岡山に二時間余りしかゐなかつた。中学の時教はつた大事な先生がなくなられたので、お別れに行つて、御霊前にお辞儀をしただけですぐに東京へ帰つて来た。駅から人力車に乗つて行き、門前に待たせたその俥[くるま]で駅へ戻る行き帰りの道筋だけの岡山を見たが、それももう何十年以前の事になつた。
 時時汽車で岡山を通る時は、夜半や夜明けでない限り、車室から出てホームに降り改札の所へ行つて駅の外を見る。改札の柵に手を突き、眺め廻して見る景色は、旅の途中のどこか知らない町の様子と変るところはない。どこにも昔の面影は残つてゐない。[…] 古い記憶はあるが、その記憶を辿つて今の岡山に聯想をつなぐのは困難の様である。何事もなく過ぎても、長い歳月の間に変化は免れない。況[いは]んや岡山は昭和二十年六月末の空襲で、当時三万三千戸あつた市街の周辺に三千戸を残しただけで、三萬軒は焼けてしまひ、お城の烏城[うじやう]も烏有[ういう]に帰して、昔のものはなんにもない。しかし岡山で生れて、岡山で育つた私の子供の時からの記憶はそつくり残つてゐる。空襲の劫火[ごふくわ]も私の記憶を焼く事は出来なかつた。その私が今の変つた岡山を見れば、或は記憶に矛盾や混乱が起こるかも知れない。私に取つては、今の現実の岡山よりも、記憶に残る古里の方が大事である。見ない方がいいかも知れない。帰つて行かない方が、見残した遠い夢の尾を断ち切らずに済むだらう、と岡山を通る度にそんな事を考へては、遠ざかつて行く汽車に揺られて、江山洵美是吾郷の美しい空の下を離れてしまふ。》pp171-3

 今回も10分停車の間だけホームのベンチに座り、幼馴染みの「真さん」から大手饅頭をもらう。こんなふうに、通過以上の帰郷未満、つかず離れずというには離れすぎな接し方を生まれた土地に対してし続ける人はほかにあまり見ない気がする。

 次に「感覚がおかしなことになる」例。これまでに何度も使っている駅のホームで、これまでに何度も乗っている列車を待っているのに、それが毎回、自分が予想していたのとは反対の方向からやって来るのでその度におどろく、という話がある。これはわかる気がする。あたまの中身をぐるっと回転させられて変になる感覚だ。
《もつと困るのは、随分馴染み深い大阪駅から上リに乗る時、走り出してから、どう考へても京都の方へ向かつてゐると思ふ事が出来ない。三ノ宮神戸の方へ走つてゐる様な気がする。その内に新淀川の鉄橋を渡り、しかし新淀川には大阪からの上リにも下リにも鉄橋があるから、鉄橋を渡つてゐると云ふだけで捩[ね]ぢれた頭の中をなほす事は出来ないが、吹田の操車場を見ればもう観念する。そのもつれが一番ひどかつたのは、四国へ渡つて途中で熱を出し、ふらふらになつて大阪駅から「つばめ」に乗つた時、展望車の後ろへ遠ざかつて行く沿線の景色が、椅子をその方に向けてゐたので丸で逆な気持になり、やつと頭の中をなほして方向を正したと思ふと、今迄の逆のまた逆が、本来の方向とは別になつた様な気がし出して困つた。
 小倉駅に這入る「高千穂」が私の思つたより逆の方から来たから、出直してこつちから来いと云ふわけにも行かない。変だなと思ひながら、おとなしく乗り込んで、間もなく発車した。》p189

 ちなみにわたしは、建物の中に入ると外の方向がわからなくなることが多い(こっちの壁の向こうにあのスーパーがある、と思ったら90度ズレているとか。特に踊り場のある階段をのぼって上階に行くとすべてが見失われる)んだけど、自分のわからなくなる具合が「一般」と比べてどうなのか、知りようがないだけに気になっている。
 それはともかく百閒は、自分の感覚の方がおかしくてそれを外に合わせて「なほす」スタンスであるのが面白い。その内面の挙動に少しもおかしいところはないのだけど、あれだけ自分の理屈にこだわる人でありながら、ズレている自分のほうを「なほす」。百閒の理屈っぽさはわがままとは違う、自覚された偏りみたいなものかと思う。《出直してこつちから来いと云ふわけにも行かない。変だなと思ひながら、おとなしく乗り込んで、間もなく発車した。》

 あと宮崎の宿で、早朝の出立になるから前の晩に睡眠薬を飲むところがある。
《今朝が早いので昨夜は早く寝たけれど、もし寝つかれなかつた場合の事を慮り、鞄に入れて来た眠り薬を適量にのんだが、暫らくたつと、薬が利いて来た事がはつきり解つてゐながら、眠る事は出来なかつた。更に追つ掛けてのむと云ふのは気が進まないし、又それで利き過ぎて目覚しの音も聞こえなかつた云ふ事になつては困ると思つたので、眠れない儘に輾転反側[てんてんはんそく]してゐる内、うとうとしたかも知れない。そのうとうとの途切れたのが三時半前である。そこで我破[がば]と起きてしまつた。》p203

《更に追つ掛けてのむと云ふのは気が進まないし》は立派な判断だと思いつつ、さらにまた勝手なことを書くが、百閒が睡眠薬について書いているのを見るとどうしても、「山高帽子」の登場人物でべろべろになった野口、そしてそのモデルである芥川龍之介の書かれ方が思い浮かぶ。適量を越えて飲むと死に至るこの種の薬を百閒が飲むとき、あるいは飲んだと書くとき、そっちへの連想がないことなんてあるのだろうかなどと、また考えても仕方ないことを考えてしまう。
《間もなく彼は片手に一ぱい銀貨や白銅を握つて帰つて来た。蟇口[がまぐち]から摘[つ]まみ出す事が出来ないで、中身をそつくり手の平にうつして来たらしい。さうして起つたなりでその手を私の前に差出すのだけれど、その間も彼はぢつと起つてゐる事が出来なかつた。ふらりふらりと前後左右に揺れて、その度に足を踏み直した。彼の手の平には、十銭や五十銭の銀貨と混じつて、五銭の白銅貨が一つあつた。それを彼は摘まみ出さうとしてゐる。しかし彼の指先は、彼方此方に游[およ]いで、中中それに触れなかつた。》「山高帽子」、『冥途・旅順入城式』(旺文社文庫)p174

《それから数日後に、もう一度会つたときの芥川は、半醒半睡の風人であつた。薄暗い書斎の床の間の前に据ゑた籐椅子に身を沈めて、客の前で昏昏と眠つた。不意に目を醒まして、曖昧な応対をしたりした。
「そんなに薬を飲み過ぎては、身体の毒だよ」
「いいよ。それに、こなひだ内からおなかを毀してゐたものだからね」
 話を続けようとすると、もう眠つてゐるのである。》「湘南の扇」、『私の「漱石」と「龍之介」』(ちくま文庫) p229

 なんだかしんみりしてきたので(おどろくほど勝手だ)、明かるいところを引用する。
 体重計が家庭には珍しかったこの当時、百閒は主治医から旅先で機会があったら体重を計っておくように言われていた。それを鹿児島で思い出し、駅のかんかんを借りることになる。
《門外に待つてゐる先程の自動車で、駅へ引き返した。さうして小荷物扱所のかんかんに乗り、その数字を教はつた。忙しい所へ飛んだ荷物が割り込んですまなかつたが、その時の数字は風袋つきである。何日か後に東京の家に帰つてから、著てゐた洋服と肌著類一式を脱いで一纏めにし、ポケツトに這入つてゐた時計、手帖、がま口その他こまこました物を、同じくポケツトに入れてあつたハンケチに包み、眼鏡も外して一緒にして、別に靴を紐でぶら下げ、家の台所にある棒秤[ぼうばかり]に掛けて目方を出した。その合計を鹿児島駅の数字から引き去つた残りが、その時の私の体重であつたと云ふ事になり、この計算には間に凡[およ]そ千五百粁[キロ]の距離が挾まつてゐる。》p210

 利口であるかどうかを気にする百閒、ここでも算術を使うことが得意げに書かれているような気がするがどうだろう。

 それから百閒は八代へ向かい、またも馴染みの松浜軒に泊まり、雨が降り、不知火ノ海を眺めに行っても不知火は見えず、降り続ける雨の中を列車は博多から下関へ、下関から東京へと向かうところでこの「不知火阿房列車」は終わる。
 そしてその途中から今回も、はっきりした小説が浸食してくる。
《さつきから気になる相客がゐる。鹿児島の始発から同車してゐたのだらうと思ふ。初めの内は気がつかなかつたが、どの辺りからか食堂車にでも行つてゐて、その席にゐなかつたに違ひない。帰つたのも知らなかつたが、お酒を飲んで来た顔をしてゐる。全部同じ方の向うを向いたリクライニング・シートの、私の席から大分離れた通路の向う側にゐるのだから、おとなしく腰を掛けてゐれば顔が見える筈はないのだが、頻りに起ち上がつたり又坐つたり、その度に後ろ向きになつてこちらを見る。こちらを見る為に起ち上がるのではないかと思はれ出した。じろじろと人の顔を見て、その挙げ句ぢつと見据ゑる。》p211

《「どうだい貴君」
「まだ見てゐますか」
「無視する事にした」
「それがいいです」
「だからそんな質問をしてはいかん」
「はあ」
 しかし向うの視線が筋になつて、こちらのテーブルの上を斜に走つてくるのが、手でさはれそうな気がする。本当にさはれるものなら払ひのけるのだけれど。》p231

 少し離れた座席から、また食堂車の筋向かいのテーブルから百閒を嫌な目つきで見つめる男が、寝台車の百閒の夢にまで現れる。そのとき男は人間の姿をしておらず、これまで何度も「好きでない」「憎い」「腹が立ってくる」と嫌われていたあの動物になっていて、どうやらこの先も付いてくる――
 しばらく前に書いたように、現実だけを題材にするのがしんどくなったのか、それとももっと単純に、そういう書き方に飽きてしまい、別の書き方を探っている経過報告だったのか。当然、正解はわからない。最初の『阿房列車』を読んだとき、3冊目でこんな変化があり、こんな後味のまま終わるとはまさか予想しなかった。
 じっさい、百閒も「これで最終回」と決めて書いたわけではないだろうから、もしこのあとも阿房列車が2本、3本と続いていたら、「小説として読もうと思えば読めるけどあえてそう読まなくてもいい阿房列車」と、「いかにもおかしな小説っぽい小説」の混淆はどんなふうに進んだのか、あるいは進まなかったのか、少し気にかかる。そのせいで、読み終えてもなんだかぜんぜん終わった感じがしない。
 でもこの先はもう、ない。上のような興味をほかのやり方で満たすには、あたまの中の方向をぐるっと変えて、この戦後の落ち着いた紀行シリーズよりずっと前、大正の後半からおびただしいほどの量が書かれた、小説のような小説でないような百閒の文章をひとつずつ読んでいくのがよいのだろうと思う。それはみんな旺文社文庫のかたちでこの部屋の押入れにあり、猫にクンクン嗅がれている。


 最後に。百閒がこのような旅行をできたのは、一等車が復活するくらい戦災からの復興が進んだという時代の条件がまずあるが、持病をもつ百閒にとって同じぐらい、あるいはそれ以上に不可欠だったのは、すべての旅に一緒について来てくれる同伴者、つまりヒマラヤ山系氏がいたことである(「ことである」も何も、最初の『阿房列車』の巻頭の「特別阿房列車」にそう書いてある)。
 このヒマラヤ山系こと、平山三郎氏と百閒の関係を、じつはよく知らない。
 平山氏は百閒を「先生」と呼ぶし、阿房列車には百閒の昔の学生が何人も出てくるが、このふたりに直接の教師-学生関係はなく、平山氏は戦前から職場で機関誌を作る立場、百閒は依頼されてそこに原稿を書く立場、だったのだと思う。百閒の文章で描かれる両者の間には、その関係を踏まえて成り立つ「親しさ」と「配慮」と「立場のわきまえ」がある。「親しさ」は百閒から山系氏へだけでなくその逆もあり、「配慮」は山系氏から百閒へだけでなくその逆もある。そしてお互いがお互いに「立場のわきまえ」をもって接する。この3つを合わせたものをもしかすると「敬意」と呼ぶのかもしれないが、そんな言葉を必要としない関係にふたりはいた。
 そこを基本としながら、ひとつの言葉に回収されず場面場面で細かく揺れる感情のままに全篇を通して繰り広げられるふたりの膨大な会話には、ほぼ意味がない。車中で、ホームで、宿屋で、まったくしょうもないこと、益体もないことしか喋っていない。これほどまでに無内容な会話をやり取りしながら、そして話すことがなければ黙ったままで出発から帰着まで自分を見守ってくれる存在が、百閒にはいた。
 阿房列車シリーズ全3冊、計15本の汽車旅行の記録として書き留められた会話の中から、ふたりのあり方がもっとも典型的にあらわれているようで印象に残るやり取りを、最後に書き写す。この部分を思い出すだけでわたしは無限におかしいし、あの有名すぎる書き出しはそれはそれとして、すべての阿房列車はここから始まっているように見えるのだった。
《女中が行つた後、お茶ばかりがぶがぶ二三杯飲んだ。所在がないので、山系と二人して昨夜帰つて来てから飲み直した時の、お膳の上にあつた物を思ひ出さうとするが、何を食べたのか、両方の記憶を合はしても、丸でわからない。
「われわれの人生は曖昧なものだね」
「さうでもありません」》「雪解横手阿房列車」、『第二阿房列車』(旺文社文庫)p54


 次は『百鬼園随筆』です。


■ 旺文社文庫『第三阿房列車』(1980)目次:
長崎の鴉
 長崎阿房列車
房総鼻眼鏡
 房総阿房列車
隧道の白百合
 四国阿房列車
菅田庵の狐
 松江阿房列車
時雨の清見潟
 興津阿房列車
列車寝台の猿
 不知火阿房列車

 解説 阿房列車の留守番 中村武志
 「第三阿房列車」雑記 平山三郎


*新潮文庫の『第三阿房列車』は、仮名づかい以外はこの旺文社文庫の本篇と同じものが入っているはず。この表紙もうらやましい。

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