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J.F.クーパー『モヒカン族の最後』(1826)
ラスト・オブ・モヒカン ディレクターズカット [Blu-ray]


 アメリカ映画「ラスト・オブ・モヒカン」が日本で公開されたのは、わたしたちが中学2年生のころだった。
 
 わたしたちの通っていた中学校は、1学年が1クラスしかない小さなところで、校舎は山の上にあった。毎朝、詰め襟の学生服に白い帆布の鞄を斜めにかけ、森を切り開いて延びる一本道をのぼって通い、同じ道を下って帰った。もちろん、夜は暗い。
 わたしは軟式テニス部に所属していた(男子は野球部か軟式テニス部のどちらかに入らなければならなかった。二択である)。部活を終えた帰り、学校の敷地を出てからの下り道にはろくに外灯もなく、人家の明かりもなく、昼よりも背が高くなったように見える黒い木々の枝が空を両側から狭め、月のない夜だといっしょに歩く友達の顔さえよく見えなかった。これは誇張ではない。
 さすがに舗装はしてあったが、歩道の脇からは羊歯植物の茂みが波打って迫り、どんな人外魔境に通じる道なのか(通学路だが)というくらいおそろしいあの夜道で、それでも生徒が車に轢かれる事故が起きなかったのは、そもそも、日が落ちてからそんなところを走る車がほとんどなかったからとしか考えようがない。 両方の拳を合わせたよりもなお大きいヒキガエルがたまに轢かれていて、遺骸は生きていたとき以上の存在感で何日もその場に残っていた。

 生まれたときからそのような環境を当然として育ったわたしたちは、特に不満の声をあげるでもなく、放課後になれば毎日ぎゃあぎゃあ騒ぎながらラケットを振り回し(部活に決まった活動曜日などなかった)、コートの柵を越えて広がる一面の低木林に消えたボールをひとり10個探して来いなどと先輩から無理難題を押しつけられ、だれかが持ち込んだ黄色い硬式のテニスボールを軟式のラケットで試し打ちしてガットを切ったりしつつ、ボールが見えなくなるまで練習し(部活に決まった終了時間などなかった)、毎日毎晩、空に星が現れてから、真っ暗な道を歩いて帰った。
「ラスト・オブ・モヒカン」が海を渡ってきたのは、そんなころだった。
 
 わたしがそうだったように、全員がテレビのCMで見た。この映画のタイトルが、田舎の中学生男子に与えたショックは計り知れないものだった。
 タイトルだけが、と言うべきだろう。だれひとり、映画の内容を話題にした者はなかった(いちばん近い映画館は自転車と電車を乗り継いで2時間の彼方にあり、そこまで行ってもこの映画は上映されていなかったはずだ)。インディアンにモヒカン族という部族があるらしい、ということぐらいはわかったが、「モヒカン」のイメージは北アメリカ大陸の原住民よりも、「北斗の拳」のザコキャラを思い起こさせた。その「モヒカン」に「ラスト・オブ」。まことに声に出して読みたい日本語だった。
 授業中に、あるいは給食の最中に、なるべく意味も脈絡もない状況で唐突に口にするだけで、確実にその場に波乱を起こすことができたこのタイトルは、わたしたちのあいだでひとしきり流行し、やがて変形された。それはこのような遊びになったのである:

 いつものように5、6人の集団で帰り道を歩いている途中、1人が先に走り出し、ほかの者たちの視界から消えたあたりで(なにしろ暗いからすぐ消える)、茂みに、あるいは森の木々のあいだに、身を潜める。どこに行ったのか捜すふりをしながら残りの連中が近づいていくと、潜んでいた者は奇声を発し、ラケットを振りかざして路上に躍り出る。そこで全員が毎回、声をそろえて叫ぶ。「モヒカンだ!」 そして全力で走って逃げる ――ここまでで1ターン。1日の帰宅路で3ターンほど繰り返したあたりで、比較的学校に近かったわたしは家に着くのだった。
 だれが駆け出して隠れる役になるのかに順番などはなく、場の雰囲気と全員のタイミングを計ったうえでの早いもの勝ちだったが、2回連続で走り出す(「モヒカンする」とわたしたちは言った)のは、はしたない真似として敬遠された。
 また、たとえだれかの隠れかたが下手で、夕闇の中にその姿が見えてしまっても、ほかの者は気付いていないふりをして近づくべしというルールも自然に生まれていた。校則でみんな頭は丸刈りだったが、なかなか紳士的だったと言える。わたし自身は、一見すると華やかな躍り出る側よりも、「毎回毎回、律儀におどろいたふりをする」側のほうがじつはバカバカしく感じられて好きだった。
 
 寄り道をする場所もない当時のわたしたちには、あれ以上に面白いものはなく、一連のアクションを表現するのに「モヒカン」以上に適切な言葉はなかった。
 すべてが緊密に結びつき、完全な調和を成していた14歳の中学生のころからはるかな年月を隔てて、先日、あの「ラスト・オブ・モヒカン」の原作である小説、180年前に書かれた『モヒカン族の最後』を読んでみた。ジェイムズ・フェニモア・クーパー著(犬飼和雄訳)、ハヤカワ文庫で上下巻。

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 舞台は1757年、まだ独立前のアメリカで、イギリスとフランスが植民地をめぐり戦争をしている。どちらの軍隊も、それぞれ別の部族の先住民インディアンを味方につけていた。小説はイギリス側のある少佐に視点を置き、彼が司令官の娘を護送することになるところから物語が動き出す。モヒカン族とは、その少佐の道案内をするインディアンのことだった。
 となるとこの小説が、モヒカン族最後の生き残りである誇り高い父子とイギリス人少佐との交流を描き、敵インディアン部族と戦う一大活劇の様相を呈するとしても、それはまったくの予想通りであって、途中で読むのをやめてもいいくらいのものである。
(司令官の娘は、何もそんな物騒な時期に移動しなくてもいいだろうと思われるが、もちろん敵インディアンにさらわれてしまう。大ピンチだ!)

 しかし何事も読んでみないとわからない。というのは、この小説、少佐や司令官をはじめとするイギリス人とインディアンとのあいだに、妙な登場人物が挟まれるのである。その名はホークアイ。白人の猟師でありながら、自然の中に暮らすこの男が、全篇を通してイギリス人とインディアンの仲立ちをする。生まれからしてインディアンではなく、かといって、白人の側に立つことも拒む。どっちつかずの中途半端なホークアイなしには、この小説では、イギリス人とモヒカン族は接することができない。そのせいで両者の関係は隔靴掻痒の感を生み、端的に言って、邪魔である。

 ものの本によると「アメリカ最初の大作家」とも称される作者のジェイムズ・フェニモア・クーパーは、20年近くかけて、このホークアイが登場する長篇を5つも書いているという。大地主の家に生まれ、封建的な土地私有にこだわったらしいクーパーがインディアンを描くには、クッションとしてホークアイが必要だったのは間違いない。
 ほかの4作は読んでいないが、『モヒカン族の最後』では、クーパーはホークアイを仲介役にして距離を置くことにより、「滅びゆくインディアンの悲壮なうつくしさ」みたいものを朗々と歌いあげている。そういう態度に「いい気なもんだ」と言うのはたやすいが、もしいま『モヒカン族の最後』を読む意義があるとしたら、それはこのクッションなしではインディアンを作品の中に呼び込めなかった作家の、不器用なりに正直な手つきを見ることができるから、ということのほかにない。これもまた間違いのないところである。感想はせいぜいそれくらいで、映画を見る気にはならなかった。

 あの中学校のわたしたちの学年では、高校に進学したあと、さらにわたしとSの2人だけが大学に進んで東京に出ていった。Sは最も熱狂的に「モヒカン」を繰り返した男だった。だれよりも大きい体で、しかし機敏に飛び出してくる彼のシルエットにはだれもが本気で身の危険を感じた。
 上京して最初の夏休み、ちょうど帰省した時期が重なって、Sとわたしは実家の2階で午後いっぱい話をした。何をそんなに喋ったかはおぼえていない。お互いの大学のこと、中学の思い出話、そんなところだっただろう。話はいくらでも続けられそうだったが、それが今のところ、彼と顔を合わせた最後になっている。
 卒業後もぐずぐずと東京に居残ったわたしとは違って、Sはすぐに地元に戻り、ただし実家からはずいぶん離れた地域の中学校で、教師をしているらしいと聞いた。だれに確かめたわけでもないが、きっとソフトテニス部――もう軟式テニスとは言わないのだ――の顧問になっているのだと思う。
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