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ジョン・ディリンジャーの場合
トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[下] (Thomas Pynchon Complete Collection)


■ トマス・ピンチョン『重力の虹』(1973)の新潮社・佐藤良明訳(2014)を読んでいると、何が書いてあるのかよくわからないのに「おぉ…」と感じ入るためしばらく立ち止まってしまう部分が次から次に何十と出てくる。そういう部分はこの大長篇を読み返すほどに、それもゆっくり読むほどにゆらゆらと増殖するのはまちがいないが、そのうち第四部の一場面を以下に引用したい。
 場所は下巻の後半でかなり終わりに近く、何がどうしてどうなってここにいたったのかを説明しようとすると、この記事の全文章量より多い文字数が必要になるので省略する。

・ある男(ピッグ・ボーディーン)が、ほかの男(タイローン・スロースロップ)に、大切な布切れを渡そうとしている。
・その布切れは、伝説の犯罪者ジョン・ディリンジャーがFBIに撃ち殺されたとき、彼の体から流れ出た血を吸い取った布切れであるとピッグ・ボーディーンは言っている。おれはその場にいたんだ、と。

 状況は以上。太字は本文にある通りで、下線はわたしが足しました(以下同じ)。
《「[…] 何か別のこと――おれにとってすごく大事なことがあったんだろうと思うんだ・・・おい、話が通じているか・・・これを、おまえにもらってほしいワケを話しているんだぞ、わかったか? これはディリンジャーの血だ。おれが手を伸ばしたときはまだ温かかった。〈かれら〉は、ディリンジャーをただのゴロツキだと思わせようとしたが――やつら、ほんと頭が狂ってるぜ――それでもディリンジャーはやることをやった。〈かれら〉を襲った。彼らのクソ銀行をだ。便所の中でカネまみれになってるところを襲ったんだ。そのとき、やつが何を考えていたかはどうでもいい――やったことの妨げになりさえしなきゃいいことだ。おれたちが今なぜここでこうやってるかも、どうでもいいことだ、え、ロッキー? そうさ、おれたちに必要なのは、正しい理由なんかじゃない。グレースがあるってこと、そこが重要なんだ。物事をスムーズに進める、目に見える優美さがな。勇気とか、頭の良さも悪いもんじゃないが、しかしグレースがなきゃ、何にもならない。おまえは――頼むぜ、聞こえてるのかよ? これ、これは効き目があるぞ。ほんとだ。おれの役には立ってくれた。だが、おれはダンボの段階は卒業したから、こいつがなくとも飛べる。だがロッキー、おまえは要るだろ、ほら、こいつが・・・」》下巻p662

「グレース」には脚註がついている。
《人間の自力では獲得できない、神や自然の恵みを必要とする「優美さ」。》

 いちおう持ってるだけは持っていた原書から、この部分を探して並べてみる。するとたしかに、さっきの佐藤訳の調子で小説の声が聞こえる気までしてくるから、翻訳小説を読むのは(錯覚も込みで)楽しいことだと思う。
"[…] But there was something else. something I must've needed...if you can hear me...that's why I'm giving this to you. O.K.? That's Dillinger's blood there. Still warm when I got to it. They wouldn't want you thinking he was anything but a 'common criminal'-- but Their head's so far up Their ass-- he still did what he did. He went out socked Them right in the toilet privacy of Their banks. Who cares what he was thinking about, long as it didn't get in the way? A-and it doesn't even matter why we're doing this, either. Rockey? Yeah, what we need isn't right reasons, but just that grace. The physical grace to keep it working. Courage, brains, sure, O.K., but without that grace? forget it. Do you-- please, are you listening? This thing here works. Really does. It worked for me, but I'm out of the Dumbo stage now, I can fly without it. But you. Rocky. You...." (p741)

 そこでこんどは、新潮社版の刊行をもって“旧訳”となった国書刊行会版(越川芳明・植野達郎・佐伯泰樹・幡山秀明訳、1993)も出してきて、同じくここにあたる部分を引いてみる。
[…] 何か別のものがたしかにあった、何か別のものが。おれにはそいつが必要だったにちげえねえんだ……聞こえてんのか……だからいまこうやって話をしてる。わかるか? ディリンジャーの血だ。おれが駈けつけたときはまだあったかかった。〈かれら〉はどうしてもディリンジャーを“月並みな犯罪者”と思わせておきたかった――しかし〈かれら〉の頭はケツよりえらく高いとこにあってな――それでもディリンジャーは何もしなかったわけじゃない。やつらは〈かれら〉が自分とこの銀行のトイレで孤独にふけってる真っ最中に殴りかかっていったのだ。やつが何を考えていようと知ったことか、邪魔になりさえしなけりゃな。このおれたちがなぜこんなことしてるのか、それだって問題じゃねえ。え、ロッキー? そうともよ、おれたちにゃまっとうな理由なんかいらねえ、神様のお恵みさえありゃあいい。神様のくれた立派なカラダのことだが、それでうまくいく。勇気でもアタマでも別段悪かないんだが、何てったってカラダが資本だからな。あきらめろ。おまえは――頼むから真剣に聞いてくれ。お恵みはいいぞ。たいしたもんだ。おれの役に立ってくれた。ところがおれはダンボの段階は卒業したから、こいつがなくとも飛べる。だがおまえの場合はだ、ロッキー。おまえは……》II 巻pp456-7

 同じところの訳だということはわかるが、それなのに、かなりちがう。あるいは、かなりちがうが、それでも、同じところの訳だということはわかる。でもここでは、そのちがいについては触れない(触れられるほど英語が読めないから)。
 国書版の訳者代表・越川芳明による「『重力の虹』あとがき」と、新潮版の「解説」は、それぞれの最後のページで、21年という時間をあいだに挟み、お互いに呼びかけと応答を取り交わしている。
《訳者をふくめ、われわれは終わりのない「旅」に出たばかりだ。われわれは二十一世紀へとつづく日本の『重力の虹』の研究、ピンチョンの研究の踏み石になるのを厭わない。》国書版 II巻p508

《この新訳は、旧訳を「踏み石」にしている。データ化した全文を上書きする形で第一稿を作成させていただいた(これは謝辞である)。この訳文もいつかまた踏み石となる。》新潮版 下巻p729

 これは横で見ているただのミーハーな一読者も居ずまいを正したくなる真摯なやりとりだが、当たり前ながら両者は「あとがき」「解説」だけでなく、原書で760ページあるこの長い長い小説のすべての場面、すべてのページ、すべての文章、すべての単語を舞台にして、原文をあいだに置いたコールとレスポンスを演じている。見ようと思えばそう見える。単純計算で、そのやりとりはここに引いたディリンジャーの部分を2200倍した分量になる。
 わたしは今回の新訳『重力の虹』を読み始めてから読み終わるまで50日ほどかかったが、そんなわずかな日数なんて本当にゼロに等しいという気にもなってくる。これ以上、どうやって居ずまいを正せばいいかわからないし、姿勢をちゃんとしすぎると小説が読みにくい。猫背に戻ってもう少し書く。

 あてにならない説明を少しだけするなら、『重力の虹』は、第三部まででも相当にクセの強いキャラクター、無茶苦茶に“量の多い”過去を詰め込まれた老若男女が無数に入り乱れ(いろんな意味で入り乱れ)、ページまたは作中時間が進むのとともに彼ら彼女ら、そしてそういった人間たちを取り囲む組織やそれに類するものの関係はますますこんがらがっていったり、最初に思っていたよりはるかにこんがらがっていたのがあとから徐々に判明していったりするのだけれども、第四部に入ると、今度はそれまでの雑多かつ複雑なストーリー(同時に何本が並走しているのか、数えるたびに答えの変わる長短も方向もさまざまなストーリーの束)は、雑多かつ複雑なままざっくり刈り込まれ、ストーリーではない、イメージの連鎖で場面と場面がつながっていく構成に切り替わる。
 線(こんがらがった線)でさえない、飛び石のような点と点。というか、絵と絵のつながり。そんなものが連続するうち、ある文章のかたまりからある映像が喚起される、次の文章のかたまりから次の映像が喚起される、というふうに繰り返し呼び起こされては広がっていく映像の波がうねりを生じ、「読む」というより、それに「飲まれて運ばれる」具合になって、これはちょっとほかで読んだ(体感した)ことがない。
 そしてそのままラストになだれ込む――などと書いても、こんな説明がネタバレとして機能するはずはないので無問題である。そして・そのまま・ラストになだれ込み・ます。

 だから、先に引用した場面を読むうえでの足がかりは、ピッグ・ボーディーンとスロースロップのふたりはどこにいるのかとか、どういう状態で会話を交わしているのかとか、そういったことではすでになくなっている。だって、あのしばらく前にスロースロップは「バラバラ」になり、「ひとつの観念にすら」つなぎとめられなくなった、と書いてあるのである。「そうか、バラバラになったのか」と受けとめる以外の読みかたがあったら教えてほしい。

 それでここでは、脇役どころかキャラクターとしては登場せず、ほんのちょっと言及されるだけのディリンジャーのイメージも、主人公格たるスロースロップや、その友人ボーディーンと同じくらい、膨らむ可能性を持っていると言っていい。
 ジョン・ディリンジャー。“伝説の犯罪者”とさっき書いたし、そういう者として名前を聞いたことはあったように思うものの、正直なところ、よく知らなかった。アル・カポネとビリー・ザ・キッドの中間くらい? でも何が中間? というのが精いっぱいつけた見当だった。そんなのはやはりゼロである。
 とりいそぎウィキペディアで調べてみる現代の悪癖を発揮すると、目立つエピソードは以下のようなものだった。
(さすがに英ウィキペディアのほうがずっと充実しているが、充実しすぎて読めない分量になっている)

1933-34年にかけて、大胆な銀行強盗で名を馳せる
・英雄・義賊的な存在として人気を博す(?)
・収監されても、偽物の銃で看守をおどし見事に脱獄
・FBIから目の敵にされ、「社会の敵(パブリック・エネミー)ナンバー1」呼ばわり
・女連れで行った夜の映画館から出てきたところを撃たれて死亡
(その女がFBIに内通しており、待ち伏せされていた。女は目印として赤いドレスを着ていた)
《アメリカでは、「赤いドレスの女」("the lady in red")とは「自分を破滅へ導く運命の女」を意味する用語として使われている。》

 待ち伏せの舞台になった映画館がシカゴの“バイオグラフ劇場”というところで、その夜、ディリンジャーと女が見たのはクラーク・ゲーブル主演の「マンハッタン・メロドラマ」(邦題「男の世界」)だった――というのは、『重力の虹』でも、もっと前のほうで1ページぶんのイメージの材料に使われていた(下巻p227)。
 わたしは「クラーク・ゲーブル」と聞いてもはっきり顔が浮かばないくらい映画に疎いが、そんな人間が読んでいても『重力の虹』は「映画ばっかりだ、いろんな意味で!」と言いたくなるくらい、あっちこっちで映画そのものや映画俳優、監督、その他もろもろにぶつかる小説である。
 とりわけ、映画館で最期を迎えるディリンジャーと、この長大なうえにも長大な小説の終わりかたをあわせて考えると、かの銀行強盗は、何百何千とある材料のひとつでありながら、そのひとつだけにはとどまらないような気もしてくる。同時に、それは気のせいであるような気もしてくる。ともあれ『重力の虹』下巻を広げたままTSUTAYAに行って、ディリンジャーを扱った映画をいくつか見てみることにした。


■ 「犯罪王デリンジャー」(マックス・ノセック監督、1945)

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ローレンス・ティアニー

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 有名な強盗団として世間を騒がせているディリンジャー一味の事件を伝えるニュース映像が劇場のスクリーンで流れたあとに、ディリンジャーの父親が登壇して客に向かい謝罪するという意外なシーンから、時間が巻き戻されて始まる。
 小心なチンピラだった青年ディリンジャーは、つまらない罪で入った刑務所で実力者グループの仲間に加えてもらい、先に釈放されると、彼らの脱獄の手引きをする。チームを組んで銀行強盗をスタート、犯行を繰り返していくうち次第に頭角を現し、あたらしいリーダーとしてのし上がっていく。
 なんというか、悪党である。非情。ディリンジャー役のローレンス・ティアニーという俳優はけっこう甘い顔立ちだが、チンピラ時代にかかされた恥を大物になってからも忘れていなかったことが強調される。
 大衆から支持されている様子は皆無。冒頭のニュース映像を見る観客はみな眉をひそめていた。人気があったとか、義賊のように受け取られていたとは、この映画からはつかめないように描かれている。あとは箇条書き。

・脱獄の際に使う偽物の銃は、木を削って作ったもの。
・悪党キャリアのはじめのころから一緒にいた女性とずっと仲が続き、最後の最後でその女性に裏切られるというシンプルなつくり。
・また、追うFBIの側に特定の人物を配置していないこともあって、映画館で待ち伏せされるラストのくだりはかなりあっさりしている。
・それでも、問題の女性について、「赤が似合う」とか「赤い服の女だ」とか言っている(映画じたいは白黒)。どれだけシンプルにしても“赤いドレス”だけは外さないという判断がある。

 それにしたって、ディリンジャーの殺されたのが1934年の7月で、この映画の公開が1945年の3月というのには、ちょっと感じ入った。その差、わずか11年。個人の人生にとっては短くない時間だが、巷間を騒がせた有名人について、社会的な記憶が風化するほどの長さではぜんぜんないだろう。よく知られた犯罪者を扱った、なまなましい実録ドラマのように見られることを目指して――冒頭で謝る父親――この映画は作られ、じじつそのようなものとして見られたのではないか。
 そう考えると、映画の中に「いかにも今は大不況の時代ですよ」とわかりやすく示す場面がなかった(たぶんなかったと思う)のも、わかるような気がする。“デリンジャーの物語”は、自動的に観客の頭と体から“当時の状況”を引き出したはずだから。あるいは、あのような派手な銀行荒らしが可能であったことじたいが大不況という状況だったのかも。よくわからないまま書いている。
 とはいえ、たったの11年といっても、それは1934-45年という11年だった。映画の公開時、すでにじゅうぶん大人だった観客は、45年という“現在”にあって、まだ遠くに消え去ってはいないディリンジャーと11年前の“過去”を、どんなつながりのうちに思い出したのだろう。そこはこちらの想像の追いつきようもない。
 そして、こんな映画がアメリカ本国で見られているのと同じころ、戦火に包まれるドイツではフォン・ブラウン博士がペーネミュンデのロケット基地から撤退を迫られ、その最中に左腕を骨折し、スロースロップは前年にナチスから解放されたモナコのカジノ〈ヘルマン・ゲーリング〉でカッチェ・ボルヘジアス嬢と夢うつつの軟禁状態のなか、昼はサー・スティーヴン・ドズスン=トラックたちのロケット集中講義を受けていたはずである。


■ 「デリンジャー」(ジョン・ミリアス監督、1973)

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 とにかく発砲する。やたらと撃つ。ギャングの側も警察・FBIの側も、拳銃やショットガンやマシンガンをばんばん撃ちまくる。「念のため」を含めても3発撃てば十分だろうところで「当然のように」20発は撃つ勢いだった。一味の潜んでいる家をFBIが外から蜂の巣にすべく一斉に銃撃、というのは“作戦”と呼べるのだろうか(意外と家は持ちこたえた)。
 発砲だけでなく、車で人を即物的にはねるなど、骨に響く暴力が詰まっている。ギャングと官憲に共通する行動手段が、映画の表現手段として増幅されているというか。
 こちらのディリンジャーはすぐに激昂し、そうなるとだれにも止められないような雰囲気があって、実際、だれにも止められない。女にも若者にも容赦なし。主演のウォーレン・オーツはときどき、本物のディリンジャーに顔が似さえする(いまの写真は白黒だったが映画はカラーです)。
 彼を追ったFBIの捜査官、メルヴィン・パーヴィスの語りが映画の何ヶ所かに入って、途切れ途切れながら、いちおう「私の追いかけたディリンジャーの一味と、その最期」という外枠があることになっている。
 そのパーヴィスは、フーヴァー長官もおそれないし、彼自身がギャングみたいな強面だった。強面というか、極めて顔が濃い(演じるのはベン・ジョンソン)。太い葉巻をトレードマークに、執念深くディリンジャーを追いつめていく。この写真で左側の男なのをおぼえておいてほしい。

 激しい銃撃シーンと、切れると手のつけられないディリンジャーが相まって、映画じたいが怒りっぽい。だから、ディリンジャーが実の家族のもとへ戻るシーンがあったりしても、やはり大衆のヒーローだったり、義賊として広く支持されているような受け取られかたは、映画の中にはなかったと思う(帰郷のシーンは逆に、こんな悪人のディリンジャーでも家族にとっては…みたいな描きかたになって印象深い)。
・1ヶ所、銀行強盗をして去って行く一味の車にガッツポーズのような身ぶりをする市民を見たような気がするが忘れた。脱獄する際に、ほかの囚人やら運転手やらをいっぱつで魅了するオーラがあることにはなっている。
・登場人物が、たびたび「まあ、こんなご時世だ(なので犯罪も仕方ない)」と言う。
・脱獄の際の偽物の銃は、石膏のような白い何かを靴墨で黒く塗った物。いきなり作っていて、いきなり使用される。
・ディリンジャーが気に入った女性、ビリー・フリシェット(気に入ったので拉致する)は、フランス人と先住民族の血が入っていることになっており、これは事実のようだ。
・そのビリーが退場したあと、FBIのパーヴィスと連絡しながら赤いドレスを着てディリンジャーと映画館へ行く(そして彼を死へみちびく)ことになる女性がはじめて姿をあらわすシーンなんかもケレン味たっぷりで、史実を知っている視聴者にむけて「問題の女性はこんなふうに料理してみたよ」とアピールしている感じ。よい。

 ディリンジャーが殺されて映画は終わるが、そのあと短いテロップで、メルヴィン・パーヴィスやビリー・フリシェットなどのその後が語られる。
 とくにビリーは、本篇では“ここが最後の登場”とは思えない中途半端なシーンを最後に出てこなくなる(そのブツ切り感がまたよい)ので気になっていたのだけど、なんでもディリンジャーの死後、ディリンジャーの家族といっしょに「犯罪は報われない(Crime Does Not Pay)」という芝居をして全米を回ったのだという。マジかと思うが、ググったらこんなサイトのこんな写真が出てきた。どんな感想を持ったらいいのかむずかしい。

 この映画の公開は1973年の7月だそうで、同じ年の2月28日に『重力の虹』が刊行されている参考。映画のラスト近く、待ち伏せしていたFBIにバイオグラフ劇場の外で撃たれ倒れたディリンジャーを囲んで野次馬が集まってくる――FBIの見守るなかで彼らは「警察を!」と叫ぶ――場面は、小説でピッグ・ボーディーンが回想する情景にとても似ている。7年がかりで書きあげた長篇を世に出したあとのピンチョンもこの映画をきっと見ただろうが(見ていないはずがない)、やはり自作のワンシーンを思い出したんじゃないだろうか、と想像してみたくなる。
《「[…] あのとき、バイオグラフ劇場の通りのすぐ先にいて、銃声から何から聞いたんだ。フン、おれはまだ海軍の新兵で、この国の自由ってのはこういうことかいと思って、走っていったね。シカゴの人間の半分が集まった。酒場から、トイレから、横町からみんな出てきた。女たちは速く走るのにスカートをたくし上げてさ。(…)映画館から走ってきて腿に冷えた汗の玉っころをつけているお嬢ちゃんも、みんないるんだぜ。で、何してるかっていやぁ、服を脱いだり、小切手帳をやぶり取ったり、他人の新聞をちぎり取ったりだ。何のためかって、ジョン・ディリンジャーの血がほしいんだ。少しでも吸い取ろうって、みんな熱狂してた。捜査官も止めようとはしねえ。通りに流れた血の上によ、みーんな折りかさなって集[たか]ってるっていうのに、その鼻面から煙草の煙をくゆらせてつっ立ってる。だけど、おれもただ一緒になって動いてただけで頭は働いてなかったんだが、それがすべてじゃなかった。」》下巻pp661-2

 (ここの続きが、冒頭で引用した部分になる。必要なのはグレース。)


■ 「パブリック・エネミーズ」(マイケル・マン監督、2009)

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 1973年「デリンジャー」のザラつき具合に比べると、とてもきれいな印象。
 車が走ったり・飛行機が飛んだり・銃が撃たれたりするのを見せるためだけに、車が走ったり・飛行機が飛んだり・銃が撃たれたりするシーンが随所に出てくるので、なるほど、そういった考証や再現にこだわりと自信があるんだろうなあと思わされる。ありがたみのわからない視聴者で申し訳ない気持にもなった。
(なんというか、そういう考証をしっかりすればするほどいや増す“作りもの感”というものもあると思う。だって映画がウソなのはわかっているのだから。むろん作り手はそんなこと百も承知でそのような見せ場を用意してるのだろうけど)
 ディリンジャーを演じるのがジョニー・デップであるためか、70年代ではないためか、恋愛の要素が強くなっており、恋人であるビリー・フリシェットの存在がとても大きい。とくに後半は、はんぶんが彼女の映画。演じている美人はマリオン・コティヤールというフランス人であるらしく(泥縄で調べながら書いている)、このキャスティングには先述の理由がうかがえる。
 対するFBIのメルヴィン・パーヴィスはクリスチャン・ベイルで、73年の「デリンジャー」と同じ人物を演じているようにはまず見えない。もういちど貼ると、「デリンジャー」ではこの写真の左側だったのが、今作ではこうですからね。
 これだけ見た目がちがえば、中身も立場も相当にちがうものになる。こちらのパーヴィスは、我の強いフーヴァーと、いまひとつ経験の浅い部下たちとのあいだで孤軍奮闘する、理想と実力を兼ね備えたヒーローだった。
 タイトルがどうして「パブリック・エネミー」ではなく「エネミー」なのかと思ったが、このパーヴィスを前景に置いてうしろにディリンジャーやほかのFBIや刑事を並べると、「なるほど…エネミー…」と見えてくる。もちろんパーヴィスはパーヴィスで、正義のヒーローであるからには正義のヒーロー特有の冷酷さを発揮するわけだけれども。

 いちばん面白かったのは、赤いドレスのこと。
 最後にディリンジャーを映画館に連れ出すことで彼を死にいたらしめる女性は赤いドレスを着ていない。そこには史実の改変があるわけだが、この映画では、赤いドレスはビリーがディリンジャーとはじめて出遭うシーンで着ているのである。
 この変更は、かなり攻めていると思う。今回、この流れで調べながら見ていなければ気付かなかった改変であることも含めて、もういちど「いちばん面白かった」と書いておきたい。
 そんな意味と重みを与えられているだけに、この映画のビリーは、のちにディリンジャーの家族といっしょに「犯罪は報われない(Crime Does Not Pay)」なんて芝居で全米を回ったりはぜったいにしない雰囲気である。得るものがあれば失うものがある。
 それにしても、指名手配されている有名なギャングが、高級レストランで食事をしてるというのはなんだか不思議な光景だ。このへんが大衆に支持されていたことのあらわれなのかと一瞬思ったが、ほかの大物たちもふつうに会食していたりするので、「ここはたんにこわい街なんだ」と思い直した。こわい。
(そういうシーンは1973年の「デリンジャー」にもあった。仲間が減り追い詰められてからはもっと身を潜めるようになるのだが、その点、1945年の「犯罪王デリンジャー」だと、捜査を警戒するようになったディリンジャーはアパートの一室に7ヶ月近く引きこもり、一歩も外に出ない。どちらのほうが事実に近かったのだろう)


■ とりあえずこの3本を続けて見て、感想をメモしてきた。
 それより前に今回、この文章の最初に書いたのは、新潮社版の新訳『重力の虹』と国書刊行会版の旧訳『重力の虹』が、原書Gravity's Rainbow をあいだに挟み、21年をまたいだ呼びかけと応答を繰り返しているように見えるということだった。
 それは、ふたつの翻訳が原文をそれぞれどのように変奏するか・どんな日本語で演じるかに際して両者のあいだに生じるズレのために、両方を並べて読むと、原文だけでは持ちえない奥行きまでこの小説が備えているように見えてくる、創造的と言ってもよさそうな声と声との呼び交わしであると思う。ふたつ以上の翻訳がある作品について、これはとてもよく言われることだが、とてもよく言われるのは本当のことだからだなと、このような実例に触れると納得できる。
(旧訳に対して新訳はこんなふうにちがう、という時間の順にのっとったものだけでなく、新訳が出たことで旧訳の読みかたがこう変わる、とさかのぼって及ぼされる影響もあるから、関係は完全に双方向だ)

 原文と複数の翻訳についてのこの伝でいけば、わたしの見た3本の映画も、実在したジョン・ディリンジャーや、彼の恋人ビリー・フリシェットや、敵役メルヴィン・パーヴィスといった人物たちをあいだに挟み、それぞれの映画がそれぞれの俳優を用いて、これらの人間たちをそれぞれのちがったやりかたで描いて見せた、変奏と応答の記録のように映る。

 わたしには実在のディリンジャーやビリーについて、上でリンクを貼ったウィキペディアを越える知識がないので、彼ら彼女らの人物像はそれらの情報と映画によって作られた以上のものではなく、その像は映画に応じて別のものに姿を変える。
 だからどの像も虚像であるわけだけど、翻訳小説の一読者としてのわたしが、ピンチョンの英語がよく読めないためにほとんどすべて翻訳に頼って『重力の虹』を読んでいるからといって、翻訳本を原書の不完全な写しとして受け取るのではなく(とんでもない!)、もうひとつの原書、原書のたしかな別バージョンとして受け取っているのと同じように考えるなら、それぞれの映画にあらわれたそれぞれの人物も、ひとつひとつが実在した人間の、たしかな別バージョンであると思う。それは虚像というのとはちがう。
 ひとつしかなければ固定されるイメージも、複数あれば相互に干渉し、重ね合わせようとしてもズレるから、ゆらゆらと動き出す。そして、『重力の虹』が繰り返し描こうとするタガの外れた事態のなかには、映画がイメージを作り出し、それが現実を作っていくことや、ひとつの現実に対して、それとは両立しない別バージョンの現実を平気で並べていくことまで含まれていたのを、わたしは思い出した。
 ぜんぜん見当外れのことを連想しているような気もするし、それならそれでもっといろいろ妄想したいが、TSUTAYAの返却期限が来てしまった。この3本を返しに行ったところで思いついて、ディリンジャーがバイオグラフ劇場で見たという「男の世界」(原題はManhattan Melodrama )を探してみたら、それもあった。DVDが新作扱いで、新作料金を取られたのは意外だった。


■ 「男の世界(マンハッタン・メロドラマ)」(ヴァン・ダイク監督、1934)

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(2011/06/27)
クラーク・ゲーブル、ウィリアム・パウエル 他

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 幼いころに同じ船の火災で親を亡くしたブラッキーとウェイドは親友として成長したが、30年後、生きる世界は大きく別になっている。ブラッキーはギャンブルを仕切る暗黒街の大物、ウェイドは清廉潔白な検事。
 ブラッキーと連れ添っていた愛人エリーナは、裏の世界で生きるのが嫌になり、でもブラッキーには改心する気が毛ほどもないので別れ、ウェイドの妻になる。ところが、政治の世界を志すウェイドの選挙でブラッキーとの関係をネタに脅迫をほのめかす部下の裏切りがあり、心を痛めたエリーナはついブラッキーに相談、ブラッキーは速攻でその男を射殺し、捕まっても動機には固く口を閉ざす。ウェイドは断腸の思いでブラッキーに死刑を宣告する…
 1934年の7月22日夜、バイオグラフ劇場の外で最期を迎えたジョン・ディリンジャーは、直前に見ていたこの映画のブラッキーことクラーク・ゲーブルの映像に不思議な慈愛(strange mercy)を感じていた――と始まる『重力の虹』第三部、20番めのセクションについている脚註は、この映画のあらすじについてはあまり正しくない。
《W・S・ヴァン=ダイク監督『マンハッタン・メロドラマ』(一九三四)でウィリアム・パウエルが演じるのが、対立候補の射殺をブラッキー(クラーク・ゲーブル)に依頼して、州知事に当選したジム・ウェイド役。》下巻p227

 ウェイドはブラッキーに射殺を依頼していないし、射殺されるのも対立候補ではない。ウェイドが親友の犯行の動機を知るのは、死刑の判決を下したあとになる(そして絶望的に悩む)。
 面白いのは、小説のこの部分でディリンジャーのエピソードは、映画を見た彼がクラーク・ゲーブルの影響を受けて人格に変容を起こしていた → 映画は見る者を変えてしまう、と続く話の入口として働いていることで、なぜ面白いかというと、まるでそれにつられて映画のあらすじも変わってしまったように見えるからだ。
 そしてディリンジャーの場合と同じ人格の変化は、1934年のバイオグラフ劇場から遠く離れた1945年のペーネミュンデにいる別の登場人物にも起こる――と語りはスライドしていく。この小説を読んでいると、現実だと思われたことが映画だったと判明したり、映画として作られていたことが現実になったりすることも珍しくない。
 さらにスライドと言えば、ひとりの人間が映画を見て性格が変わる、と書いてある小説を、異なる日本語に移した2種類の翻訳であわせ読んだわたしが、それからディリンジャーの映画を3本見て、ひとりの人間が3人の俳優により異なった演じかたをされるためにバラバラになり、バラバラのイメージがバラバラのまま頭の中でまとまったりまた別れたりしながらふわふわ浮遊することや、それをまた小説で触れられるディリンジャーのイメージに重ねて読み直そうとする(当然、ズレる)――など、もとからこの『重力の虹』という小説に組み込まれてあったスライドのほかに勝手な思い込みと連想と勘違いによるいろんな種類のスライドまで加えながページをめくり、あっちやこっちに行ったり来たりを繰り返している。これはもう、作者のせいでも訳者たちのせいでもない。あるいは、作者と訳者たちのせいだけではない。

 わざわざそんなふうに考えるようにすると、ディリンジャーが1934年にバイオグラフ劇場で見た映画を、2014年の終わりにわたしが部屋のテレビで見ているというのも、なんだか複雑な事態であるように思えてくる。
「男の世界」を挟んで、80年前のディリンジャーといまのわたしが応答している、と言うにはさすがにディリンジャーからの呼びかけがない気がするが、そこでピンチョンとピッグ・ボーディーンにあいだに入ってもらい、この記事最初の引用部分を読んでいけば、わたしもディリンジャーを通して「男の世界」を見ることにより――ディリンジャーが「変わった」と『重力の虹』に書いてあるのと同じように――自覚のないまま「変わった」のかもしれず、ディリンジャーを扱った映画を見ることでもやっぱり自覚なく「変わった」のかもしれなくて、きっかけになった『重力の虹』を読んだことで何か変わったかと言えば、これは確実に、変わった。

 たしか15年くらい前と10年くらい前の2回、旧訳で『重力の虹』を読んだわたしが2014年に新訳を読むのも、旧訳と新訳を対話させているつもりでいた現在のわたしと15年前・10年前のわたしの対話かもしれないし、2ヶ月前に読み終えた新潮社版をいま読み返していても、同じ小説の同じ場面がすでにあちこち変わって見えている。そんなわけだから、これから先のいつか、今回の新潮社版よりさらなる新訳が出たとしたらもちろん、たとえ出なくても、小説は動くし変わる。そのことはもう、はっきりわかっている。
 いま、急に「そうか」と閃いたんだけど、わたしはこの『重力の虹』という小説をずっと読んでいくと思う。この気持もいつか変わるかもしれないとはいえ。
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