趣味は引用
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
想田和弘「演劇1」「演劇2」(2012)


 観察映画という手法でドキュメンタリーを撮る想田和弘監督が、劇作家の平田オリザと、氏の主宰する劇団・青年団を追った映画2部作を見た。
 計5時間42分。その1秒も退屈しなかったということを書いておきたい。
 もっとも、かっこいい公式サイトがここにあって、映画の紹介もじつに面白そうにされているから、以下に綴るのは2012年11月3日(土)に渋谷のイメージフォーラムで、12時45分から夜7時過ぎまで夢中になってスクリーンを見ていた人間の翻弄されっぷりである。

 まず私は演劇に疎いし、青年団の公演も観たことがなかった。平田オリザの名前は知っていても、「なんか口語で、まったく日常みたいに見える演劇をやっている人」くらいの印象しかなかった。
「あれはめちゃめちゃ稽古して、“作ってある”自然さなんです」と友達に教えてもらったのはつい先週のことで、あとは「たくさん本を出している」とか、「とても文化事業な人」、みたいなイメージだった。そんな形容詞があるものか。

 このような門外漢が「演劇1」を見始めて、冒頭の稽古の場面、役者への直しの細かさと、仮眠をとる寝付きと目覚めというOFF/ON切替えの、異様なすんなり具合に思わず笑った時点で早くも映画に引き込まれており、以後6時間弱、スクリーンに映る多種多様な平田オリザを見続けた。この「敷居のなさ」に、かえすがえすも興奮する。すんなり、かつ大胆。

 そこには稽古をする平田オリザがいて、稽古を続ける平田オリザがいた。まだまだ稽古させる平田オリザ、役者をビデオの巻き戻し・早送りみたいに操り微調整を繰り返す平田オリザ、声は柔らかいのに指示は機械のように正確な平田オリザ、立て板に水の平田オリザ、帳簿の数字とにらめっこする平田オリザ、領収書を仕分ける平田オリザ、サンドイッチを囓る平田オリザ、スタッフの面接をする平田オリザ、夕暮れ時に散髪してもらう平田オリザ、ワークショップで練習させている間に自分の戯曲を書き進める平田オリザ、猛烈に忙しそうな平田オリザ、でも話す相手の返事はじっと待つ平田オリザ、「アスリート?」と驚く平田オリザ、「文脈がわからないなあ」と叱る平田オリザ、旅程を伝える平田オリザ、バスで移動する平田オリザ、舞台の「テーブルを10センチ…は無理だな、7・8センチ前に」と注文する平田オリザ、名刺交換する平田オリザ、コンビニおにぎりを食べる平田オリザ、講演する平田オリザ、「ウィー ドント ハブ サッチ アクター」と答える平田オリザ、中学生をほめる平田オリザ、「半信半疑」と顔に書いてある学校教師数十人のガードをいちどに解錠する平田オリザ、民主党の議員と談笑する平田オリザ、「0.3秒長く」と稽古する平田オリザ、市長に著書を渡す平田オリザ、ラスクを食べる平田オリザ、電車で移動する平田オリザ、乾杯する平田オリザ、ロボットに稽古をつける平田オリザ(人間の時と変わりない!)、うけたギャグを別の相手に繰り返す平田オリザ、助成金を申請する平田オリザ、飛行機で移動する平田オリザ、パンをちぎる平田オリザ、フランス人と稽古する平田オリザ、役者のギャラの根拠を明示するよう粘る平田オリザ、そしてまた稽古する平田オリザ、眠り込む平田オリザ、エトセトラ、エトセトラ、平田オリザ……(順不同)

 こういったすべてを撮影している監督の側から、平田オリザをはじめ、撮っている対象に向かって質問を発することはほとんどない。いま思い出せるのは、「演劇1」のはじめのほうで男の役者数人に稽古について訊くやりとりと、「演劇2」の後半、女の役者にフランス語のことを尋ねるくだりだけである。ナレーションや字幕は、外国語の翻訳を除き、一切ない。カメラはそこで起きていることの観察にほぼ徹している。
 あれだけいろんな平田オリザが出てくるのは、そのような手法からくる結果でもあった。観察映画は長くなる。
 そのいっぽう、テレビなどほかの取材の人間が直接平田オリザに質問して答えをもらう様子も撮っているから、「そのような取材の様子まで撮っている」観察っぷりはいっそう際立つことになる。
 とくに「演劇2」の最初、中学生にカメラとマイクを押しつけるクルーの姿を映すことで、こちらのカメラの独特さが浮かび上がり、しかも、その受け答えをちゃっかり「利用している」ふうなのには舌を巻いた。観察映画は使えるものは何でも使う。

 かといって、だからこの映画には対象の「自然体」であるとか「生」の姿だったり「素」のふるまいが記録されているのかというと、そんな単純にはいかないよね、というのがたぶん映画のスタート地点なのだろうし、「そんなはずがないでしょう(笑)」ということをにこやかに、しかし力強く、身をもって示しているのが被写体(主演)の平田オリザ当人であるだろう。映画は編集が入るから、という以前、素材である人間なるものが「そうではない」。
《We are what we pretend to be, so we must be careful what we pretend to be.

われわれが表向き装っているものこそ、われわれの実体にほかならない。だから、われわれはなにのふりをするか、あらかじめ慎重に考えなくてはならない。
(飛田茂雄訳)

 これはカート・ヴォネガットが自分の初期作『母なる夜』(1961)に、あとから付け足した序文にある有名なフレーズだ。
 第二次大戦中にナチスに潜り込み、ヒトラーの対米宣伝要員のふりをしてアメリカへ情報を送り続けた男が、戦後になると他人に正体をあかし立てる証拠が何ひとつ残っておらず、本当のナチス協力者と区別が付かなくなってしまう状況を描いたこの小説には、白水uブックス版ハヤカワ文庫版の2種類の翻訳があるが、序文がついているのは後者だけだったはず。
 他人から「そう見える」なら、じじつ彼は「そういうもの」である。ヴォネガットが苦い諧謔と共にフィクションに埋め込んだ教訓を(少なくともその前半部分を)、一片のアイロニーも含まない身も蓋もない事実として、しかも実人生に適用可能な技術として、平田オリザはさまざまな場所でさまざまな相手に向かい、繰り返し説いている。「人間とは“演じる生き物”であり、あるのはペルソナだけだ
(映画の中でこんな断言調で語ることは決してなかったけれども)

 それでは、いまカメラが撮っているのも、じつは平田オリザを演じる平田オリザということになるのだろうか。でも、平田オリザを演じる平田オリザ以外に平田オリザがいないなら、「演じる」の意味も変わってくるのではないか。そこは「演じる」で保持するのか。稽古を続ける役者は、役者であることを演じながら役者としての演技をカメラに見せるから、「演じる」の2乗という状態になるのか、カメラの存在を意識していないならそうはならないのか。でも、意識していないのと意識していないふりのちがいはどうなるのか。そもそもこんな考えは全然まちがっているのか。観察映画はややこしい。
 そんな複雑な、ときどき複雑すぎてむしろストレートに見えてくることもある複雑な状況に頭がかき回される面白さ(自分はいま何を見ているのか)と、ただ単純に、映っている出来事や、語られている言葉が面白い(つい声を出して笑う)、という面白さがつねに一緒にあった。
 何かもっともらしい理屈を重ねようとしても、そういうことはそのつど目の前で展開される映像の面白さに押し流される。でも何か言いたくなる。押し流される。そこがいちばんスリリングだった。

 そして、ひたすら平田オリザが映される映画ではあっても、思い返すと意外なくらい、平田オリザ以外のものも映っていた。なぜか? 監督が「面白い」と判断したからだろう。そしてそれらはじっさい面白いのである。何かひどく幼稚な書き方になっているけれども心配はいらない。
 青年団の役者のストレッチも、稽古の合間に突如はじまる歌も、舞台装置が徐々に組み上がっていく経過が長々と映されるのも、照明を細かく調節する様子も、そのぜんぶが面白かった。
 劇団さえ離れて、岡山の図書館の前を掃除している人や、大阪のどこかの重たいガラスドアを拭きながら次第に笑顔になっていく男性も、田んぼで手際よく稲を刈っては束ねていく老人なんかも、この“平田オリザと青年団を追ったドキュメンタリー”の中に収められている。そこもよかった。観察映画には「作業」への興味と敬意があふれている。
 さらについでに言うと、もともと音楽のついていないこの映画の中で、映っている人たちが沈黙するだけではなく一切の音声が途切れる完全に無音のシーンがたしか「演劇1」では4回あり(「演劇2」は数えるの忘れた)、「そこで音をなくすのか!」と納得できるところと、「なぜそこで!?」と驚くところの両方があるのも面白かった。

 で、最後に話を戻すと、演じることと日常生活(日常で演じること?)の重なり具合が最高潮に達する場面は「演劇1」の終わりにあった。
 一種のネタバレになるのはもったいないので詳述できないが、見ているこっちまで次第に緊張して口から心臓が出そうになるその場面では、こまばアゴラ劇場の日常のなか、平田オリザも青年団の人びとも全員が演技をしているのに、芝居を演じながら(それは稽古の場面だと言える)また別の演技へとねじれることで演技が日常に戻ったようにも見えて(それは稽古の場面ではないとも言える)、おかしな状況が現出する。
 役柄を演じる姿が演じられているのか、たんに演じているのか、ただの日常があったのか、いや、正しくはそこまでずっと語られていた、日常と演技の切っても切れなさが全員によって生きられていて――
 言葉だけをいじっても追いつかないくらいおかしな様相を呈するその場面を「おかしなもの」として受け取ることができるようになったのは、そこまでの観察をえんえん見続けたおかげであり、それでいてその十数分は、映画館の客席にクスクスどころかゲラゲラ笑いが渦巻く十数分でもあった。観察映画は、積み重なる。
 あの場面がなぜあんなに面白かったのか。その謎の多幸感。見に行って本当によかった。

「演劇1」「演劇2」は、見ている私に5時間42分の長さをたしかに5時間42分として体感させながら(腰痛)、それでももっと見ていたくなる、そしてあそこも面白い、こちらも面白いといつまでも言い続けられる、その意味で無限に面白い映画だった。
 こういうものとは別の種類の面白さもあるのは知っているが、だけどこういう面白さもたしかにあるんだと言い張りたい。できればもう一度見に行きたい。

 ……言い張るも何も、すでにたくさんの人が面白がっているおかげで私なんかもこの映画の存在を知ったわけですが。


■ 公式サイト内にある、内田樹の評:

・「平田オリザの笑顔 あるいは法外な過激さについて


■ 映画を見たあとに聞いて面白かった:

TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」(ポッドキャスト)
10/13 サタデーナイトラボ「映画『演劇』想田監督×平田オリザ」【前編】
10/13 サタデーナイトラボ「映画『演劇』想田監督×平田オリザ」【後編】
 (【後編】ではゲストに監督のみならず、平田オリザが来てしまう


■ 映画を見たあとに読んで面白かった:
 (「演劇1」のクライマックスに触れてたりするので注意されたい)

neoneo web 【Interview】
演劇1』『演劇2』想田和弘監督 12,000字インタビュー text 萩野亮

Realtokyo Interview
076:想田和弘さん(『演劇1』『演劇2』監督・製作・撮影・編集)【前編】(聞き手:福嶋真砂代)
077:想田和弘さん(『演劇1』『演劇2』監督・製作・撮影・編集)【後編】(聞き手:福嶋真砂代)

MANMO.TV
#463 演劇1・演劇2 ~想田和弘監督インタビュー その1~(多賀谷浩子)
#464 演劇1・演劇2 ~想田和弘監督インタビュー その2~(多賀谷浩子)


 どれも「長い」のがいい。まとめて読むと、同じ話が繰り返される部分も多々あり、それがまたこの映画にふさわしいように思われた。
 それにしても、アンドロイド版『三人姉妹』なるものも見たかったと悔しくなることしきり。 ↓この本はこれからきっと読む。


演劇 vs. 映画――ドキュメンタリーは「虚構」を映せるか演劇 vs. 映画――ドキュメンタリーは「虚構」を映せるか
(2012/10/20)
想田 和弘

商品詳細を見る
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。