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2017/12/04

尾辻克彦『吾輩は猫の友だちである』(1983)

吾輩は猫の友だちである (中公文庫)
中公文庫(1993)

 10年くらい前に古本屋で見つけたときの、「人生の猫経験値がゼロだけど、まあ尾辻克彦だし赤瀬川原平だし、いちおう買っておこう」という気持をありありとおぼえているが、あれから時は流れ、いまやわたしも毎朝毎晩、にカリカリを出しトイレを片付けるのが日常である。ずっと住み続けたいと思っていた、あの古本屋のある街は530キロくらい彼方になった。本当に不思議。この本だってそろそろ読んでみてもいいのでは? と本棚から出してきた。こんなふうに始まる。
《うちにはチチヤスというアダ名の小学三年生の娘がいる。夕食で乾杯するとき大人はビールなのだけれど、娘はいつもチチヤスなのだ。チチヤスというのはヤクルトみたいな小さな容れ物にはいっている赤い飲物で、リンゴの味がする。娘は何だかこれが好きなのである。スーパーにいっしょに買物に行くと、いつもこれを籠に入れる。だから私は娘のことをチチヤスというアダ名で呼んでいる。》p7

 エッセイのような私小説のようなヒョウヒョウとした文章で、「私」と、娘の「チチヤス」と、私が再婚した妻の「桃子」と、私の母親「トヨ子」、この4人からなる生活が綴られていく。きっかけは友人から黒猫を1匹もらったことだったが、タイトルから想像されるような、猫どっぷりの猫猫した猫エッセイ、もしくは猫私小説、ではなかった。
「猫の様子を描いた文章」はたしかにあって、ペリーと名付けた小さく黒い生き物の様子やちょこまかした動きが的確に描かれるけれども(近所の猫たちもたびたび登場する)、それ以上に「猫と暮らすチチヤス、猫と暮らす妻」が書かれ、それは「チチヤスと私の関係、私と妻の関係、妻とチチヤスの関係、妻とチチヤスとトヨ子の関係」が書かれるということだから、つまり、わたしが読むのは「猫といっしょに暮らすことになった、この家庭」だった。

 人間の心の動き、関係の変化、といった微妙なものの、動いて変わっていく過程を、この人は文章で巧みにスケッチする。嫁姑問題からくる夫婦の不和、という湿って重そうな事態も、それがじめじめして息苦しいことを細かく丁寧に書く文章じたいはさらりと乾いており、たとえば、去勢手術の前後での猫の変化を書いていくのと構えは同じなのである。
 だから、エッセイのような私小説のような、と最初に書いたが、そのどちらとも言えそうなこの本は、猫を含んだ家族を見つめる観察記録だというのがいちばん近い。本来別々の存在である4人と1匹(1人と1人と1人と1人と1匹)が同居するというのはどういうことなのか、と。

 記録はふつう、正確さをめざす。この本もそうだ。ほとんど呆れるくらい感心したのは、巻末の解説(村松友視による)でも注目されている、この部分。
[…] うちには桃子というアダ名の妻がいる。桃子というとちゃんとした名前みたいだけど、これがアダ名なのだ。何故かというと、桃子は人間ではなく桃から生れた。桃太郎みたいに。いやホント。これは本当なのだ。前に小説に書いたこともある。いや小説に書いたからって、そうか、これは本当の証明にはならないかもしれないけれど、困ったなあ。だけど桃子はチチヤスと私が見ている前で、本当に桃の中から生れたのだ。ポンと。それがオギャアという赤ン坊かと思ったら、見るともうちゃんとした大人の体の女の人。驚いたね、二人とも。で、チチヤスは思わず、
「お母さん……」
 と呼んでしまった。》pp13-4

 ずっとうしろのほうでは、自分の母(チチヤスの祖母)についてもこんなことを書く。
《この話、おばあちゃんのクニヨシにも心当りがあるようである。(注――申し遅れたが、このところあまり話に出てこなかったおばあちゃんのトヨ子、久し振りに字に書いてみたらトヨ子ではどうも気分が出ないのでクニヨシに変えた)
 クニヨシは眼鏡のへりから目を出して上目づかいにこちらを見ながら、[…]pp235-6

 対象と自分との関係を正確に表現するために、それ以外の要素はなんでも自在に動かしてしまう、こんなアプローチでもってめざされる正確さというものがある、ということをメモしておきたい。
 そしてそういうものと並んで、もっと素直に猫を写し取った部分もあちこちに入っている、その同居ぐあいがこの本の読みどころだった。
《(だけど、ペリーはこれからどうするつもり?)
 という顔付きをしてみても、ペリーはまたゆっくりと目を閉じるだけで、
(……ボクは別に、ボクはちゃんと、息ぐらいはしてますよ……)
 というような、そんな目付きでこちらを見ている。どうもこの猫の視線というのは妙なもので、人間の視線と似ているようで、ちょっと違う。じっと床に丸まっているペリーの顔に視線を向けると、まるでその視線をまぶたで受けとめるように、ゆっくりといったん目を閉じて、それからまたそうっと開ける。それでもまだこちらが見つめていると、
(……んーもう。まだ見てる……)
 というような顔付きをして、また目を閉じて、それからまたそうっと開ける。それでもまだじーっと見つめていると、もうこらえきれずに口を開けて、
「にゃァオ……」
 と小さく声を出す。
(……いいじゃないかもう、そんなに見ていなくても。こっちはもう二回も目を閉じたんだから……)
 とでも言ってるようだ。》pp117-8

 ところで、娘のアダ名のもとになったチチヤス、《ヤクルトみたいな小さな容れ物にはいっている赤い飲物で、リンゴの味がする》のを、わたしもたしかに好んで飲んでいたおぼえがあるのだが、いまサイトで探してみても、それそのものはもう作っていないみたいである。
 チチヤスがなくても、尾辻克彦/赤瀬川原平の本はみんな新刊本屋で手に取れるようになってほしい。

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