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2017/07/12

丸谷才一『笹まくら』(1966)

笹まくら (新潮文庫)
新潮文庫(2001)

★いちばんすごい部分(結末)に触れています


《「聖火リレーの走者の、反対のイメージがお前さんだよな。」》p271

 昭和40年の春。東京の私立大学で庶務課に勤めている浜田庄吉のもとに、一通の葉書が届けられて小説は始まる。
 45歳の浜田には秘密があった。昭和15年から終戦まで、つまり20歳から25歳までの5年のあいだ、彼は徴兵を避けるために名前を変え、日本中を転々と逃げ続けたのである。葉書は、その逃避行の後半を支えてくれた女性・阿貴子の死を伝える通知だった。
 戦争が終わって都内の実家に帰り(もとの自分に戻り)、あるコネからいまの職を世話してもらって、やがて阿貴子ではない別の女と結婚し、いちおうは平穏に暮らしている浜田。「いちおうは」というのは、20年を経ても、自分の徴兵忌避が学内でだれに・どこまで知られているのかという不安が彼を離れることはないからだ。
 そんな過去を抱えながら、理事と教員と職員と学生が何重にも織りなす力関係のなか、浜田はひたすら目立たないよう注意を払い、無難に立ち回るため周囲と腹をさぐり合う毎日を送っているところだった。

 で、小説は、この浜田庄吉の大学での立場が出世にからんで変化していく現在の話と、彼が「杉浦健次」という偽名で過ごした5年間を、並行して語っていく。
 丸谷才一の長篇を読むのは初めてだったが、びっくりするほど面白かった。これが徴兵忌避者の戦後を扱った作品であることは何かの紹介で目にしてぼんやり知っていたけれど、実物を読んでみると、構成がとんでもなく見事である。
 過去においても現在においても、浜田(杉浦)に好意を抱く人間もいれば、疑いや反感を持つ人間もいる(いた)。助けてくれる人間、陥れようとする人間。世代も性格もさまざまな人物たちが、具体的な姿かたちや身振り・口調から、きっちり造形されて小説を立体的にする。
 そんな人物たちを描くうえで、これはおそらく作者が作者だから、ジェイムズ・ジョイスが大々的に使ったことで有名な手法をもっとマイルドにして採用したと思われる、やや実験的な部分もたまにある。でも、50年前(!)の発表当時ならともかく、いまとなってはそういうところもつっかかりなく読めてしまうこと自体も面白かった。

 なによりすごいのは、過去を明かしていく順番である。

「逃げる」という決心はどうやってついたのか? 日本のどこをどんなルートで逃げ、そのあいだ、どんな方法で生計を立てていたのか? 「忌避者だ」と見抜かれるピンチはどれぐらいあって、どのように切り抜けたのか? 逃げ出したあと、家族や友達はどうしたか? そして、阿貴子との出会いは? どんな仲だったのか? その阿貴子と戦後いっしょになっていないのは、いったいどういうわけなのか? などなど、気になる点はいくつもある。
 でも小説は、現在の浜田がだれかの発言や何かの物品に触発されて起こすフラッシュバックのかたちを借り――現在を語る文章が次の段落でいきなり過去に移り、また継ぎ目なく現在に戻る――逃避行のなりゆきをバラバラの順番で、少しずつしか教えてくれない。
 北海道にも鹿児島にも朝鮮半島にもおよび、地方ごと季節ごとの自然や、必要に迫られて身につけた職業の細部もふんだんに盛り込みながら、「別の人間として信じてもらう」という目的のために裏返ったロードノベルになる杉浦健次としての逃亡生活は、読者が自分で組み立ててはじめてその全体像をあらわす。
 こう書くと読みにくそうだが、実際はその反対である。彼が徴兵忌避を完遂するのはわかっているのだから、それを時系列に沿って書くだけでは間延びしてしまう。結果がわかっていても謎と緊張が生まれて小説を引っぱっていくように、過去を伝えるフラッシュバックの順番が巧みに構成されている。
 逆にいえば、小説の側のそんな作為が主人公の突発的な回想になめらかに溶かし込まれているわけで、おそろしく手が込んでいるし、かつ、とても読みやすい。
(いま思い出した。現在の浜田が「これからどうなるのか」と、過去の杉浦が「どうやって現在にたどりついたのか」という、小説を進める動力がふたつあるという点で、『笹まくら』はリチャード・パワーズの『オルフェオ』(2014)にちょっと似ている。でも『オルフェオ』だと過去も時系列で語られていたから、似ているのと同じくらい似ていないとも言える)

 読者にとっては、パズルのピースを何枚かずつ手渡されるようにして徐々に見えてくる杉浦の鬱屈した放浪が、作中の現在においては、学内の人事に際して「あいつは逃げた」ぐらいの雑なまとめかたで広まり、浜田の立場を危うくしていく。
 戦争が終わり、徴兵忌避は犯罪ではなくなった。それから20年間、問題にされなかったはずの過去が、なぜいま蒸し返されるとスキャンダルになりうるのか。

 軍隊から外れることで戦中の社会から降りることを選んだ浜田は、大学という企業体に入ることで戦後の社会におとなしく身を沈めようとしてきた。ほかの登場人物の体験談として語られる前者ではむき出しの暴力が吹き荒れていたのに対し、後者で飛び交うのは無言の忖度である。
《「そこで班長がものすごく怒って出て来て、ぼくを殴ったんですよ。上靴……スリッパですよね、それから帯革……ベルトだな、その二つで、明け方まで殴られた。今でもときどき頬の骨が痛むことがありますよ……寒い日なんか。」》p175

《浜田が誰にともなくお辞儀をして、部屋を出ようとすると、理事が顔をすばやく彼のほうに向けて言った。
「浜田君、いつでも相談に来てくれたまえ。いいかね」
 彼は礼を述べて仄暗い廊下へ出た。しかし、礼を言う必要は果してあったのだろうか? あれはむしろ、相談には来ないで決めろと言われたような気もするのだけれども。》p289

 だから、終戦をあいだに挟んだこのふたつの社会は、まったく別物のように見える。それなのに、前者から逃げたことを理由に、いま後者が浜田を不利な方向へ押し流すなら、両者にはつながる何かがあることになりはしないか。ちょうど、いまの浜田が長けている、他人の顔色をうかがって周囲の風向きを判断する能力が、杉浦だった日々に染みついた、近づく人間だれのことも「ぼくを怪しんでいるのでは?」とおそれる疑心暗鬼とつながっているように。
 悩み、翻弄される浜田は、繰り返し過去をよみがえらせながら、自分の状況を考え続ける。それでも、自分と他人を巻き込んで状況を変化させている何かの姿ははっきり見えない。「これ」と名指せる正体を持たない曖昧で大きな力を、この小説は見えないまま、そういうものとして扱って、それがたしかに働いているさまを、登場人物たちの言動からぐりぐり描き出していく。
 ときおり浜田は、他人を利用する目でしか見ない冷たい部分をまったく無自覚なままあらわにしてこちらをヒヤリとさせるし、自分が他人にどう映っているかをたえず疑う彼の心は、次第に被害妄想へと傾く。追われる緊張を長く強いられる生活から来た歪みであるとか、いままた追い詰められて起こる正気からの逸脱だとか、そういった部分的な変調も、スムーズで巧みな構成の中に組み込まれ、杉浦健次である浜田庄吉を作り上げていく。

 そんな舌を巻く400ページ余りのあとで、とどめとばかりに小説は驚愕の結末にいたる。ここが本当にすごかった。

 ある事件をきっかけに、自分はもういちど「降りる」ことだってできるんだという発見に45歳の浜田はたどり着く。そこで終わっても十分以上に重たいラストになるだろうに、小説はそのあと、昭和15年10月の入営前夜、すべての準備を整えて実家を去ってゆく20歳の浜田を置く。
 彼のしたことが、彼自身とまわりの人間のその後をどのように変えていったか。過去がどれほど現在と切れないつながりを持つものなのか。小説はそれをここまで入念に書いてきた。そうやって書かれている限りのぜんぶを読んできた読者の前で、最後の最後、そんな“未来”をいっさい知らない浜田庄吉が、これまでのどの場面よりも丁寧な、スローモーションめいた挙動で杉浦健次に姿を変え、出発する。
 小説はここで終わり、ここから始まるけれども、これはループではない。『笹まくら』は、その終わりかたでもって、終わるものなんかないことを告げるのである。




*浜田と女性の親密なシーン(婉曲表現)の書きかたに気取った中年男臭が漂うのと、おそらく同じ理由から、浜田の妻を都合よく扱いすぎのきらいはあるものの、そういう部分はそれ自体がすでに「時代の証言」じゃないかと思う。

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