趣味は引用
島尾敏雄『「死の棘」日記』(2005)
「死の棘」日記 (新潮文庫)
新潮文庫(2008)

昭和二十九年九月三十日

この晩より蚊帳つらぬ。

十月一日


十月二日

p13

 島尾敏雄が遺した日記のうち、昭和29年の秋から翌30年の大晦日までのぶん。昭和61年に本人が没した20年近くあと、妻のミホによる整理と校訂を経て、数回に分けて発表されたのを1冊にまとめた本らしい。整理というのが具体的にどういう作業だったのかわからないが、何しろタイトルが『「死の棘」日記』だから、小説『死の棘』の背景なり直接的な素材なりとして読み比べられることを第一義にしてあるのはまちがいないだろう。
 前回『死の棘』を読んだとき、夫婦はともかく子供たちがあまりに不憫で、「でもそれは小説だったからであって、日記を読めば“ああ、モデルとはいえ、あれはやっぱり小説だからあんな書かれようだったんだなあ”との感想が得られるのではないか。そんな感想をぜひ持ちたい。お願いだからどうか持たせてくれないだろうか」との一心でこれを読むことにしたのだが、結論からいってその感想は得られなかった
 わたしが甘かった。むしろ「毒食わば皿まで」の気持で読んだ。読書にそんな言葉が当てはまるとは思わなかった。
(以下、『「死の棘」日記』は『日記』と略記)

 事実を記録した『日記』が材料だとしたら、小説『死の棘』は作品ということになる。とはいえ、ここにある『日記』は本当に材料になった日記そのものではないのかもしれないし、だから本当はこの『日記』じたいをひとつの作品として読むべきなんだろうし、と、いろいろ身構えて読むのだが、それでも「へえ」と思ってしまうのは、たとえば『日記』には何度か島尾敏雄じしんの父親が登場するのに『死の棘』のほうには出てこない(たしか出てこなかったと思う)とか、そういった取捨選択の手つきが、探さなくてもはっきり見えてしまうからである。わたしはどちらも1回ずつしか読んでいないが、もっと綿密に照合した人もきっといるだろうから、その結果をちょっと知りたい気持にもなる。

 材料と作品という、単純なだけに便利でもある仮の区分にしたがってもう少し考えると、なんとなく、小説より日記のほうが事実に近いだろう、という先入観を読む前は持っていたような気がする。めくっていくと、たしかに『日記』は事実の集積で、妻の発作および島尾敏雄の誘爆と直接は関係のない、見た映画のタイトルもメモされていたりする。
(家にテレビのない時代なのでこの人はひとりでも家族でもよく映画を見にいくのだが、作品名だけでなく監督・主演まで記録されている珍しい例が成瀬巳喜男・高峰秀子の「浮雲であることからは何か意味をくみ取るべきなのだろうか――昭和30年2月17日)

 しかし、実際あった出来事は短く記されていても、そのときどきの心情の移ろいまでが細かく丁寧にたどられているわけではないから、極端にいえば、『日記』は起こった出来事のメモ書きにとどまっている。そこにはたしかに事実が羅列されているが、事実の羅列はあんまり現実っぽく見えない
 そうなると、目を背けたくなるような修羅場の連続と、そのときどきの自分の思いや心持ちをあとから綿密かつ妙にスラスラ読める文章で書き継ぎ、20年越しでページの上に現実の生々しさを再現してみせた小説家はやはり何かを達成したことになるのだろうし、その執念には、やっぱり「どうかしている」との畏怖を感じてしまう。
(これはもちろん、あとからそのような文章を作り上げることで「その当時の自分の思いや心持ち」がそのようなものであったことになる、という話でもあるだろう。そして、どうかリアルタイムで子供のことを何とかしていただきたかったよ、という消耗は1ミリも目減りせずに畏怖と並立したままある)

 でもそのいっぽうで、簡素な書きぶりの日記よりも、自分と家族のたいへんな姿を外側も内側も包み隠さずに描いていった小説のほうが、いわば「凄惨な現実」として現実っぽく見える、というのには、「それでいいのか」と思う気持もある。その現実っぽさとは、つまり「いわゆる小説で描かれそうな現実っぽさ」なんじゃないか、と。

 畏怖は畏怖として、そして子供のネグレクトぶりへのげんなりはげんなりとして、そういったこととはまた別に、「いかにも真に迫っていると称されそうな、小説らしい現実っぽさ」に絡めとられ、「すげえ」と思ってしまうのには、漠然とした抵抗がある。
「いわゆる小説」なんて物言いが安易なのはいちおう承知しているつもりだし(そんな言い方をして「いわゆる」の程度が問題になったりしたらもう目もあてられない)、なにも「本当の現実はどこにあるのか」といった無茶な話ではない(だいたい「本当の現実」って意味がわからないじゃないか)。
 ただわたしは、小説ではなく日記を読むのなら、小説ではない日記にしかない変なものを読みたいと思った。それは事実を小説に加工していく過程でまず拾われない部分、整理しようのない部分、ということになる。繰り返すけど「そういう細部こそが本当の現実なのだ」とかいう鼻息の荒い話ではない。自分で勝手に材料(日記)と作品(小説)を分けておきながら、分けない読み方をしたいというマッチポンプなことを言っている。
 たとえば、昭和30年2月24日の記述。このころ、頻繁に発作をおこすようになったミホを島尾敏雄は慶応病院の神経科に短期入院させている。この日は朝から電話で呼び出され、昼に病院へ行ってみるとミホから平手打ちをくらう。
[…]そのこと鎮目医師と相談しているとミホ興奮して加わる。塩入助教授来る。ミホと三人で語る。あと助教授と二人、精神分裂症でない事、心因性反応であること、治療法アイマイなること、病院を変更すべきか、即時退院は無理な事、固定するといけない事。附添人の遠藤、交代を申し出る。ミホ精神的負担を主張して附添を断る。遠藤看護婦と解約。ミホ泣き、看護婦依怙地になる。家を安く売るとうらむ。その金はウニマから取って来いなど云う。(相部屋の林さんおくさんはダンナさんが好きで好きでたまらない病気だ、と云う)方途立たず涙下る。子供たちさわいでじっとしていない。しばらくミホのベッドで横になる。ミホ子供らをつれて中村錦之助の病室を見に行ったり。[…]pp196-7(太字は引用者)

 太字の部分でわたしはつい笑っていた。横になっちゃったよ。
 まったく笑える状況ではない。それはわかる。だが、このような八方ふさがりの場面をまったくのゼロから創作したときに、ここで「しばらくミホのベッドで横になる」はおよそ出てこない一文じゃないだろうか、という点において、わたしは小説『死の棘』とは切れた、変な部分にじかに触ったと思った。
 曖昧な言葉遊びめいたことを長々と書いておいて実例がこれか、という気もしないでもないが、わたしが読みたいと思ったのは(読めてよかったと思ったのは)、日記だからこそ紛れ込んだ、こういう文章である。そういう部分にぶつかって立ち止まったとき、『日記』は小説の材料であることをやめ、事実の記録であることを(事実の記録でしかないことを)やめている。

 ――と言いながら、このような興味だけで『日記』を読み通したわけではぜんぜんなかった。
『死の棘』は、「私」が子供たちを奄美大島の親族に預け、妻を「D病院」に入院させて自分も付き添いで病院に入るところで終わっていた。
『日記』では、島尾敏雄とミホは昭和30年6月6日に「市川市国立国府台病院」の精神科病棟に入院するが、それは全部で550ページある文庫本の半分を越えたあたりにすぎず、記録はこの年の年末まで続くから、後半のしばらくはミホの隣で内側から見た精神科ルポといった様相を呈する(10月にふたりは退院し、船で大島へ渡る)。
 いまと比べると格段に劣悪だっただろう施設のあり方への単純な好奇心はやはりあるし、そんな環境でも島尾敏雄は小説に取り組もうと苦心して、ほんの少し前のミホの行状を題材に短篇を書きあげあろうことかミホに読ませるなど、「待て」としか言いようのない行動にも事欠かない。子供のつらい境遇が表面にあらわれなくなったこともあって、頭は重たいままながら、前半に倍するスピードで読んでしまった。
 まとめるなら「いろいろ考えさせられる読書だった」わけだが、そんなまとめならしないほうがましである。


追記:

 この際なので、こちらの本で紹介されているのを見てから気になっていた、しまおまほのエッセイ『まほちゃんの家(2007)も読んでみた。
『死の棘』の「伸一」のモデル、『日記』の「伸三」がしまおまほの父親なわけだが、続けて読んだためにかえって6歳の少年と「しまおの父親」である男性の像がつながらず、この本の中の「島尾伸三」のたたずまいはいちばん不思議なものに見えた。それでいて、1980年代から90年代の記憶、過去の思い出を丁寧に文章にしてみせるしまおまほは、父親が祖父母(島尾敏雄・ミホ)と同席する際の硬くなる空気も一度ならず写しとっていて、その、まったくきびしくはないが容赦もない書きぶりにしびれた。
 そして、だれに頼まれたわけでもないが、まだまだわたしには島尾伸三当人の著書は読めないなあ、と思わされたのだった。読書はときどき大変だ。


まほちゃんの家まほちゃんの家
(2007/02/16)
しまお まほ

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