2013/04/28

蓮實重彦「「かのように」のフィクション概念に関する批判的な考察――『ボヴァリー夫人』を例として――」(2013)

ボヴァリー夫人 (河出文庫)


フローベールの『ボヴァリー夫人』――フィクションのテクスト的現実について」に続く、蓮實重彦の『ボヴァリー夫人』論・講演編第二弾(ほかにもあったら教えていただけるとうれしいです)。今度は2012年12月15日に立教大学で行われたものだそうで、「文學界」の2013年4月号に掲載されています。

 小説『ボヴァリー夫人』(1856)の主な舞台になるのはヨンヴィル=ラベイという架空の村だが、描かれる出来事が起きたのは西暦何年から何年のあいだなのか、作中にはっきり書かれてはいない。しかし、ある駆け落ちの計画が失敗に終わるところで1ヶ所だけ「九月四日の月曜日」という日付プラス曜日の記述があって、これを現実のカレンダーやもろもろの歴史的事実と照らし合わせれば、それは「一八四三年」のことだとほぼ特定することができるらしい。しかし、
《テクストに書きつけられている「九月四日の月曜日」という表記は、作品の語りの論理からして、それを「一八四三年」と確定することを許すものでしょうか。その「編年史」的な再構築は、この長編小説の「テクスト的な現実」にふさわしいものなのでしょうか。》p214

 こんな指摘から蓮實重彦は語りはじめる。というのは、現実の1843年ならすでに開通していたはずの鉄道について、主人公とその不倫相手をはじめとするこの村の人たちみんながみんな、そんなものはまったく存在していないかのように行動しているという不自然があるからだ。そのくせ別の地域についてなら、ごく自然に鉄道の駅のことが言及される部分もあるのだから、この小説において鉄道は《あるようでなく、ないようである》。
《『ボヴァリー夫人』は、鉄道の現存と不在とを同時に肯定しているといえるのかもしれません。この点にかんして、フローベールは意図的に曖昧さを維持しています。》pp217-8

《こうしてみると、「九月四日の月曜日」という表記が、『ボヴァリー夫人』においてはある種の罠として機能していることが明らかになります。読むものを、その日付に対して厳密に振る舞えと誘うことなく、むしろ意義深い不明確さの中に置きざりにしているからです。ヨンヴィル=ラベイと呼ばれる時空にあっては、その住人たちの誰もが、あたかも鉄道の開通式など行われなかったかのように振る舞っており、物語もそれにふさわしく語られている。この「かのように」こそ、この長編小説がまとっている曖昧な現実性を開示するものなのです。》p220

 と、こうやって明快かつ思わせぶりに「かのように」というワードを示してから蓮實重彦は、いったん別の「かのように」へと話を変える。それは、多くのフィクション論での「フィクション」の扱い方に対する不満である。
 語源からいって「フィクション」には「装われたもの」と「虚構のもの」というふたつの意味があるが、フィクション論の中には、フィクションというものを「現実を装ったもの」だとか、さらには「ごっこ遊び」として捉えているものが多くある。こういった考え方はフィクションを、まるで現実であるかのように見えることをめざした現実じゃないもの、現実を真似した非現実、としてしか受け取っていない。
 そういった、現実に依存した「かのように」の構造でフィクションを考えている理論家を蓮實重彦はことごとく斥けて、フィクションが持っている(「装われたもの」ではない)「虚構のもの」としての「テクスト的な現実」を主張する。だからここでは、「かのように」は排撃されるものである。
《私は、ハンブルガーとともに、小説的なフィクションにおいては、言語によって作りだされる見せかけの生、あるいは現実の幻想は、それ自体が一つの現実にほかならないと認めるものです。それこそ、私がここでフィクションの「テクスト的な現実」と呼ぶものにほかなりません。》pp222-3

《ハンドルを握って運転するふりを装うとき、子供には、大人になったらできるだろうが、いまの自分には禁じられている自動車の運転という魅力的な行為をまねしているにすぎません。ところが、フィクションを書く作家は、それが自分には禁じられていながら、あるとき許されるかもしれない真の発話内行為を模倣しているのではないはずです。》p224

《それが現実の事態を語っているのか虚構の事態を語っているのかをテクストは明らかにしていないのですから、それを読むことを、「ごっこ遊び」に比較することはできません。あらゆるテクストは、それが現実の事態を語っているのか虚構の事態を語っているのかにはかかわりなく、一つの言語的な現実を構成するものだからです。そして、「『まるで……であるかのような』王国」は、この現実のとりうる無数の相貌の一つであるにすぎません。》p227

 ついでに言うと蓮實重彦は、小説の登場人物に感情移入したり共感したりしながら読むたぐいの読み方もきびしくdisっている。こんな人ならそりゃdisるだろうと当然のように思われるわけだが、その物言いが非常にいかしている。
《かりにそれが遊戯としてであるにせよ、作中人物に対するこの種の心理的な共謀関係――歓喜、悲嘆、憎悪、等々――がフィクションを著しく貧困化するものであることはいうまでもありません。それは、現実の振る舞いの模倣でしかないからです。》p228
太字は引用者

 わたしなんかはわりと簡単に登場人物と一緒になって喜んだり嫌な気持になったりする読者なので、ここでキツく叱られているようで肩身が狭いのだけれども(というかマゾヒスティックにうれしいのだけれども)、注目すべきは太字にしたところ、小説というフィクションは現実とは切れたところに虚構として成立しているのだから、それを読む行為も現実のふるまいとは別であるはずだという、過激な一貫性だと思う(自分で実行することを考えたらたいへん難しいにちがいないのに、こう書いてくると「ごもっとも」に見えてしまうのが何より過激)。

 こうやって、フィクションは現実を模倣した「かのように」ではない虚構なのだよ、とえんえん述べてきたあとで、その実例である『ボヴァリー夫人』に蓮實重彦はもういちど立ち戻り、それが鉄道について、同時にある/ないの両方であるかのように不確かな扱い方をしていたことに注意を促し、ふたたび作中でなされている特異な「かのように」的ふるまいを指摘してみせる。それは小説最大の事件・エンマの服毒死をめぐる周囲の反応である。

 まず「エンマは自殺した」という要約は、はたして正確なのだろうか。主人公に対し「エンマ・ボヴァリー」という表記が1回も使われていなかったように、
《テクストの水準にかぎってみれば、そこには「自殺」という語彙はまったく使われていません。また、物語の水準においても、エンマの最期は、宗教的にも、また社会的にも、意志的な自死とは見なされておりません。ヨンヴィル=ラベイと呼ばれるノルマンディー地方の農村共同体においては、それはあくまで事故死として処理されており、それをくつがえすものはなにひとつとして書きこまれておりません。》
p229

 エンマはたしかに薬屋に侵入し、みずから砒素を飲んで死んだ。しかし、自殺を神への罪として禁じているはずのカトリックの聖職者は彼女に臨終の秘蹟を授けに駆けつけてくるし、当の薬屋の主人は自分の落度がばれないよう後処理に汲々として、地方新聞を通じ、その死が不幸な事故だったことを大々的に発信しさえする。
 この小説の副題は「地方風俗」というのだった。エンマのまわりの地方風俗を構成する人間たちは、だれもが彼女は自殺なんかしなかったかのように行動している。《エンマの最期が間違いなく自殺でありながら、にもかかわらず、それが事故死と見なされている》のが、《この長編小説の基本的な不確かな現実》である(pp229-30)。つまるところ、エンマが死んでもヨンヴィル=ラベイという村には何も起こらない。
《『ボヴァリー夫人』という長編小説にこめられた意味は、そのヒロインの醜聞めいた自死が、「ボヴァリー事件」とはならなかったということのうちに読みとられねばならないものなのです。》p231

《「九月四日の月曜日」という表記が、意義深い不明確さの中に読むものを置きざりにしたように、エンマの自殺もまた、現実に起こったことであると同時に、現実には起こらなかったことであるかのように、ごく曖昧に語られています。社会的にも、宗教的にも、それは事故死と見なされているからです。『ボヴァリー夫人』とは、そのヒロインの「意志的ではない自殺」という矛盾しきった物語にふさわしい作品にほかならず、そのとらえにくさはまぎれもなく現実のものなのです。》pp231-2

 小説は言葉で現実を写し取り、まるでその現実であるかのように作られるものだという、不十分なフィクション理解をよしとする論者の杜撰な「かのように」と、一編の小説の中で鉄道を存在するのと同時に不在であるかのように扱ったり、自殺を自殺でないかのようにふるまう人びとを描き出す、作家の繊細な「かのように」。
 こう書いてみると二種の「かのように」はぜんぜん別の種類の事柄であるはずなのに、前者の「かのように」を否定したところに成り立つ虚構を認め、その虚構の中で行われている後者の「かのように」的ふるまいに気付いてみせるこの講演のストーリーラインをたどっていくと、両者はたしかにつながっている――つながっているかのように見えてくる。
 丁寧な眼に支えられた豪腕、という趣があってとても面白かった。

 それにしても、何がこの人に、こういった読みと語りの曲芸めいた実演をさせるのか。はばかりながら忖度してみるに、周囲に対して「もっと丁寧に読め」と言い続けたいのだと思う。「これぐらい丁寧に読もうとしない読者は、もっとはるかに簡明な、小説にはっきり書いてあることまで読み落としてしまうよ」という警鐘と、「小説は小説として丁寧に読めば丁寧に読むほど、面白く読めるのだよ」という啓蒙。警鐘と啓蒙は、挑発でもある。
 メモの終わりにひとつ、無理な飛躍をするならば、不倫の末の自死というエンマの醜聞をなかったかのように押し隠してしまうこの小説の「地方風俗」を、蓮實重彦ほど丁寧には小説を読めず、結果として細やかなディテールをなかったかのように押し隠してしまう「わたしのような読者の読み方」に重ねてみると、蓮實重彦はエンマなのかもしれない

 最後にひどく間違ったことを書いた気がする。ぜひ図書館で全文を読まれることをおすすめします。


文学界 2013年 04月号 [雑誌]文学界 2013年 04月号 [雑誌]
(2013/03/07)
不明

商品詳細を見る

コメント

非公開コメント