2004/04/12

その125 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

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 ネファスティスのアパートを逃げ出したエディパは、気がつくと、ベイブリッジに向かって車を走らせていた。
 自動車の排気ガスに包まれたラッシュアワーにごく微妙な角度で西日が射し、橋から見渡されるサン・フランシスコには、この時間だけ靄が発生している。そして、そんな汗と喧噪のまっただなかで瞑想にふける運転席のエディパのあたまにも、トライステロのイメージが靄のように立ちこめてくる。
 ネファスティスは、熱力学のエントロピーと情報のエントロピーというふたつの別種の概念を、〈マックスウェルの悪魔〉を仲立ちにしてひとつにつなげることができた。エディパのほうでは、これまでに見つけた数かずの手掛かりを結びつけられそうなものといえばただ、〈トライステロ〉の一語があるだけだ。手掛かり、すなわち〈トライステロ〉の隠喩がいくつあったかは、もはや神様にしかわからない。
Now here was Oedipa, faced with a metaphor of God knew how many parts; more than two, anyway. With coincidences blossoming these days wherever she looked, she had nothing but a sound, a word, Trystero, to hold them together. (p87)

《さてエディパのほうは、というのに、何とも多数の部分から成り立つ〈神〉の隠喩に直面している。少なくとも、二つ以上の部分から成り立っている。このごろはどちらを向いても偶然ばかりが花ざかり、その偶然を結びつけるものは、ただ一つの音、一つの単語、〈トライステロ〉。》p134/pp151-2

 下線を引いた隠喩の部分に関し、おそらくこの志村訳はちょっと変で、ここの英語が《〈神〉の隠喩》ということにはならないと思う。エディパは隠喩に直面している、その隠喩は「いくつあるかは神が知っているparts」で構成されている → 「隠喩を構成する部品がどれだけの数になるかは誰も知らない」、ということだろう。
 ただ、Lot 49 に〈神〉という語が頻出するのは解注で触れられている事実でもあり、それが慣用句だったりした場合、原文で確かに使われているGodの文字が翻訳では消えてしまう場合が多いので、ここで強引にでも〈神〉という日本語を出しておくつもりがあったのかもしれない。そんな気がする。

 ところで、2011年刊の佐藤良明訳では、上の引用部分はこうなっている。
《自分の場合はどうだろう。自分の前にあらわれたメタファーは、一体いくつのパーツから成っているのか。二つ以上あるのは確か。このごろはどっちを向いても「偶然の一致」が花開くという状況なのに、それらを結わえておくものが、一つの音[サウンド]しかない。一つの単語、「トリステロ」という言葉があるだけだ。》p136

 Godの語うんぬんよりもはるかにおどろくのはOedipaを《自分》ととる処理で、これによって“地の文-エディパ”の距離は、志村訳の場合に較べ、ぐっと近くなった。近いどころか、エディパの独白になっている(!)。
 これは「やりすぎ」「訳しすぎ」の域ではないのか。しかし、そんなことをする(しないといけない)理由について、訳者ご本人が丁寧に説明しているのをブログで読むことができる。非常に、非常に面白いので、ぜひリンク先を読まれたい。

 脱SVO:心情の論理を追う翻訳術 -sgtsugar.com.blog
 http://sgtsugar.seesaa.net/article/219990891.html

 とくに最後の「まとめ」に注目である。
《英語小説の翻訳においては、脱SVOの処理がポイントの一つとなる。それと絡んで、間接話法/直接話法、三人称/一人称の差異構造を,日本語でいかに(部分的に)崩していくかが、物語を日本語フォーマットに移し替えるさいには重要だ。英文の構造を保ったままでは、三人称の語り手と主人公との視点とが、変に干渉しあってしまうことがある。》

 この読書ノートでたびたび気にしてきたのは、まさに「三人称の語り手と主人公との視点」、地の文と主人公とのあいだの距離だった。
 それについてこれまで書いてきたなかからいくつか拾えば、第2章の冒頭→その17、第3章の冒頭→その41、これ見よがしの語り→その51、登場人物と読者と小説の知識のズレ→その79、第4章の冒頭→その89、そして第5章の冒頭→その112などなどがあった。

 この小説の展開を伝える地の文は――というか、この小説の展開そのものである地の文は――ときおりエディパに寄り添い、彼女の内面を実況するかと思えば、とくに各章の冒頭で顕著だったようにたびたびエディパを遠くに突き放し、ずっと先のページで何が起こるかを(エディパではなく)読者に向かって思わせぶりに予告しさえする。
 そのような、自由だったり唐突だったりする距離の動かしかた、つまり不自然さを自在に操る手つきでもって、主人公との位相のちがいを果敢に作り出しながら小説を進めてきたのがLot 49 の地の文である。
 どんな小説にでもあるだろう地の文のそのようなふるまいが、ことこのLot 49 においてはいくらか過剰であるように見える。だから、地の文とエディパ、両者の距離が開いたり縮んだりするたびにこちらも逐一反応することが、つまり、ズレるたびに何度でもつまずくのを繰り返すことが、この小説の書かれ方の秘密にわずかでも近づく方策になるかもしれない。
 そんなふうに期待して、つまずきのたびにおぼえる困惑とおどろきを書きつけたメモが重なって、この貧しいノートになっている。そんなつもりだった。

 そのような手掛かりとして考えていたズレは――もっといえば、この小説のキモじゃないかと予感していた“地の文-エディパ”の距離は、(すべてではないのかもしれないが)なによりも英語という言語の特性のために発生しているのではないか。だとすれば、そういったズレは、英語をよりまともな日本語に翻訳する過程で(場合によっては)埋められてしかるべきではないか。
 佐藤ブログに書かれてあるのは、上記ふたつのカッコ内の譲歩を吹き飛ばしてあまりある、クリティカルな指摘である。早い話が、あれらのズレの数かずを、「言語の移し換えに際し、消せるものなら消せればよかったが、どうしても消しきれず残ってしまったもの」でしかないと思い切ってしまえば、小説を読み取っていくうえで、気にしなくてよいことになる。
 だったら、いったいここまで自分は何を読んできたのか。これから何を読んでいけばいいのか――

 これまでと同じように読んでいくのがいいと思う。
 そもそも、これまで何をどう読んできたのだったか。かっこよくいえば、「英語」と「日本語」のあいだを読んでいた。より正確には、「ろくに読めない英語」と、「日本語とはちがった英語の論理を組み込んで紡がれた日本語」の、両方を読んでいた。原書と邦訳のどちらかだけを読む場合に較べれば、その両者のあいだで、英語のほうに3ミリくらいは近づいたところを読んでいた、ということになるかと思う。
 そうやって読んでいる最中に、訳書とペーパーバックのページの真ん中にゆらゆらと隆起しているのがかすかに感知されていたズレとは、じつは地の文とエディパのあいだに開いていた段差ではなく、英語と日本語のあいだの不整合として、たまさかそこに浮かんでいるように見えた蜃気楼にすぎなかったのかもしれない。
 そのような、「ある」のか「ない」のかわからない曖昧なものに翻弄されながら、小説をなるべく丁寧に読みたいとは言いながら、むしろみずから翻弄されにいくような読みかたは、馴染み深い日常と馴染みのない非日常のはざまに幻視される、「ある」のか「ない」のか定かでない〈トライステロ〉の手掛かりらしきものにつまずいて、探求するとは言いながら、なかば自分の意志で翻弄されにいく主人公エディパの姿に似ている。そんな気がする。そんなことはない気もする。読み終えるころには答えは出るかもしれない。

 だからこのノートはこれまでのまま、原文+志村訳の組み合わせをもとに続けていこうと思う。けれども、気になった部分は躊躇なく、佐藤訳と見比べるつもりでいる。
 節操がない。だが、「なるべく丁寧に読む」とは、できる限り節操なく読むことであるはずだ。いまはそう思っているし、これからもそう思うことにした。
 ちなみに、佐藤良明はこうも書いている。
《なおこれはあくまで安全策だ。原文の長くてポップな実験文体を創造的に移し替えるには、また別のチャレンジが必要とされるだろう。》

…続き

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