趣味は引用
いとうせいこう×奥泉光『漱石漫談』(2017)
漱石漫談
《奥泉 ―― でも、自分から「私は損ばかりしていました」と主張する人って、どうなのかな?

いとう ―― 「私って、~の人だから」というのと同じで、嫌ですね。

奥泉 ―― 「あたしって、昔から損ばっかりしている人じゃないですかぁ?」

いとう ―― 知らねえよ(笑)。》『坊っちゃん』p118

 先日、熱にうかされて『坑夫』のところだけ読んで引用したいとうせいこう×奥泉光の『漱石漫談』、ほかの部分も読んだのであらためて感想を。

 本書で扱われる漱石の作品はぜんぶで8作。毎回1作にフォーカスしてふたりが漫談をする。
 一方が事前に準備してきた内容にもう一方がその場で応接し、話が深まったり、あたらしい切り口が生まれたり、脱線が続いたりしてとても楽しい。8作と言わず全作品について、さらに同じ作品についても、繰り返し喋って、喋り直して、喋り倒してほしい。それはたいへんだ。

「はじめに」で奥泉光はこう言っている。
《小説を読む行為って、ひとりで本に向かい合う、という行為だけでなく、その小説について語ることとか、その小説について人に面白さを伝えることとかを含めてもいいと僕は思うんです。文芸漫談は、いとうさんの方向、お客さんの方向、テキストの方向、といった具合に多方向に意識が動いていく。この動きそのものが小説を読むという経験になってるんですよね。》p3

 わたしは2015年の奇書にして名著、『『罪と罰』を読まない』(岸本佐知子 ・三浦しをん・吉田篤弘 ・ 吉田浩美、文藝春秋)を思い出しました。あれもわいわい好き放題に(ほんとうに、好き放題)喋っている感じが楽しかった。あの本にしてもこの本にしても、そういうことができるのっていいなという、非常に羨ましい気持。

 奥泉光が『吾輩は猫である』は温泉である、と喝破するところとか、いとうせいこうが『三四郎』の美禰子にえんえん毒づくところ、『門』からの引用を朗読し、朗読するほうも聞くほうもいっしょに圧倒されてしまうところなど、個々の面白かった部分を挙げていったら切りがない。なのでふたつだけ書く。

 まず「へえ」と思ったのは、本の最初が『こころ』を扱う回であること。
 漱石の執筆順じゃないのか、じゃあ何の順?と気になったので、目次の通りに作品を並べ、その発表年と、記録されている漫談の行なわれた日付を書き出してみるとこうなる。何度見ても『坑夫』が大トリなのには胸が熱くなるけど、それは今はいい。

『こころ』(1914) 2013/09/27
『三四郎』(1908) 2009/11/30
『吾輩は猫である』(1905)2016/10/24
『坊っちゃん』(1906) 2007/09/22
『草枕』(1906) 2015/05/13
『門』(1910) 2015/11/08
『行人』(1912) 2016/03/12
『坑夫』(1908) 2016/05/21

 小説の発表順でもないし、漫談の順でもない。何の順だろう。読者の興味がなるべくうまくつながるように、作品のネームバリューを考え合わせて配列した(『坑夫』が最後)、というのがおそらく、きっと正解なのだろうとは思う。思うけど、勝手なことを書くと、奥泉光が何度も持ち出す話がある。
《奥泉 ―― […]漱石の一貫したテーマは孤独ということなんだと思うんですよ。漱石の孤独はすごく独特で、どういう孤独かというと、つまりひとりでいるという孤独じゃない。ひとりになっちゃう孤独なんかたいしたことない。そうではなくて、人とコミュニケーションして、失敗しちゃう孤独なんですよ。》
[…]
《『坊っちゃん』もそうですよね。最後の『明暗』なんかも同じです。つまり、たいしたことは起こってないのに、人物たちがものすごく緊張していている。『明暗』の夫婦はべつにお互い浮気してるとかなにもないですよ。なにもしてないのに夫婦間にただならぬ緊張感が走っている。どういう緊張かというと、コミュニケーションに失敗するのではないかという恐怖感なんですよね。》『三四郎』pp60-1

《奥泉 ―― […]「吾輩」も、しゃべることだけはできないんだよ。せめてテレパシーで自分の考えを人間に伝えられるといいのに、それもできない。

いとう ―― ああ、人間語をしゃべれないんだね。でもこれって、漱石っぽい。コミュニケーションできたかどうかわからないという問題は、『坊ちゃん』だろうがなんだろうが、漱石作品の主人公が常に持っているもどかしさだと奥泉さんが年来言ってるやつ。》『吾輩は猫である』p96

 コミュニケーションの失敗と孤独にまつわるこの話は、本書後半の『門』や『行人』の回でいっそう深められていく印象があった。
 そういった効果も加味して順番が練られているのだとしたら、喋っているふたりだけでなく、それをした人も巧みであることだなあと思った。
(ついでに書くと、この本も前の『文芸漫談』も、ふたりの発言の中で太字にする部分のセレクトがすごく絞られており感心する。わたしだったらもっとだらだら太字だらけにしてしまう)

 そしてもうひとつ引用したいのは、いまの時代に「ふつうの小説」として一般的に通用している小説があるとして、漱石が模索していた「そういうのではない小説」のありかたを、ふたりが漱石作品のあちこちから推測してあれこれ喋っている部分である。
 そのヒントが顕著なのが『草枕』であり、そして『坑夫』であることには深く納得する。「そりゃそうだ」と思うから意外性はない。
《いとう ―― そもそも那美さんは強力な物語を持っているのに。

奥泉 ―― そう。那美さんは、かつて川に身を投げた伝説の「長良の乙女」に似ていると言われているんですよ。さらに先祖にも長良の乙女みたいに自殺した人がいる。

いとう ―― 出た! 物語中の物語ですよ。「親の因果が子に報い」でしょ、これ。

奥泉 ―― 画工のイメージの中ではオフィーリアとも重ねられる。だからこの人は絶対に身投げするしかないんだよ

いとう ―― 物語的には。

奥泉 ―― 僕が作者だったら、「うーん、なんとか身投げさせるか」と考えちゃう。

いとう ―― 身投げさせなかったら、読者がかなり肩すかしを食らう感じがあると思うんですよ。でも身投げしない上に、肩すかし感もない。せいぜい岩場で向こうに落ちるだけ。不思議だなあ。

奥泉 ―― 漱石はわざとそこまでやっておいて、これが小説というものだぜというはっきりした信念を見せている。だからこれは漱石が本気を出した小説なんですよ。新聞小説作家になってからは本気を出していないと思う。

いとう ―― そんな感じする?(笑)

奥泉 ―― いや、言いすぎました(笑)。》『草枕』p169

《奥泉 ―― いとうさんと僕が考える小説というものにいちばん近いのが、『坑夫』なんだよね。つまり僕らの小説の定義は、「なんじゃこりゃ!」と思わず言いたくなるようなもの。[…]

いとう ―― ストーリーもほぼないよ。坑夫のところに雇われに行き、でも働き始める約束もないまま坑[あな]に入らされて、なんとか戻ってくる。そこで、ぷつっと終わる。物語的な起承転結とか一切なし。

奥泉 ―― 過剰に反物語的。『草枕』はアンチ物語を真正面から打ち出した作品だけど、『坑夫』のほうが反物語のエッジが効いてる気がする。》『坑夫』pp235-6

 で、わたしがいちばんおどろいたのは、『三四郎』もそっち側の作品だという発言。これは「わかりやすい小説のように見せて、実はすごい実験小説なんだ」、と(いとう、p70)
 その指摘は、作中で登場人物の弾くバイオリンが、断片的な音しか鳴らさないという点からなされる(!)。
(しかも、『三四郎』より前にある『こころ』の回でも琴の音について似た言及があり、ここの指摘の予告として働くようになっている。やっぱり見事な構成)
《奥泉 ―― […]いわゆる西洋古典音楽[クラシック]というのは構築的なんですが、漱石はそういう音楽にはけっこう否定的、というか、正面から書かないんですよ。むしろ断片の響きがよく小説中に出てくる。バイオリンやピアノは必ずノイズっぽく鳴るんですよ。それがいいというふうに漱石は書くんですよね。

いとう ―― なるほど。つまり音楽というのは時間芸術だから、時間が流れていくのを編成していくわけです、いろんな和音で。だけど漱石の言ってる断片というのは時間芸術じゃないですよね。むしろ音が絵になってるわけですね。

奥泉 ―― そう、つまり画なんですよ、漱石は。絵画的な発想をしているんですよね。》『三四郎』pp68-9

 ここの部分と、ここから続く2ページが本書の白眉だと思う。
 絵画のような小説、と言っても一瞬の静止画ではなく、時間の流れとともに変化する人物のありようを内側に封じ込めた絵画としての小説、といったふたりの仮説は、こうまとめてもよくわからないだろうから、実物で読まれるのをおすすします。
《いとう ―― 漱石はなんでそんなふうなことを発想できたんでしょうね。[…]

奥泉 ―― 漱石が有利だったのは、僕たちがすでに自明としてしまっているリアリズム以前を知っているということなんじゃないかと。》『三四郎』pp70-1

「作家の○○についての本」の最大の功徳は、それを読んだあと、○○本人の作品を手に取らせることだと思う。わたしは『坑夫』だけでなく、『三四郎』と、あと『門』も読み直すことにしました。
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック