2017/10/26

パトリシア・ハイスミス『見知らぬ乗客』(1950)

見知らぬ乗客 (河出文庫)
白石朗訳、河出文庫(2017)

《本人を見る前から、ミリアムがきらいだった。》p113

 先月、ヒッチコックの「見知らぬ乗客」(1951)をはじめて観たらたいへん面白く(当分忘れないだろう場面が少なくとも4つある)、たまたま今月になってその原作である長篇が新訳で出ると知り、こういうめぐり合わせは尊重しなくてはと買って読んだ。表紙もすごくいい。

 新進気鋭の建築家ガイ・ヘインズには悩みがあった。別居状態の妻ミリアムが金の無心を続けるばかりかほかの男の子供を宿し、そのくせ離婚には同意しないのだ。大きな仕事も受注できそうだし、すばらしく性格の良い恋人もできたのに、ただミリアムのせいですべてがおじゃんになりそうだ。ミリアムさえいなければ。ミリアムさえいなければ……
 そんなガイが、たまたま列車で乗り合わせた相手がアンソニー・ブルーノ。物腰は丁寧ながら妙に馴れ馴れしく、親の金で遊び暮らしているらしいこの男に、ガイはつい聞かれるままミリアムのことを話してしまう。
 ブルーノはブルーノで、自分を溺愛してくれる母親が大好きな反面、父親のことは心の底から憎んでいた。それでブルーノは持ちかける。ぼくはあなたのことがとても好きなんです。あなたがぼくの父親を殺してくれるなら、ぼくがミリアムを殺してあげましょう。殺す相手を交換してしまえば動機は見えなくなるから、これは完全犯罪になるはずです。
 ガイはもちろんこの誘いを一蹴し、偶然生まれた2人の関係は列車を降りた時点で終わったつもりでいた。しかしブルーノにはこれが始まりだった。彼は本気でミリアムの住所を調べ――

 これは怖い。やばい人につきまとわれる恐怖。しかもそのやばいブルーノは、自分の証言次第でガイの関与は明らかにできるとほのめかしつつ、約束を果たせと迫る。迫れば迫るほど、つまり2人の関係ができてしまえばしまうほど完全犯罪から遠くなるだろうに、ブルーノは最初は手紙で、やがて電話を使い、ついにはみずからやって来る。恋人はますます思いやりに溢れ、仕事の評判も高まっていくが、ガイの日常は急速にブルーノに取り憑かれて、だけど小説はまだ半分も進んでいない。

 100分くらいで終わる映画版は、ほとんどガイの側に立って異常者ブルーノにつきまとわれる不条理を描いていたけれども、ほぼ500ページあるこの原作では、ブルーノの側の書き込みも相当ある。
 それによって、正体不明の異常さは薄れるといえば薄れる。
 母親が好きで父親を殺したくなるんだから、いかにもなんとか・コンプレックスで説明されそうだし、母親に“自分を溺愛してくれる母親”のままでいてほしいあまり、よその男たちとあちこち遊び回る現実の彼女に対して生まれているはずの怒りを直接本人には向けられず、その鬱屈がたまたま示された噴出口を見つける経路なんかも、(登場人物じしんの言葉はともかく)読んでいるこちらにはかなりわかりやすく書いてある。しかしもっと怖いのは、ブルーノの行動がガイへの好意に基づいていることと、ガイがきっぱりブルーノを拒絶できない煮えきらなさだった。

 立派な仕事をこなすまっとうな善人。ブルーノからすると、ガイは自分からかけ離れた人物だ。自分にはぜったいなれない存在だからこそ、自分の裏面として、自分に取り込みたくなってしまう。この気持、わからなくはない。
 ガイからするとブルーノは、自分の中にあったことは否定できない願望を実行してしまった他人だが、そんな存在をすっぱり断ち切れないとなれば、そこにあるのはただの自己保身(警察に疑われたくない)を越えて、自分の願望を共有した人間はもう他人ではないという歪んだ自己愛のようなものになる。そしてこの気持だってわからなくはないという、そこがいちばんおそろしかった。
「実行しない/した」は、「自分/他人」と同じくらい確固とした区切りのはずなのに、どちらの境界もずるずる崩れていく。だけどあくまでガイはガイであり、ブルーノはブルーノという別々の体を持った2人である。このやりきれなさ(そう、こんな当たり前のことが次第にやりきれなくなるのである!)をぐりぐりえぐり出すように小説は進んでいき、最後まで飽きさせない。

 映画版とはガイの職業など設定がいろいろちがうし、あちらには出てこない登場人物が徐々に活躍を始める展開はまったく別物である。わたしみたいに映画を先に見ていても「こうなっていたのか、全然ちがう!」と面白かったし、この原作を先に読んでから映画を見てもやっぱり「こうなるのか、全然ちがう!」と楽しめると思う。2人を扱った2つの作品の両方をおすすめ。



 ところで、小説も後半の399ページで7行目にある「ガイ」は、前後から見て「ブルーノ」でないとおかしいと思うのだが、これは単純な誤記だろうか。じつはハイスミスが――というか小説が2人を混同したのならいっそう面白い、などと想像が膨らみました。

コメント

非公開コメント