趣味は引用
ミロラド・パヴィチ『ハザール事典』(1984)

工藤幸雄訳、東京創元社(1993)

 9世紀の末、黒海沿岸に住まうハザール民族の王は夢に天使のお告げを聞いた。
〈汝の意図を創造主は嘉納したまう、
 しかし行為は受け容れられない〉

 王はキリスト教・イスラーム教・ユダヤ教から1人ずつ代表者を呼びよせ、もっともすぐれた夢解きをした者の宗教を国教に定めると約束して3人に論争させた。これがハザール論争である。その後、この国は歴史の表舞台から消えたため、どの宗教に改宗したのか、のちの時代の学者たちによる議論が続いた。
 それから8世紀が過ぎた1691年、ハザール論争とそれをめぐる論争について、3つの宗教それぞれによる説を1冊にまとめた書物が刊行されたが、すぐに失われてしまった。
 さらに時は流れて20世紀後半、資料をかき集め、失われた事典初版をできる限り復元し、新発見をもとに増補・再構成を施した改訂版がこの『ハザール事典』なのである…という設定に基づいた、小説。

 本書は、赤色の書(キリスト教)、緑色の書(イスラーム教)、黄色の書(ユダヤ教)の3部から成り、おのおのの立場からハザールにまつわる事物、人物、伝説が事典形式で配列され記述されている。
 もちろん、どの宗教も「ハザール論争の結果、かの国はわれわれの宗教に改宗した」と主張してやまず、同じ出来事についての見解も時には大きく異なり、時には裏側から重なる(しおりヒモはちゃんと3本ついている)。さらにこの本には「男性版」と「女性版」があり、全篇中17行だけ文章が違っているという。自分が読んだのは男性版。
 すごいのは、これだけ凝った形式の中に山ほど詰め込まれているエピソードの数かずが、どれもこれも、その形式がどうでもよくなるほど奇想天外な展開を見せてくれることである。
 朝起きると口の中から一千年前の鍵が出てきた考古学者。失われたハザール語で歌う鸚鵡。「死」という名前をもった人造人間の娘が恋に落ちる。他人の夢の中に現れる夢の狩人とは。そして、この『事典』刊行にまつわる不可解な殺人。エトセトラ。
 それらひとつひとつが、形式から独立して、いわばそれぞれ勝手に面白い――ように見えながら、しかし事実として、どれもがこの形式の中ではじめて命を得たものであり、ひるがえって『事典』の全体を脈打たせている以上(どのエピソードもこの『事典』の一部として読まれるのだ)、形式とエピソードを分離できるものとして考えるのはナンセンスだろう。
 だからこれは、圧倒的な想像力が形式と内容をひとしく満たした傑作、と言うほかない。400ページ足らずで終わってしまう点だけが惜しいが、本を閉じた読者は、『事典』からあふれた想像力にやはり満たされた世界で『事典』を前にしている自分を見つけるのである。

 参考までに、この『事典』本篇を飾る最初の項目、キリスト教のパートから「アテー」の冒頭を引用する。
《九世紀 ハザールの王女。ハザールの改宗に先立つ討論に参加、決定的な役割を果たした。姫の名は「心の四つの状態」―喜怒哀楽の意である。就寝時、姫は両目の瞼[まぶた]に決まった一文字を記したが、その文字は競走馬の出走直前の馬の瞼にも書き記される。禁じられたハザール・アルファベットの中のこの一文字は、読みとる者が即座に絶命する魔の文字である。このため姫の瞼に字を書き入れる役目は盲人に任され、召使らは、姫の朝の身じまいが始まるまでは目を閉じたまま傅[かしず]いた。睡眠時の姫はこうして仇敵から守られた。人間がもっとも隙多いのは睡眠中である、とハザールは考える。アテー姫は娟[あで]やかな美女で信心も篤く、護身のこの文字は姫の身にふさわしかった。姫の食卓にはいつも七種の塩が置かれる習わしで、魚の一切れを食べようとするたびに、姫は指先にいちいち別の塩をつけねばならない。これが彼女流儀の祈りなのであった。
 七種の塩が欠かせないように、姫には七つの顔があったと言われる。言い伝えによれば、朝ごと、鏡を手にすると、姫は化粧にとりかかるのだが、いつもモデルを置いた。男か女かの奴隷が呼びだされ、同じモデルは二度と使わない。こうして姫は毎朝、見たこともない新しい顔を作った。別の言い伝えでは、アテーはおよそ不美人であったが、鏡に向かうと自分の顔を拵えなおし、いかにも麗人の面立ちに仕上げる術を会得していた。そういう擬[まがい]ものの美しさとなるには、絶大な肉体労働を要したから、ひとりきりとなったとたん、姫の緊張はたちまちに解け、美貌も塩のように四散した。それはともかく、九世紀のあるビザンティン皇帝は、かの有名な哲学者でギリシャ正教総大主教フォティオスの容貌を評して〈ハザール顔〉と呼んだ。このことは大主教がハザールと血族関係にあったか、あるいは、為政者だったか――そのいずれかの意味と思われる。[…]》p26

 こういうのに「たまらない」ともだえる嗜好の持ち主は確実に一定数いるはずで、本書がその人たち全員の手に届いているか、大きなお世話ながら気になってならない。
 当然のようにこの本には「第二版に寄せるまえがき」「成立の経緯」「初版に付された緒言の断片」「付属文書」(2種類)も「索引」もついているし、極めつけに、ハザールは実在した民族なのである。


ハザール事典―夢の狩人たちの物語 男性版ハザール事典―夢の狩人たちの物語 男性版
(1993/05)
ミロラド パヴィチ

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