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ヨーゼフ・K!(6人)
der_prozess

 2013年8月の終わりからの1ヶ月、「風立ちぬ」の高揚と「あまちゃん」の盛りあがりにどっぷり浸かりながら、ずっとカフカの『審判』を読んでいた。

 前に読んだもの、今回手に入れたもの、あわせて翻訳は6種類。これを続けて読んでみた。おそろしいことに大きい図書館へ行けばあと3、4種類は見つかるらしいが、このへんで自分を許してあげたい。まったく得がたい夏の終わりだった。
 こんなにも多くの種類の翻訳が出ている小説は、ほかにどれくらいあるだろう。シェイクスピアとか、『アリス』とかなら確実にもっとあるだろうし、メルヴィルの『白鯨』だって10種類は翻訳が出ているらしいが、『審判』のバージョンちがいも両手にあまるとしたら、ここはどういう文化国家なんでしょう。
 ともあれ、気がついたことを忘れないうちにメモしておく。でもまずは言い訳から。

・わたしはドイツ語が読めない。だから、訳のちがいをうんぬんするとしても、それは「ほかの訳と比べたときのちがい」でしかない。
・加えて、これだけ読んでいると頭のなかに“『審判』ってこういう小説”という前提ができてきて、目の前のあたらしい小説(それも『審判』だが)を読んでいても、その前提に沿って補完したり、削ったりしながら読むようになっている自分に「あ」と気付くことがたびたびあった。

「いや、でも、その“『審判』ってこういう小説”、という前提じたいが、どの訳をどういう順番で読んだかでちがってくるのでは?」と言いたくなるかたがいるかもしれない。わたしもはじめはそう思っていた。
 それなら、どうか3冊でいいから続けて『審判』を読んでみてほしい。たぶん、どれをどの順番で読んでも同じような前提ができあがるといまのわたしは想像する。だから、繰り返し読むことでかえって鈍くなっている面もずいぶんあると思う。
 ものを比べるなら2つがベスト。そんなことも知らなかった。

 こういう次第でたいして当てにならない雑感を、以下、刊行年の順に書く。
(なお、『審判』を含めたカフカ諸作品の翻訳リストとしては、2ちゃんのカフカスレ冒頭にテンプレとして貼り付けてあるものがたいへん便利だった)


■ 角川文庫(1953) 本野亨一訳(もとの訳は1940?)

審判 (角川文庫クラシックス)審判 (角川文庫クラシックス)
(1953/03/30)
フランツ・カフカ

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《「そんな法律はないでしょう。」とKは云った。「それだからますます君は困るというのだ。」「あなたがたの妄想ですよ。」とKは答え、見張りの考えのなかへ何とかして忍び込み、それを自分に有利な方向へ導くか、或いは相手に同化する気持でいたのだが、見張りは突っ放すように、「今にわかるだろう。」と云い、フランツが嘴[くちばし]を入れて、「おい、ヴィレム、あいつは、法律なんぞはない、自分は無罪だ、と云ってるんだぜ。」「お前の云うとおりだが、話して聞かせてもどうせ駄目だ。」ともう一方が云った。Kは返答する気持もなくなり、[…]p11

 フランツ・カフカの Der Prozess を、はじめて日本語にした仕事。このとき、原題は「訴訟」くらいの意味なのに重々しくも「審判」とタイトルを付けたため(受け売り)、以後の訳は2009年までみんなこれを引き継ぐことになる。

 読んでみると、非常にきびきびとした名調子で、じつに格好いい。眼光鋭く、鷲のような相貌の作家がペンを走らせている様子が目に浮かぶ。が、ほかの翻訳はどれもこれもこんなにきびきびとはしていないので、この名調子は、この訳者による名調子ではないかと思われる。あくまでほかの訳と読み比べての推測に過ぎないが、複数の文をつなげて一文にまとめているっぽいところもたくさん目につく。
 その訳者じしんの手になる巻末「解説」から、特に筆の乗っている部分を引いてみよう。創作するカフカの姿を、こうもあろうと想像している。
《仕事を始めようとする彼は、漠然たる恐怖に取り憑かれる。故郷を去らねばならぬ人のような気持だ。しかしそれは決して懐かしい故郷ではない、慣れて知っているという程度の故郷なのだ。仕事は、自分を、何処へ連れていく? 雑沓の大通りを引っ張られていく犬のような彼。だが、雑沓は彼の耳に入らず、彼を興奮させ夢中にさせることはない。雑沓を極めているにもかかわらず、変な一種の静けさだけが、耳に入る。気味がわるい、妙に胸騒ぎがし、同時にひどく彼は退屈である。何処へいくのだ? 何処へいくのだ? 何処へいくのでもない。二歩、三歩、あるくと、もう進めなくなる。疲れてよろよろとふたたび故郷へ戻らねばならぬ。灰色の、まるで愛情のない故郷へ。》p307

 何処へいくのだ? や、つい引用しすぎた。こういう人が訳しているからか、ある日理由も告げられずに逮捕され、具体的なことは何もつかめないまま状況はちゃくちゃくと不利になり、ちょうど1年経って処刑されるにいたる主人公のKは、(言動はかなり傲慢で自己中でセクハラ野郎なんだけど)まるで悲劇のヒーローであるかのように見えてくる。なんというか、格好いいカフカを読みたい人におすすめです。

・一応の結末のあとに、未完の断章(本編のどこに組み入れるつもりだったのか不明な断片)を5編、並べてくれている。「支店長代理との戦い」というのがわたしは好きです。



■ 新潮文庫(1971) 原田義人訳(もとの訳は1953?)

審判 (新潮文庫)審判 (新潮文庫)
(1971/07)
フランツ・カフカ

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《「そんな法律って知りませんね」と、Kは言った。
「それだからなお困るんだよ」と、監視人が言った。
「ただあなたがたの頭にだけある法律なんですよ」と、Kは言い、なんとかして監視人の考えていることのなかにはいりこみ、それを彼の都合のよいほうに向けるか、あるいはそれにもぐりこんで同化しようと思った。ところが監視人はただ突き放すように言うのだった。
「今にわかるようになるよ」
 フランツが嘴を入れ、
「おい、ウィレム、あいつは、法律を知らないって白状し、同時に、自分は無罪だって言い張っているぜ」
「まったくお前の言うとおりだが、あいつには全然わからせることはできやしないよ」と、もう一方の男が言った。
 Kはもう返事をしなかった。》pp12-3

 最初の角川文庫・本野亨一訳に比べると、改行が多くなっているのがこの短い引用でもわかる。これは訳者が読みやすくなるよう手を入れたためで、もとのカフカの原稿はきわめて改行が少ないらしい。
 女性の喋り言葉なんかはさすがにいくらか古くなってる気がするが、そういう“古めの翻訳小説”としてオーソドックスといってよいのではないかと思う。安心して読める。正確には、どこも安心できないこの小説を、安心して読める。

 それにしたって、これはどういう小説なんだろう。
 Kは逮捕されてからも表面的には以前とあまり変わらない生活を送ることができており、ある日、勤めている銀行からの帰りがけに物置部屋から声がするので何気なくドアを開けてみると、散らかった部屋のなか、自分を逮捕した男ふたり(フランツとウィレム)が半裸の笞刑吏から今にも笞を打たれそうになって哀れに泣き叫び許しを乞うている、という場面のコント感といったらない。なぜ、銀行で。
 珍妙なくせに身につまされるやりとりのあとドアを閉めて逃げ帰り、でも気にはなっているので翌日、24時間後におそるおそるもう一度ドアを開けると、Kのいなかったあいだだけ一時停止されていたみたいに笞打ちと哀願のドタバタが再開される――というくだりは何度読んでも笑ってしまう。
 ドアを開けたKのほうを、ハッと振り返るふたりと笞刑吏の姿が見えるようで、しかもふたりは声を揃えて「ああ、あんた!」と叫ぶ。ここの呼吸は神がかっていると思う。

・完成している章&ほとんど完成している章を、すじの通るよう配列したあとに未完の断章を並べているのは角川文庫と同じだが(というか底本が同じなんだろう)、こちらのほうが断章の量がほんのちょっとだけ多い。
★この新潮文庫・原田義人訳は2013年10月現在では絶版ながら、青空文庫でもって無料で読むことができる(それを用いたKindle版もある)。カフカにはつらい時代。
・新潮文庫では、この原田義人訳のあと、1993年に中野孝次訳というものも出ている(もとの訳は1981?)のがわかったが、そこまでは追っていなくて未読。



■ 岩波文庫(1966) 辻瑆訳(もとの訳は1960?)

審判 (岩波文庫)審判 (岩波文庫)
(1966/05/16)
カフカ

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《「そんな法律は知らないね」とKは言った。
 「知らないだけあんたの損さ」と監視人が言った。
 「そりゃあまたあなたがたの頭にだけある法律でしょうよ」とKは言い、なんとか監視人たちの考えていることのなかにそっとはいりこみ、その考えを自分に有利なようにしむけるか、逆にその考えに同化してみようとしてみた。しかし監視人はただ拒むようにこう言った。
 「そのうち目にものを見せてもらうさ」
 フランツがくちばしを入れて、
 「見ろよヴィレム、奴さんは法律を知らぬと白状しながら、同時に無罪だなんて言いはっているんだ」
 「おまえの言うとおりさ、でもこの男には、なんにもわからせてやることなんかできないよ」ともう一人のほうが言った。
 Kはもう返事をしなかった。》pp13-4

 はじめて読んだ『審判』がこれだったので、今回ほかの訳を読むのでも、思わず知らずこの岩波文庫版を基準にしているような気がする(個人的な事情)。ご覧の通り、これも改行を増やしている。
 訳文は、新潮文庫の原田義人訳に比べても、もう少し生硬。適度にぎこちなく、なんとも変なリズムで進む感じがあって、こういうのがカフカだとわたしは刷り込まれている(個人的な事情・2回め)。

 最初の審理の呼び出しで、Kが指定された住所に行ってみると建っているのは立派な裁判所ならぬ貧民街のアパートで、目当ての部屋を見つけるつもりが本当にあるのか疑わしくなるふざけた探しかたをするくせになぜかちゃんとホールに案内されてしまい、そこにぎゅうぎゅう詰めの男たちはたしかにKを待って集まっており、そんなところで空気を読まずに演説をぶとうとするけれども生活感丸出しの洗濯女に邪魔される――というまったくわけのわからない進みゆき、じつにほれぼれする。そのあたり(第2章)から引用。
《下のほうでは人々が、小声でではあったがさかんに話しあっていた。まえにはひどく対立した意見を持っているように見えた二つの党派が、まじりあってしまい、Kを指さす者がいるかと思えば、予審判事を指さす者もいた。部屋のなかの霧のようなもやがひどくじゃまくさかった。このもやが妨げになって、遠くのほうに立っている者を観察したくても、それがよくできなかった。特に回廊の客たちには、このもやがじゃまになったにちがいなく、情勢をくわしく知ろうと思えば、予審判事に臆病そうな横目をつかいながらでも、集会の参加者に小声で質問しないわけにはいかなかった。》p69、下線は引用者

 これはあくまで屋内の場面である。「もやが妨げになって、遠くのほうに立っている者を観察したくても、それがよくできなかった。」と書くのは簡単だが、そんなことがありえるのか考えると、この記述、現実よりもなんだか漫画やアニメみたいなことになっていないだろうか。もちろん、現実に近くないといけない理由などひとつもなく、書こうと思えばこんなふうにも書けてしまうのが面白いと思う。
 カフカの小説では、人はわりと簡単に視界を妨げられるとわたしは思っており、そう思うようになったきっかけが上の引用部分だった、たしか。ここは本野訳(角川文庫)や原田訳(新潮文庫)だと、
本野訳:
《塵埃が霧のように立ち籠めて全く耐え難く、すこし遠くのほうになると、演壇からは、詳しい様子がわからぬくらいである。》pp54-5

原田訳:
《室内の霧のような塵がひどく耐えがたく、遠くのほうに立っている連中をよくながめることを妨げた。》p64

 こうなっており、“塵やホコリが目に入るから、目を開けていられなくて遠くがよく見えない”という取りかたをすると、現実的なぶんだけつまらなくなってしまう。ここはやっぱり、“もやが人の顔を隠して見えなくしている”と考えたいという、これはわたしの希望である。訳としてどちらのほうが正しいのかはわからない

・巻末に収められた未完の断章・カフカが抹消した部分の量は、新潮文庫よりさらに多い。1行とか2行だけの断片まである。
★1冊だけ選ぶなら、これでいいと思う。新刊書店で買えるし。
・なお、訳者「辻瑆」は「つじ ひかる」と読む。



■ ちくま文庫(1991) 飯吉光夫訳(もとの訳は1977)

審判 (ちくま文庫)審判 (ちくま文庫)
(1991/03)
フランツ カフカ

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《「そんなしきたりは知りませんね」とKは言った。「お気の毒に」と監視人は答えた。Kは、「あんたの頭のなかだけに書かれてあるんじゃないですか」と言いながら、できればこの監視人たちの頭の中についてまわり、それをうまくあやつったり、相手の考えかたに自分からとけこんだりしたいものだ、と思った。ところが背の高いほうの監視人はそんなことにはいっこうにおかまいなく、「いまにわかるさ」と言ったきりだった。フランツが横から口を出して、「なあ、ヴィレム、この御仁は法律のことは何も知らないと言っておきながら、一方で、自分には何の罪もない、と言うんだからな。」「そのとおり。どうしてもわかっていただけないわけだ」ともう片方が言った。Kはなにも返事をしなかった。》pp13-4

 あのカフカ・セレクション』全3巻より前からちくま文庫にカフカが入っていたとは、今回探してみるまで知らなかった。
 これはとても読みやすい。で、読みやすいといっても「平易になっている」「意訳っぽい」というのではないと急いで付け足したい。
 説明しにくいけれども、原文を手に持って、ひねってひねって日本語にし、ページの上に置くという、そのような作業として翻訳を想像したときに、この飯吉光夫の訳はこれまでの訳に比べ、原文を手に持っている時間が長いような印象がある。
 もうまったくの印象でしかないので伝わってないと思うが、この訳だと、建物のつくりや人物の位置関係なんかを描写する部分がほかより格段にわかりやすい。岩波文庫とあわせて読みたい。これがいま絶版なのはもったいないと思う。
 たとえば、裁判所にコネがあるという画家のティトレリを紹介されたKが、その住居を訪ねにいくところ。粗末なアパートの階段を、あたりにいた子供たちにはやし立てられながら上っていく場面をこんなにきっちりした文章でまとめている訳はほかになかった。
《つきあたりがティトレリの部屋のドアだった。このドアはそのななめうえにある小さな明り取りの窓のために、階段のほかのところより明るく照らされていた。ニスの塗ってない板張りで、そのうえには朱の太書きで「ティトレリ」と書かれてあった。子どもたちをあとにしたがえたKがまだ階段の途中までしかさしかからないとき、にぎやかな足音におどろかされたのだろう、上のドアが少しあいて、寝巻き一枚の男が首を出した。大ぜいがあがってくるのを見て「うわっ」と言い、またドアの背後にかくれた。せむしの女の子は手をたたいて喜び、ほかの女の子たちもKをせきたてて、はやくのぼらせようとした。》pp173-4

 なお、無謀にも巻頭に「主要人物」表がついている。選んで引用する。
二人の男  突然闖入して来る。
  最初は裁判所のある建物で洗濯をしている。
学生  最初は裁判所内で女といちゃついている。
僧教誨師  「掟」の話をする。
二人の紳士  処刑に訪れる。》

 要るか、これ? 面白い。

 ここまでの角川文庫・新潮文庫・岩波文庫では、翻訳のもとになる底本はカフカの友人マックス・ブロートの編集になる“ブロート版”で、この飯吉光夫訳もそっちを使っていたはずだが、おそらくちくま文庫に入れるにあたり、ブロートの死後、研究者たちが生原稿を校訂して1990年に出した“手稿版”(または“批判版”)も参考にしたらしいことが巻末「解説」に書いてある。
 何にうなるかといえば、カフカの生原稿(章ごとに別になっている何冊ものノート)を仔細に検討したすえに、最初の章(Kが逮捕される)と最後の章(Kが処刑される)は同時期に続けて書かれているのを発見したという研究者たちの執念である。カフカは最初と最後を決めてから間を埋めるようにしてこの小説を完成させようとし、ついに未完のまま放棄した――と聞いたら、ミーハーなカフカ読者(わたしのことです)は「万里の長城システムか!」と叫ばざるをえません。

・そんな執念の“手稿版”(または“批判版”)は、“ブロート版”とは章の組み立てがちょっとだけちがう、ということまでこの翻訳は「解説」で紹介してくれているが、その変更は本編に反映させていない。やっぱり、むかしの訳に「解説」だけ足して文庫にしたのかな。
・そして、ほかの5つの訳すべてに付いている“未完の断章”群が、このちくま文庫版にはひとつも収録されていないのが惜しまれる。この人の訳で「支店長代理との戦い」が読んでみたかったよ。

「支店長代理との戦い」は、銀行でKと出世争いをしている支店長代理に向かってKが自説を主張するが、支店長代理は話を聞きながらKの机についている装飾をずっといじり続けており、Kはむきになって主張を続行、支店長代理もますます指に力を込めて装飾をいじるさまが細かく描写される――という、手に汗にぎる断片である。



■ 白水社(2001) 池内紀訳

審判 (カフカ小説全集)審判 (カフカ小説全集)
(2001/01)
フランツ カフカ

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《「そんな法律は初耳だ」
 と、Kが言った。
「なおさら悪い」
 と、監視人が言った。
「頭でこじつけた法律だろう」
 と、Kが言った。なんとかして監視人の考えに入りこみ、いいように仕向けるか、あるいは手がかりをつかみたかった。しかし、監視人は突き放すように言った。
「そのうち、わかる」
 フランツが割りこんできた。
「おい、ヴィレム、こいつときたら法律を知らないって認めてるくせに、それでいて無罪だって言い張っていやがる」
「そのとおり、わからせるのは厄介だ」
 と、もう一人が言った。Kは口をつぐんだ。》pp13-4

 読みやすさでいえばベストだろう。すらすら進み、とても読みやすい。で、それがどこまでカフカに忠実なのか、どこからが“意訳”とされるのかが、原文の読めない身には判断つかない。
 上に引用した部分でも、ほかの訳では「その考えに同化してみようとしてみた。」(辻訳)とか、「相手の考えかたに自分からとけこんだりしたいものだ、と思った。」(飯吉訳)となっているところが、この池内訳だと「手がかりをつかみたかった。」となっているように、おそらくはまわりくどいはずの文章が「えいやっ」とばかりに簡潔になっていたりするから、いいのかそれで、と思わなくもない。

・ちくま文庫のほうの感想にちょっと書いた、“ブロート版”ではない“手稿版”(または“批判版”)からの翻訳。なので、章の組み立てがこれまでのものとちがうが、がらっと変わるわけではない。
(Kの隣室に住むビュルストナー嬢の女ともだち、モンターク嬢の登場する章が本編ではなく“未完の章”のほうに移されているなど、小さなちがい)
・巻末解説で「万里の長城システム」に触れられていた。前に読んでいたはずなのにすっかり忘れていた。
★この訳は白水uブックスにも入っているが、まさかの在庫僅少。
・本野亨一訳(角川文庫)とはまた別の、簡明という意味で名調子。訳者による語り直しみたいな味があるので、2冊めに読むならこれも面白いと思う。
・ほかの訳には存在しない一文が足されていたりするのは、正直なところ、見つけるとうれしい



■ 光文社古典新訳文庫(2009) 丘沢静也訳

訴訟 (光文社古典新訳文庫)訴訟 (光文社古典新訳文庫)
(2009/10/08)
フランツ カフカ

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《「そんな法なんて、知るもんか」と、Kは言った。「だったらなおさら、まずいじゃないか」と、監視人が言った。「そんなの、君たちの頭のなかにしか存在しない法だろ」と、Kは言った。なんとかして監視人の考えのなかに忍びこみ、その考えを自分に有利な方向に転換させようと思った。あるいは、自分をその考えのなかに住まわせようと思った。だが監視人は、拒絶するようにこう言っただけだった。「そのうち肌で感じるようになる」。フランツが割り込んできた。「おい、ヴィレム、こいつはさ、法なんて知らない、って言っておきながら、自分は無罪だと主張してるぜ」。「まったくな。こいつには、なんにもわからせることができないぞ」と、ヴィレムが言った。Kは答えるのをやめた。》pp17-8

 いまのところ最新で、タイトルもついに『審判』から『訴訟』に変更。
 訳者の「解説」と「あとがき」が面白い。底本として使ったのは、“ブロート版”の次の“手稿版”(または“批判版”)よりも、さらにあたらしい“史的批判版”というものらしい。専門家はたいへんだ。
 もっとも、“手稿版”(または“批判版”)と比べた“史的批判版”の特徴はカフカの元原稿も写真のまま収める・章ごとの分冊にして、順番はつけず箱に入れて刊行ということだそうで、そんなの、1冊の文庫本には反映させようがないのだった。テクストの進化は、カフカのノートへと戻っていく流れ。専門家は本当にたいへんだ。

 それで翻訳なのだが、とても平易なのでおどろく。
 訳者は「あとがき」で“意訳”を厳にいましめ、白水社・池内紀訳の一部分を引用までして「こういうのではない、犬のように忠実な翻訳を自分はめざしたよ」といった旨のことを述べておられる。
 とすると、訳者は「あえて平易な言葉にする」よう試みたのではなく、ひたすら原文に忠実に訳した成果としてこの翻訳を提出したことになるはずだが、おそれ多くも「これでいいんでしょうか」と言いたくなるところがいろいろある。
 というのは、言葉が平易なだけでなく、文章構造じたいがほかより平易になっている箇所があちこちにあるからで、「カフカは原文では陰鬱でも重苦しくもなく、もっと平易だ」とはよく聞く話だけれども、それはこのような平易さなのかなあと、かえって考えさせられる。
 とくに登場人物の会話(発言)が、だれもかれもみんな舌足らずで、それをもって「いま、息をしている言葉」になったと考えておられるのだとしたら、そういうことではないんじゃないでしょうか、と小声で申し上げたい。
 ほかの訳と並べるとちがいが際立つのでやってみよう。冒頭、Kが自分の部屋でふたりの男に逮捕・軟禁されているところに「監督がやって来たぞ」と声をかけられ、飛び出した直後。
本野訳:
《「気でも違ったのか?」と呶鳴りつけ、「下着のままで出るつもりか? 君も、ついでにわれわれも、叩きのめされてしまうぞ。」「いちいちうるさく云わないでくれ給え!」と云っているうちに衣裳棚のところまで押し戻されていたが、「寝込みを襲われては、礼装しているわけにもゆかない。」「言いわけは後で聞こう。」と二人は云い、[…]p14

丘沢訳
《「なにを考えてるんだ?」と、ふたりは叫んだ。「シャツのまま監督に会うつもりか? 鞭で打たれるぞ。われわれも巻き添えだ!」。「いいじゃないか、くそっ」と、Kは叫んだ。もう洋服ダンスのところにまで押し戻されていた。「寝ているところを襲われたんだから、ドレスアップなんかしているわけないだろう」。「つべこべ言うな」と、ふたりの監視員が言った。》pp21-2

 これくらいならたいしてちがいは見えないかもしれないが、「ドレスアップ」のようなカタカナを多用するのもこの訳の特徴。
 その日の夜、Kが隣室の女性(ビュルストナー嬢)の帰りを待って、ちょっと話ができませんかと声をかけるところ。
原田訳:
《「今ですの?」と、ビュルストナー嬢はたずねた。「今じゃなくちゃいけませんの? 少し変じゃありません?」
「九時からお待ちしていたんです」
「でも、私は芝居に行っていましたの。あなたがお待ちだなんて少しも存じませんでしたわ」
「お話ししようということの動機になっているのは、今日初めて起ったことなんです」
「それじゃ、倒れるほど疲れてはいますけれど、それ以外にはどうしてもお断わりする理由もありませんから、ほんの少しだけ私の部屋に来ていただきましょう。こんなところでは絶対にお話もできませんし、みなさんをお起ししてしまうでしょう。そうなったらほかの人たちのためというより、私たちのため不愉快なことになりますわ。私の部屋の明りをつけますから、それまでここでお待ちになってちょうだい。それからここの明りを消してくださいね」》pp36-7

丘沢訳
《「いまじゃなきゃ駄目? ちょっと変じゃないかしら?」。「9時からずっと待ってたんですよ」。「あら、あたし、芝居を見てたのよ。待たれてるなんて知らなかったし」。「お話ししたいのは、きょう起きたことなんです」。「そう、だったら、まあ、いいわ。でもね、あたし、疲れていて倒れちゃいそう。じゃ、2、3分、部屋にどうぞ。ここじゃ話もできないわ。みんなを起こしちゃうし、そんなことになると、あたしたちのほうが不愉快な思いをするでしょ。待ってて、部屋の明かり、つけるから。ここの明かり、消してちょうだい」。》pp44-5

 後者のほうがいい、というなら丘沢訳はベストになるだろう。口調の変更でビュルストナー嬢の性格も変わっている。口調はともかく、性格はどっちのほうが正しいのか気になって仕方がない。
 次は最後のほう、Kがうすら寒い雨の日にイタリア人と大聖堂(伽藍)で待ち合わせをするがすっぽかされ、なぜか教誨師から声をかけられるところ。
本野訳:
《この伽藍は、人間の耐え得る最大限の大きさであると思った。もとの場所に来ると、置いてあったアルバムに飛びつき、立ち止る間ももどかしそうに、摑み取り、歩き出す。もう礼拝席の区域もほとんど通りすぎてしまい、礼拝席と出口の間を占める空いた場所に近づいたとき、突如、僧侶の声を聞いた。力強い、鍛えられた声、この声を響かせるために建てた伽藍の隅々までそれは充満し、しかもそれが呼びかける対象は一般礼拝者ではない。疑う余地もなくただひとりの相手に、もはやKの退路は完全に絶たれ、「ヨーゼフ・K!」》p243

辻訳:
《それに聖堂の大きさも、人間にとって耐えうるもののちょうど限界にあるように思えた。まえにいた場所までくると、それ以上はもうそこにとどまらず、置いておいたアルバムを、まるでひったくるようにつかみ取った。もうほとんどベンチのあるところを離れて、ベンチと出口とのあいだの空いた場所にさしかかったが、そこではじめて僧の声がひびいてきた。修練をつんだ力強い声だった。その声を待ちかまえていた聖堂に、凜としてひびきわたる声だった! ただしかし、僧が呼びかけたのは教会員に対してではなかった。まぎれもなかった。どんな逃げ道もなかった。彼は、
 「ヨーゼフ・K!」と叫んだのだ。》p310

丘沢訳
《大聖堂の大きさも、人間が耐えられる限界ぎりぎりのように思えた。もとの席に着くとすぐ、そこに置いてあったアルバムをさっとつかみ、脇にかかえた。ベンチが並んでいる場所を後にして、ベンチと出口のあいだのスペースに近づこうとした瞬間、はじめて聖職者の声を聞いた。トレーニングされた力強い声だ。その声を受けいれる用意のある大聖堂に、なんとよく通る声だろう! 聖職者が呼びかけたのは、信者ではなかった。誰の耳にも明らかだった。逃れようがなかった。聖職者はこう呼んだのだ。「ヨーゼフ・K!」》pp313-4

 この場にはKと僧(聖職者)のふたりしかいないのが重要なのだから、「誰の耳にも明らかだった。」みたいな言葉遣いは避けたほうがよろしいのじゃないかと思うものの、「原文がそうなっている」と言われたら謝るしかない。

・テクストの変遷に興味のある人に「解説」と「あとがき」がおすすめ。
・これと同じように新刊書店で買える、岩波文庫あるいは角川文庫とあわせて読むのを推奨。



■ まとめ

・本野亨一訳(角川文庫):
 格好いい名調子。文字数までは数えてないが、ページ数は有意に少ない。

・原田義人訳(新潮文庫):
 オーソドックス。紙でなければただで読める。

・辻瑆訳(岩波文庫):
 イチ押し。

・飯吉光夫訳(ちくま文庫):
 未完の断章も足して復刊してくれたらこれも推したい。

・池内紀訳(白水社):
 すがすがしい名調子。のびのびしてる(が、在庫は僅少)。

・丘沢静也訳(光文社古典新訳文庫):
 疑心暗鬼を生むほどの平明さ。口調は10年後にどう映るか興味がある。


 以上、好き勝手に読んで、好き勝手に書いてきた。あとは何よりドイツ語でも読んでいて、翻訳に一家言ある人の意見(審判)も聞いてみたい。

 もう1ヶ所だけメモしておきたいところがあるので、次はそれについて書く。

…続き



2013/10/02 追記:
 最初にちょっと触れた2ちゃんのカフカスレ(フランツ・カフカ Franz Kafka 9)をずーっと見ていったら、それこそ、『審判』の翻訳8種(!)とドイツ語原文、英訳まで比較対照して検討しているかたがいらした。すごいすごい。
 おかげでわたしは、岩波文庫の辻瑆訳だと、大聖堂の章で訳文に2ヶ所の欠落があるのをはじめて知った(それぞれ2行ずつ、文が飛んでいる)。
 その抜けている箇所は、ほかの訳で読んでたしかに記憶に残っているところだった。辻訳のことを思い出すときは、ほかの訳の印象からそこを補って思い出していたらしい。
 わたしの目が節穴なのはもちろん、この文章の最初に書いた「何冊も読んでると、勝手に補完したり削ったりしながら読むようになる」とか「繰り返し読むとかえって鈍くなる」だとかいう事態を、こんなにもはっきり実演していたと確認までできた経験は稀有だと思う。
 節穴と記憶が手に手を取ってページをめくっていく読書。

 ところで、そのすごいかたの意見だと、「一番マシ」なのは中野孝次訳のほうの新潮文庫、とのことだった。それは持ってない!
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