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2014/10/04

「大怪獣東京に現わる」(1998)、「モンスターズ/地球外生命体」(2010)


■ 「大怪獣東京に現わる」(1998)

大怪獣 東京に現わる [DVD]
宮坂武志監督


 怪獣が出てこない怪獣映画として、名前だけは聞いたことがあった。今回見てみたら、思っていたのとはだいぶちがった。
 何というかわたしは、こう、「怪獣が出てこない→派手ではない」だろうというところから、「坦々とした日常が積み重ねられて、そのむこうに(映らないけど、たしかに)怪獣がいることになっている」――みたいな静かな映画を予想というか、勝手に期待していたんだけど、なかなかそうはなっていなかった。
 舞台は福井県。ある朝、家庭の主婦(桃井かおり)がお菓子をつまみながらテレビのワイドショーを見ていると、東京湾から全高八十メートルの怪獣が上陸してきたというニュースが流れる。半信半疑ながら報道によれば被害は拡大していくようで、それでも、福井から東京は遠いからまだ他人事のようにテレビを見ているのが一日目。
 ここから二日目、三日目…と進んでいくのだが、登場人物が桃井かおりのほかに浪人生とか、高校教師とか生徒とか、自分史を脱稿間近な老人とか妊娠がわかったばかりの若いカップルとか、水族館の職員とかたまたま福井にライブに来た売れないバンドとか、あとそうだ、怪獣上陸をチャンスとみた新興宗教家とかいった、たくさんの人が出てくる。オール福井で。

 これだけ人が多いと映画はドタバタするしかなくて(日常が怪獣の出現でドタバタするのではなく、最初からドタバタしている)、そうなると「日常のむこうに怪獣」とは反対の方向をむいてしまう。
「怪獣が出てこない怪獣映画」の、“怪獣が出てこない”の部分をコメディで乗り切ろうとしたようなんだけど、その選択だとかえってハードルは上がるんだなあと、いま書いてみたらすごく当たり前のことを、見ながら思った。
 怪獣の進路は地図の上の矢印だけで示されるが、それをいいことにまったく地図の上でしかありえない、都合のいい動きかたをするのも残念で、舞台が福井であることが致命的に重要になる展開を後半では選んでるのだから、地理的な移動は真面目にやらないといけなかったのではないか(そうするとタイトルに「東京に現わる」を付けたかったのがそもそもの間違いということになる…)。
 予想(期待)と実物がちがったとき、責任の半分はこちら側にある。わたしも悪かった。なお、桃井かおり家の姑の行動だけはよかったと思う(忙しいときに墓参りに行く。避難に際して、豆を持っていきたがる)。


 台風だったり大雪だったりといった災害報道のリアルさを、「それがリアルなのは、それが現実に起こっていることだから」という事実とは別な方向から組み立てようとするフィクションがわたしは見たいと思う。



■ 「モンスターズ/地球外生命体」(2010)

モンスターズ / 地球外生命体 [DVD]
ギャレス・エドワーズ監督


 怪獣が(あんまり)出てこない怪獣映画を、あの「GODZILLA ゴジラ」(2014)の監督が前に作っていたんだよ、と教えてもらったので見てみた。
 これはよかった。とても面白い。
 地球外生命体のサンプルを積んできたNASAの探査機が帰り際にメキシコへ落ちてしまい、そこから繁殖した生物を閉じ込めるため一帯が封鎖された。季節によって移動をはじめる生物(怪獣)の群れをそのたびに軍隊が爆撃などして押しとどめる攻防がもう六年も続いている、と一息に説明して映画は始まる。なかなか強引。
 事情によりこの土地でたまたま一緒になったアメリカ人の男女が、いちばん危険な地域(メキシコの北半分)を陸路で抜け、国境および物理的にそびえ立つ壁を越えてアメリカに帰ろうとするのがあらすじ。
 始まりかたの強引さと裏腹に、メキシコの現地の人たちにとってはこの状況が日常、という描写に時間と画面の多くを費しているおかげで、この状況が怪獣によるものであってもなくても、このアメリカ人男は同じように功名心にはやり、同じように酔っぱらってアメリカ人女に絡み、アメリカ人女のほうも同じように困った笑顔でかわし続け、現地人もまた同じように旅費をぼろうとするんだろうな、とこちらに思わせる地続き感がある。
 ということは、つまり、「画面にはそんなに出てこないけど、背後には怪獣がいる」という設定を念入りに敷きつめたために、かえってその設定の必然性が薄くなっている(背後に怪獣がいてもいなくても人のふるまいは同じなんじゃないの、的な気配が漂う)わけだけど、この逆説こそめざしたものなのだろうから、この映画の場合は勲章なんじゃないかとわたしは思った。
 ただ、メキシコの日常じたいがわたしにとっては異世界なので、この映画の写し取るそれが「日常っぽい」と言っていいのか本当は留保がいるはずで、それはこの映画の舞台が近未来で現代ではないこととは関係なく残る留保だ。
 とくに、「これはほんとにメキシコなのか。アマゾンじゃないのか」みたいな川をボートでさかのぼるあたりは、怪獣映画というよりも、何か伝染病がアウトブレイクしている映画だったり、はたまた「地獄の黙示録」のミニチュアだったりに見えるようになっており、「あれ、怪獣映画は…?」とこちらがハラハラさせられる。
 ところが、「こんなにきれいに映している朝焼けは、怪獣映画であることにつながるのかな、つながらないのかな…」というわたしの心配が、「こうしているあいだにも何か得体の知れないものが近づいてきているのかな、そうではないのかな…」という登場人物の不安にうまく重なって、どう考えても確実に映画の緊張感を高めるのに寄与していたりするから何が幸いするのかよくわからない。

 そして、書いてしまうと、問題の怪獣は「あんまり出てこない」どころか、「巨大な蛸が直立して歩いてるようなやつ(脚は八本よりずっと多い)」だとわかる程度には映る場面もある。というか、やや映りすぎでさえある。
 いまにして思えばだけど、「“いる”ことになっている怪獣がなかなか出てこない→最後にちょっと出る」、というこの映画の引っぱりかたは、「“いる”ことになっている怪獣がなかなか、なかなか出てこない→満を持して、中盤から大々的に出る」、という「ゴジラ」の引っぱりかたの予行演習にも見えて、なるほどと思った。

 最初は軽く反目していた男女が危険な状況を命からがら切り抜けていく過程で、男のほうから「じつは」と打ち明ける話題はやっぱり「会えなくなってしまった実子」でないといけないのだろうか、という一抹の疑問を残しつつ、ショートカットのヒロインの前髪が顔にくっきりした影を落とすのをずっと見ていたかった。そういうところから、好きな映画でした。

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