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2017/05/24

芳川泰久『漱石論 鏡あるいは夢の書法』(1994) 1/2

漱石論―鏡あるいは夢の書法
河出書房新社


 ↑amazonは書影のない本にときどきこのイメージをあてているけど、いっそ「画像はありません」のほうがいいと思うんだがどうだろう。

 フランス文学者の著者が、20年以上前に出していた漱石論。11本の論考が収められている。
 最初は「熱力学的ディスクール」といって、熱い/冷たいという「温度差」をものさしに漱石作品を論じたもの。これは面白い。いい意味で「よくやるなあ」という感動があった。
 そのあとは、タイトルにあるとおり、鏡の書法、夢の書法というのをさまざまな作品から組み立てて、さらに別の作品へと応用して「どんなことが言えるか」と続いていくのだけど、正直、こちらは「言おうと思えばこんなことだって言えてしまう」の見本市のようで、まあ読むには読みましたけど…みたいな読み方になってしまった。
 ところがしかし、いちばん最後にある「「声」の検閲――『こゝろ』の話法を聴く」というのがまた急に面白くておどろいた。忙しい読書である。

 なので、感想は2回に分け、まず「熱力学的ディスクール」、次に「「声」の検閲――『こゝろ』の話法を聴く」について書こうと思う。


 高低差(高い/低い)からエネルギーを取り出す古典力学に対して、温度差(熱い/冷たい)からエネルギーを取り出す熱力学。明治の文明開化とは、このエネルギー面でのパラダイム変換のことでもあったそうである。
 温度差を作り出すための機関が蒸気機関で、それにより汽車が走り出す。そしてまた、温度差を生む天然の場所といえば温泉である。なるほど。
《ところで『草枕』は、もっと決定的なフレーズを冒頭から刻印している。作者自身がどこまで意識していたかということを超えて、そのフレーズは、『草枕』がそれまでの古典力学的パラダイムから熱力学的なパラダイムへの変換そのものを語る場であることを告げている。そうしたパラダイム変換をはぐくむべく、古典力学的としか言いようのない主人公の仕草を冒頭から宣言するフレーズ。想い起こそう。[…]》

 中略したけど、さらに倍の分量を費やしてもったいぶってから、いよいよ引用がくる。
《  山路を登りながら、かう考へた。

 おそらく、われわれは長いあいだ、『草枕』のこの冒頭の一行を読み過ごしてきたのではないだろうか。その証拠に、だれもが復唱するのは、これにつづいて語られる画工の「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」といった人生論的な感懐なのだから。しかしながら、『草枕』が重要なのは、結末で「汽車論」を語るのとちょうど対応するかのように、冒頭で、古典力学的な身振りを提示している点なのだ。徒歩で山を登ること。これ以上、古典力学的パラダイムにふさわしい仕草があるだろうか。》pp33-4 太字と下線は引用者

 感動的なほどドヤ顔が見えるし、下線を引いた部分の口調には笑ってしまう。
『草枕』は、山を登ったあと、温泉宿を舞台とし、それから今度は山を下って(位置エネルギーを運動に変える)、舟で移動し(そのとき川沿いに見られる機織りの風景はやがて来る紡績工場という産業の転換を予告していて)、そして到着するのは蒸気機関車の走る鉄道の停車場なのである。よくも目を付けた。感動的なほど、ドヤ顔が見える(2回め)。
 それから『草枕』だけでなく、『二百十日』や『坑夫』からも火山や鉱山が取り出されて「高い/低い」や「熱い/冷たい」が論じられ、『吾輩は猫である』に出てくる風呂場のシーンが注目され(銭湯の湯槽にうごめく人々の姿は分子のブラウン運動に似ているそうで、さらにはエントロピーの法則が見出される)、そういえば吾輩が死ぬのは甕に張られた水の中(冷たい)だったし、それに『坊っちゃん』もまた温泉を行き来するし、その温度差をもつ2ヶ所は汽車で連結されていたし、しかも坊っちゃんは、最後に街鉄の技手になるではないか。だから、漱石ほどこのエネルギーの転換を言説化できた小説家はいない、ということになる。
《物語論的な場に温度の異なる二つの熱源を布置することで、テクストそのものを熱機関に書き換えた作家。そのことこそが、西欧より遅れて短期間のうちに熱力学的なパラダイムを導入しようとした明治期の日本において、漱石にしてはじめて成し得た仕事の射程にほかならない。》p67

「ほかならない」。そんな調子で、高低差と温度差という発見を鍵にすると漱石の作品はこんなふうにも読めるという、楽しい実例だった。「よくもここまでやったものだよ」という尊敬と、文字面は同じだが、「よくもここまでやったものだよ」という呆れが絶妙にミックスされる読後感だった。

 で、この後に続く論考については、後者、呆れのほうの「よくもここまでやったものだよ」が多くなってしまう。
 漱石の作品では汽車や電車がよく走る、そんな場面では、あわせて果実と鼻が登場することが多い、汽車・果実・鼻、この3つが揃ったところに漱石の夢の世界があって――というぐらいなら「ほうほう、それで?」とまだついていけるが、「鼻=男根」となってくると「うん…そうか…」と力が抜ける。
 それにまた、『明暗』に出てくる「清子」という名前が「キヨコ」から「キヨ」→「鏡」→「鏡子」(漱石の妻)と変換されても、どんな顔で読めばいいのか困ってしまうし、『三四郎』において、「水蜜桃」=「水・三・十」、「小川三四郎」=「水・三・四+六」=「水・三・十」、ゆえに両者は同調可能、となるとこれははっきり、凝りすぎた冗談だと思う。
 ――揶揄的に過ぎた。
 ここにあるのは、先人の開発した概念を組み合わせて特注のメガネを作り、それを通せば見えてくる作品の一部分一部分をまた組み合わせて筋道を立てる、しかもそのすべてを言葉でもって行なって読者の吟味に供するという職人技の実践で、「どんなことが言えるか」が「どこまで言えるか」の挑戦になっていくのは自然な流れだとも思う。
 わたしのほうがそれについて行けるだけの地図と体力を持っていなかったという話だろう。文章のアクロバットは相当に華麗だった。それだけはわかる。

 が、そんな無粋な人間でも、本書の最後にあった「「声」の検閲――『こゝろ』の話法を聴く」は面白く読めたのである。「熱力学的ディスクール」よりおどろきがあった。
 どんな内容だったか忘れてしまうのはもったいない。次回、感想はともかく、メモにつとめることにする。

 [→次回

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