趣味は引用
島尾敏雄『死の棘』(1977)
死の棘 (新潮文庫)
新潮文庫(1981)

《私たちはその晩からかやをつるのをやめた。どうしてか蚊がいなくなった。妻もぼくも三晩も眠っていない。そんなことが可能かどうかわからない。少しは気がつかずに眠ったのかもしれないが眠った記憶はない。》p5

 なにしろ有名な作品だからどんな話かは知ったつもりでおり、それでひるんだまま手が伸びないでいた『死の棘』を、思い立って読んでみた。事前に持っていた「こんな本らしい」という前知識は文庫本の裏表紙に印刷されている紹介がちょうど過不足ないのでそのまま書き写す。
思いやりの深かった妻が、夫の〈情事〉のために突然神経に異常を来たした。狂気のとりことなって憑かれたように夫の過去をあばきたてる妻。ひたすら詫び、許しを求める夫。日常の平穏な刻は止まり、現実は砕け散る。狂乱の果てに妻はどこへ行くのか?――ぎりぎりまで追いつめられた夫と妻の姿を生々しく描き、夫婦の絆とは何か、愛とは何かを底の底まで見据えた凄絶な人間記録。

 こういう話が、たしかに書いてある。「私」と相手の女とのいきさつを、眉間に皺を刻んで執拗に追求し責め続ける妻のミホ。罵声と平手打ち、謝罪のすえに我慢できなくなる「私」、自殺未遂、すぐにひっくり返される和解、また最初から始まる細部の追求、心中の相談、服従と爆発、罵声、狂言自殺、云々。出口のない(まったくない)もろもろが、600ページにわたり綿々と繰り返される。このふたりのやりとりだけに限って言えば、たしかにおそれていた通りの内容だった。
 ところが、実際に読んでみないとわからないことも確実にあって、まずひとつめは、意外にも文章は軽快ということだった。
《次第に日が傾き、部屋のなかがうす暗くなっても電灯のスイッチをつけるきもちが起こらない。はなしはぐるぐるまわるだけで結末はつかず、妻の態度だけがますます確信を加えてくる。それまでの妻は私の目の動きにもおびえ、かえって私を不機嫌にした。私はその顔つきを消さず、妻はすべてをゆるし、あばくことをおそれてますますやさしくなった。もう一度だけゆるすことが生活の良知なのにと苦しまぎれに思い、そうすれば私は生まれかわるだろう。ゆるしてくれなくてもいいがこのたえまのない尋問のくりかえしは不毛だなどと私は腹の底で思う。こんなときには悪びれない態度をと考えるが、かきたてられた過去のしかばねのなかではどうしてもおもてをあげていることができない。行為の細部を数えるときに、駈け足をして通りぬけ、とぼけて知らぬふりをしたり、隠して言わぬことのどうしても残るのがわれながら不審だ。
「たしかにそれだけなの。かくしているのじゃないの」
「いいえ、隠してなんかいない。いまさら隠したってどうなるもんじゃない」と私はいなむ。》pp11-2

 いまこうやって書き写しているとなおさら、言葉のひらがなへの開きかたが絶妙に感じられるし(「かきたてられた過去のしかばねのなかではどうしてもおもてをあげていることができない」なんてどうだ)、妻ミホと「私」の台詞とで開きかたを変えているのもうならされる。次の引用はだいぶあと。
《今私はからだを軽快に動かし、さわやかな空気のそよぎを妻のほうに送らなければならないが、大気のなかには待ち伏せの敵がひそみ、いつすがたをあらわすか見当もつかない。目ざめぎわ、妻のかげりを引き出さないことに成功すれば、私はす早く海軍以来着古したネービイブルーのサージズボンをはき、アメリカの中古品を買ったホームスパンの大きな茶格子の上衣を着けて、廊下のガラス戸に引いたカーテンをひらき、玄関と建てかえたばかりの板塀の門の戸の鍵をはずして、表の小路に出る。まだにごらない早朝の空気のなかに炊煙のまざったけむたいにおいを吸うと、こどものときの埋ずまっていた記憶に結びついて行く。眠りがまだすっかり取れない頭のなかで未来の充実した生活のほうに深い呼吸をはきつけるようにしていた幼い自分がどこかに居た。使われていた者が寝不足の顔で店先の道路のごみをはき集めているのを、見ていた遠い日。いつのまに自分は袋小路にはいりこんできたのだったか。》p126

「私」の体を使った行動と、いま時点で頭を満たしている考えを境なくまたぎ、そこから嗅覚を通して過去の記憶にまで横滑りしていくこんな文章を追っていると、“時間の差”が果たす役割の大きさを痛感させられる。
「いま時点」と言っても、これを書いているのは書かれている出来事が起きたときよりずっとあとである。そのことを忘れると(忘れないが)、なぜそのキツい状況をそんなふうに描き出していけるのか謎に思われるくらいに自在な文章が、いまその場にいるかのような寄り添い具合で連ねられる。妻の怒りに縛られながら、みずからの逆ギレでも自分を縛る、二重に身動きできない「私」の姿を描く文章は、四方八方、自在に伸びてゆく。
 住んでいた小岩の家にいられなくなり、転居した先の小倉で勃発する事件をクライマックスとしてえんえんと繰り返される内的・外的な激しい衝突は、凄惨な日々を言葉で彫琢して定着させたこの文章のために、ときおりコメディに転じているかのように見えることさえあった。

 と、ここまで息を止める思いで上っ面なことを書いた。
 じつは、このようなことよりも何よりも、開巻7ページ目から読み終えるまで、いや、読み終えたいまもなお強烈に印象に残るのは、この夫婦による言葉を使った殺し合いと、その先は殺し合いになるほかないような格闘のほとんどが、家庭の中で、6歳の息子・伸一と4歳の娘・マヤの目の前で展開されていることであって、これにはほとほと参らされた(あまりに辛いので、読みながら逃避として考えていたのが、上述した文章についてのあれこれである)。
 自分の無知を棚に上げて言うけれども、この子供たちのことがどうして、文庫裏の内容紹介に書かれていないのか。どうかそれは事前に教えておいていただきたかったよ。
 とくに伸一が、荒れ狂う両親に向かって「カテイノジジョウをしないでね」と繰り返し繰り返し懇願する言葉はこれ以上引用するのに忍びなく、ここには、「ぎりぎりまで追い詰められた夫と妻の姿」などない。ただ、ひどい大人がいるだけだ。だからわたしの感想は、極限での愛のありようだとか作家の業だとかにはさっぱり反応せず、ひたすらに

 「子供は大変だ」

に尽きた。わたしは無粋な人間なのだろうか。たぶんそうなんだろう。
 巻末の解説で文芸評論家の人が「だが、待ってほしい。ミホさんの健康がすぐれなくなったのは昭和29年の夏の終わりで、翌30年の6月には入院している。この凄絶な日々は実際には1年に満たず、作者はそれをあとからふり返り、いわば回復と感謝の記録として見事に作品化したのである。」みたいなことを書いているが、それはせいぜい夫婦ふたりにのみとどまる話じゃないかという気がしてならないし、だいたい、言葉の真の意味で、半年が永遠とも等しくなるのが子供の生きている世界だと思う。指を詰めるために夫婦で鉈を買ってくる場面で伸一とマヤが眠っているのはほんとうに不幸中の幸いだった。しかしそんな幸いは、吹き荒れる不幸の嵐の中ではゼロである……。

 でもまあ、これは小説なのである。
「私」は明らかに島尾敏雄であり、ミホは明らかに島尾夫人のミホであり、伸一とマヤのモデルはたしかにふたりの実子だそうだが、これを小説として読む以上、その記述からモデルに思いをいたすなんて、できない相談のはずである。だが、わたしはこの際小説として読まなくていいから、内容に比して軽快すぎる文章のうしろに“時間の差”があるように、この子供たちの扱われっぷり(扱われなさっぷり)のうしろにも、“やっぱり、これは小説だったんだ”という支えを見たい。ぜひ見たい。頼むから見せてほしい。
 そこで次に、この『死の棘』の材料であるらしい『「死の棘」日記』を読むことにした。読書は続く。

→続き
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