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2015/08/16

リチャード・パワーズ『オルフェオ』(2014)

オルフェオ
木原善彦訳、新潮社(2015)

音楽は聴き手を感動させるというところが重要なんじゃないんですか?
 マティソンはほほ笑んだ。いいや。音楽は聴き手の目を覚まさせるところが重要だ。既成の習慣を全て打ち破るのさ。p105

 2014年に出たのにもう日本語で読めるこの小説、まず、こんなにも読みやすいことに何度でも・いくらでもおどろくべきじゃないかと思う。
「べき」というのも変だけど、扱われるのが決してとっつきやすくはないだろう題材であるだけに、それが時間と体力さえ許せばノンストップで最後まで一気に進みたいくらい読みやすい小説になっているのは、それだけでも(だけなものか)たいへんなことだと思うのだ。

 2011年。ほとんど無名に近い音楽家として生きてきたピーター・エルズは、70歳を迎えたいまでは作曲をやめ、おもてむき音楽に関わるのは老人相手の講義だけにして、あとは1人暮らしの自宅にこもり、細菌のDNAをいじっている。「そこから」ある出来事をきっかけに、あれよあれよと巻き込まれてしまった肝の冷える状況の中で彼の選ぶ行動と、物心ついてから70歳にいたる「それまで」の人生を構成するエピソードが交互に語られていく。

「これからどうなるの?」と「どうしてこうなった?」という、読み手を引っぱるエンジンがふたつあり、文章はどこまでも読みやすいからすいすい×2倍の速度で進む――たしかにそれくらい、こちらの気持は駆り立てられる――のだけど、いっぽう、エルズの人生の要所要所で音楽が顔を出すシーンにさしかかると、この小説の文章は筋を追うのをいったんやめて、さまざまな語彙と構文を駆使し、言葉で、ただ言葉だけでもって、こちらに音楽を聞かせようとする。比喩の花火が上がり、文章は数行、ときには数ページにわたってページの上を踊る。
 小説から流れ出す音楽のほとんどに無知で、それらの音楽を脳内で再生できないわたしでも、文章は読めてしまう。そのような場面のたびに「わわわ」と立ち止まるし、それにこれは無知の効用だと思うけど、実在の音楽(の文章化)も、この小説オリジナルの音楽(文章での創作)も、同じように受け取れてしまう。当たり前のようだがこれはおかしな事態だから、無知には無知のメリットがある。
 ――というのは負け惜しみで、この小説に出てくる実在の曲なら本を手に取る以前にどれもしっかり聞いたことがありおぼえているよ、という読者のほうがもっと楽しめるだろうことは想像にかたくない。
 その場合、パワーズの文章を通じて実在の曲を「思い出す」のと、パワーズの文章を通じて架空の曲を「思い描く」のとで、前者には小説の外にモデルがあり後者にはない以上、ふつうに考えたら両者は高い壁できっぱり隔てられているにちがいなく、そこをパワーズの文章芸はどれくらい乗り越えているのだろう。いくら気になっても、わたしにはそれこそ空想するしかないので、そこを実感しながら読める人がうらやましい。

 そしてそれを言うならなによりも、この小説を書いている当のパワーズにとって、自分が聞いた実在の曲を文章にするのと、自分が想像した架空の曲を文章にするのとでは、どのようなちがいがあったのかをぜひ本人に訊いてみたい。
 これもふつうに考えれば、前者は「再現」で後者は「創作」だから歴然とちがいがありそうなわけだけど、再現といっても音楽を文章で「再現」するのはもう「創作」と同じじゃないのか、それとも何かちがいがあるのか、だとか、実在の曲は聞きながら書いたのか、それとも脳内で再生しながら書いたのか、きっと両方だとは思うけど、脳内再生の場合は架空の(パワーズの脳内にしかない)曲を文章で「創作」するのと何かちがいがあるのか、あるとしたらどんなちがいなのか、だとか、作者の口から詳しく教えてほしいことは無数に浮かぶ。
(でも、どこまでも聡明で、どこまでもいい人であるパワーズは、何を訊かれても「うん、それはどちらも翻訳なんだよ」とか、簡にして深すぎる返事をしてくれそうな気もする)
 
 とりわけすばらしかったのは、まだ小説の前半、エルズの講義を入口にしてメシアン「時の終わりのための四重奏曲」が作曲され初演にいたる過程を追ったエピソードで、ゲルリッツ第八A捕虜収容所などという特異な場所で構想され、収容所じゅうの捕虜とドイツ軍将校という特異な聴衆を相手に痩せこけた四人組が演奏をはじめる部分を読んだら、もう当の曲を聞かずにはいられなくなるし、それでじっさい聞いてからは、その場にいた多くの捕虜の気持を想像して不思議かつ神妙な気持にもなれた。

 そして『オルフェオ』でピーター・エルズの人生を語るのは、そういった音楽を描くのと同じ、変幻自在の言葉であり文章である。
 家族や友人や恋人、彼のまわりにいた人びとだったり、彼ら彼女らとの大小さまざまな出来事、接近と離反をもたらした心の移ろいだったり、実現した奇跡だったり実現しなかった夢だったり、そういったもろもろが、形のあるものもないものも、きわめて細かく流麗な――読みやすい――文章にされていく。
 パワーズの文章はとても能弁で、書けないものはないのじゃないかと思わされるくらい、何でも巧みに文章にしてしまう。そんな高スペックの文章を駆使して人間を描くと、描かれる人間もスペックが高くなってしまうという枷がこの人の作品にはあったように思う。力を注いで、つまり言葉を尽くして描かれる人物であればあるほど、その人は頭の回転が速くなり、(少なくとも)一芸に秀で、おこなう会話は機知にあふれていく。
 言いがかりのようだがこれは個人的にずっと気にかかっており、パワーズの文章の特性と相反するために彼の小説に出てこられないタイプの人間というのが確実にいる。いくら言葉の網の目を細かくしても、細かくしたためにとらえられなくなる、ぼんやりした人間が。
 とくに『舞踏会へ向かう三人の農夫』(1985)や『囚人のジレンマ』(1988)といった、初期の「小説の入り組んだ構成が実のところどうなっているのか、整理しきれないまま完成とし、整理しきれていないところに作品の生命が脈打っている」ような傑作よりもあと、小説がもっと長くなっても、始めから終わりまでなめらかで破綻なく進むツルツルした作りになった『われらが歌う時』(2003)や『エコー・メイカー』(2006)では、優秀なパワーズ的人間(ダメな人であっても、そのダメさ具合において優秀になってしまう人たち)のうしろに、どんな点でも優秀ではない人間の不在をかえって意識させられてしまうところが、独特の臭みとしてかすかに鼻についていたように思う。でも今回の『オルフェオ』を読んでいる最中、その気がかりはほとんど感じなかった。
 その理由のひとつめは、書かれていないことはともかく、書かれてあることがこれほど巧みに達成されているのなら、それで十分以上のありがたさじゃないかと思うほど巧みに書かれているから、というもので、もうひとつは、主人公が持てる能力を注いで作りあげた楽曲、たとえば、ピアノとクラリネットとテルミンの演奏に合わせてソプラノがカフカのアフォリズムから取った文章を歌う《難解で冒険的な連作歌曲》(p61)なんかが描写され、「聞いてみたい!」という気持をあおられながら、同時に「それ、むちゃくちゃ退屈じゃないか?」とツッコミの余地があることも、この小説の好ましさに大いに寄与しているように思った。

 ごく単純な意味でなら、そして表面的な意味でなら、主人公のピーター・エルズは、成功しなかった。単純で表面的というのは、もっとも現実的な意味では、ということである。現実は大切だ。大切な現実で成功しなかった人物を描くとき、パワーズの文章は、とてもやさしい。そのことも、この作品の発見だった。
《皆が彼の前に整列する。友人、妻、娘。彼を愛した人々。彼がいいことをすると信じた人々。穏やかな四月の霧の中で彼は思う。僕が望んだのはただ、君たちみんなを喜ばせるささやかな音を作るというだけのことだった、と。何て小さな思考が人生の全体を満たしたのか。何て小さな思考が。p279

 出版社と翻訳家のかたがたにおかれましては、パワーズの80年代作品と2000年代の作品のあいだに残っている『黄金虫変奏曲(1991)と『さまよえる魂作戦(1993)も、どうか、なるべく早く読ませてください。


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追記(2015/08/17):

 作中で主人公ピーター・エルズが作ったことになっている「ピアノとクラリネットとテルミンの演奏に合わせてソプラノがカフカのアフォリズムから取った文章を歌う《難解で冒険的な連作歌曲》」について、ツイッターで @uncycloNana_shi さんから「クルタークの『カフカ断章』ではないですか。」という指摘をいただきました。
 わたしはクルタークの名前も知らなかったので、ググってみてはじめてそんな作品があることを知りました。
 さらに、こちらのブログの記事で、カフカのどんなアフォリズムが使われているかもわかりました(「節操のないクラシック音楽嗜好」2011年5月6日(金))
 これを見るかぎり、エルズの作品として『オルフェオ』の61ページに引用されているものとはかぶっていないものの、パワーズがたまたまクルタークと似た作品を発想したというよりも、この「カフカ断章」をもとに主人公の作品をしつらえた、と考えるほうがはるかに「ありそう」だと思います。
 パワーズに訊いてみたいことが、また増えてしまった。@uncycloNana_shiさんと、ブログ「節操のないクラシック音楽嗜好」のかたに感謝します。

「カフカ断章」はまだ聞いてないですけど、本当にこんな作品を作ったクルタークもすごいし、それを言うなら、こんな作品を作らせたカフカもすごい(だれだ、「それ、むちゃくちゃ退屈じゃないか?」なんて書いたのは)。そういえば、高橋悠治『カフカノート』(みすず書房、2011)なんて作品もありました。

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 …ここまで書いて、今度は、「『オルフェオ』内でエルズの作品に使われているカフカのアフォリズムは、本当にカフカのものなのか?」という疑いが浮かびました。おそるおそる、吉田仙太郎編訳のカフカ『夢・アフォリズム・詩』(平凡社ライブラリー、1996)で探してみると、これは199ページに同じものがあるのが確認できました。
『夢・アフォリズム・詩』は大好きな本なのに、アフォリズムを記憶しておくのは、アフォリズムの内容と同じくらい、むずかしい。
《われわれの芸術は、真実の光によって〈目を眩まされている〉状態である――つまり、あとずさりするしかめっ面の上にさす光が真実なのだ、他にはない。》p175

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