2016/10/21

マグナス・ミルズ『オリエント急行戦線異状なし』(1999)

オリエント急行戦線異状なし
風間賢二訳、DHC(2003)

《「どうして、いやと言えなかったのかな?」》p174

 舞台はイギリスの湖畔にあるキャンプ場。シーズンが過ぎ、主人公の青年「ぼく」以外の客がいなくなった翌日の朝から小説は始まる。

「ぼく」はもう1週間だけ滞在し、それから念願だったはるか東洋への旅に出発する計画を立てているが、そこにキャンプ場の地主であるパーカー氏が近づいてくる。もし暇なら、ゲートにペンキを塗ってくれないか。いいですよ、お安い御用です。お礼に滞在費をタダにしてやろう。わあ、いいんですか、ありがとうございます。
 そんなことをしているうちに、“雑用”は増えていく。流されてしまったボートを探すのを手伝ってくれんか。見つけたボートは岸にあげてもらいたい。この棧橋の板は、張りかえる必要があるな。
《人に用件を切り出すパーカー氏の口調は、とても丁重なので効果覿面だ。そのとき不意に悟った。ぼくは、いつのまにやら彼の召使になっていることを。》p64

 疑いなく地元の有力者で、押しが強く、怒ると怖そうなパーカー氏の言うことを聞いているうちに、東洋への出発は延びていく。
 このままではよくないような気がする。たぶんよくない。きっとよくないと思う。でも恩知らずにはなりたくないし、地元の人間だけが集まるパブでは自分のためにお気に入りのビールを入れてくれたし、宿題を教えてあげたパーカー氏の娘はとっても感謝してくれている。もうちょっといいかな、もうちょっとだけなら……

 ここに出てくるだれにも明確な悪意はないし、田舎の人たちが束になったときにたまさか生まれる狂気とも無縁だし、「ぼく」がどこかでとくだん決定的なミスを犯したわけでもない。
 それなのに気がつくと、“まだ引き返せる地点”は後方に去り、あとから“まだ引き返せたかもしれなかった地点”としてふり返り見られるだけである。
 それは「ここ」と指させる一点ではないし、何より、うしろを向いて反省するような暇がいまではなくなっている。だって、親切心から引き受けた仕事なのに進みが遅いのをなじられるし、小さな失敗でパブの連中から仲間はずれにされてしまったのを何とかしたいし、パーカー氏の娘はこちらが宿題を代わりにやってあげるのを当然だと思うようになっているのだから。忙しい、忙しい。それにもっと大がかりな“仕事”が、なんだか楽しげな音を立て、やり甲斐を積んで近づいてくるじゃないか。

 描かれる出来事はどれも地味で、展開はひたすらになだらかだ。そしていつのまにか、身動きできなくなっている。大きな事件はひとつだけ起こるが、その書きぶりはじつに何気なく、その何気なさに目をみはった。
 こんなにも地味で、こんなにもなだらかな成り行きであっても、まったく何気ない日常の出来事として、人は人に磨り減らされし、損なわれうる。
 この小説は、そういう事態を描いたブラックなコメディともいえるだろうが、そういうことはたしかに起こるしいまも起きているのだから、迫真のドキュメントでもある。生ぬるい地獄は、どれほど生ぬるくても、本人が気付いていなくても、地獄にちがいない。
 頼まれたら断れない人、期待されると嫌とは言えない人、「1回だけなら…」で意に染まない要求を呑んでしまう人、拒否するより引き受けたほうがストレスにならないと計算してしまう人、勝手に生じる義務感を他人に利用されている人、報酬を達成感ですり替えられていることに気付いてはいる人、結果的にこれでよかったんだとあとから正当化を繰り返している人、「次からはもっと強く出よう」と思うだけの人……
 これは、そのような人びとを連帯に導く、アンチヒーローの受難を描いた革命の書なのかもしれない。そんな革命は決して起こらないので、せめてこの小説を読み、ぞわぞわ肝を冷やす寒気と、うつくしい湖の底に引きずり込まれていく苦しさだけでも、ぜひ共有してほしい。

 文庫化されて、永続的に手に入る状態になっているべき1冊である。こんなのは他人事だと呆れられるならしあわせだと思う。心から、そう思う。



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 作者マグナス・ミルズの名前をはじめて知ったのは、「モンキービジネス」vol.7(2009)に掲載された短篇「聞けみ使いたちの」だった(柴田元幸訳)。そのときの感想がここにあった。
 まったく地味な話でありながら、でも、裏ではぜんぜん別のことが起きているのかもしれないとなぜか感じさせる(そしてそう仮定しても表向きの地味さはちっとも減らない)おかしな作風は、その後、「MONKEY」vol.5(2015)に載った「からっぽの家」でもやっぱり共通していた(これも柴田訳)。
 これで長篇だったらどうなっているのだろうと気になった『オリエント急行戦線異状なし』は、これら短篇とは趣がちがっていて、ますますへんな作家である。地味に追いかけたい。

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