趣味は引用
長嶋有『佐渡の三人』(2012)
佐渡の三人
講談社

《骨をくるんでまとめた布を弟が持ち、墓の前まで案内される。父は写真を撮った。お堂での読経中にも父はシャッター音を響かせていた。すべて、祖母にみせて納得させるための「証拠写真」だという。
「墓だけ撮っても、納骨の証拠にはならない」弟がいった。
「じゃあ、どうするの」
「入れる過程を全部撮ればいい」
「えっ」》「佐渡の三人」p38

 納骨と葬式をめぐる、4つの連作短篇集。こう書いてみておどろいた。そうである。あたまから終わりまで、納骨と葬式をめぐるのである。しかしこれは納骨と葬式についての小説であるだけではない。どういうことか。

 作家をしている30代の「私」と、その弟。離婚して以来、別れて暮らしている父親。この3人を一応の中心に置いて、一族の人間がほかにも続々と登場する。
 大きく分けて、「私」と弟の世代、父親とその兄弟たちの世代、さらにその上、祖父・祖母の世代、と3つの世代の層がある。ものすごく即物的に言うと、いちばん上の世代の人々がポツポツと亡くなるので、その骨を、一族のルーツである佐渡島へ納骨しに行く(行かされる)「私」たち、という構図が全篇の基本にある。
 たいへん暗くなったり、重たくしんみりしてもいい題材であるのに、ぜんぜんそうなっていない。むしろ明るい。くつくつ笑える。なぜかといえば、出てくる親族出てくる親族、みんなこの深刻なイベントとの距離の取り方・ふるまい方が「かくあるべき姿」からズレていて、そのズレをこそ見逃すまいと書き留めた「私」のノートがひとつずつ短篇としてまとめられていくようなつくりだからだ。
 順序を無視して、最初に一点だけ。佐渡へ行くたびに曽我ひとみさんを気にしすぎである。これだけは太字にしたかった。以下は蛇足である。

 古道具屋の父親。ひきこもりを続ける弟。大学教授の伯父。などなど、肩書きというか、ひとことで名付ける言葉はいくらでもある。けれども、人間の性格も、性格に発する行動も、何か出来事があったときに、その反応としてはじめて外にあらわれるものだ。この小説では、その出来事が納骨と葬式に特化されており、いわば定点観測するようにして、物書きの眼で「私」は親族を観察する。
 たとえば弟は、祖父母宅に住んで世話を手伝いながらネットゲームとマンガに明け暮れている。しかし、「ひきこもり」や「介護をしている」の一言でまとめられる人間も生活もないわけで、外から与えられるそういった言葉と現実のあいだの齟齬に「私」は抗い、より正確な言葉をさがす。明晰で、声高でない指摘。いつも思うことだが、長嶋有の文章は視力がいい。
《ヨツオは嫌そうに笑い、その笑顔はまた祖母の面影を感じさせる。元気なころの祖母は、笑顔の比重が高かったから。
 ……「祖母はいつも笑顔だった」というと、その人となりを良くいうみたいになる。そういう風にいいたいわけでもなくて(悪くいいたいのでもないが)、とにかく、比重が高かった。》「スリーナインで大往生」p101

 そんな「私」の観察の積み重ねから、この一族に共通する特徴というか癖というか、もっと言えば、業が浮かび上がってくる。
 彼ら彼女らの言動がことごとく面白いのは、言動を描写してツッコミを入れる「私」の説明が丁寧だからで、その語り口は「より正確な言葉を選ぶ」のと同じくらい、「笑いをとる」方向もむいている。そう、「笑いをとる」。もうひとつの明確な意図は「名場面を記録する」だろう。
 いやしかし、納骨と葬式に際して「名場面」などあるのか。それが、あるのである。しかも大量に。
《「これから、また葬儀屋がきて、明日の通夜とあさっての葬儀について、段取りの打ち合わせがありますから」弟がそういったときのヨツオの返答は忘れがたい。
「そうか、じゃあ俺、帰った方がいいな」といったのだ。
「いやいやいやいや!」弟と父はふきだしそうなのを我慢したと思う。
「あんた喪主なんですから!」それでも強く告げた。
「ああそうか、俺、喪主だな、そうか」私はダメだった、ふきだした。》「スリーナインで大往生」p112

 名場面を見つける目があれば、名場面は見つかる。見逃さない目が名場面を生む。そう思ういっぽうで、登場するこの家の面々が、過度に軽かったり、過度に偏屈だったり、過度にヒョウヒョウとしていたりと、もともと何かからはみ出した過度な人ばかりであるようにも見えてくる。
(なかでも、一切の冠婚葬祭を「しない」と決めて、自分の妻の葬儀にも納骨にも加わらなかった90歳越えの「おじちゃん」が兄の葬式当日に見せたふるまいを観察して説明する115-117ページは、こちらの理解の域を越えていると見えた存在を丁寧に解きほぐし、裏ごしして飲み込ませてくれて、それから「…いや、だけどさあ!」と再度立ちあがらせてくれる、至高の3ページだと思う。
 引退式のビデオも双璧をなす。病院の院長職から身を退いたのを忘れてしまう卒寿の祖父のために、「引退式」を執り行ってビデオに残しておくという手が打たれる。それだけでも何かが過度だが、撮影されたビデオを描写する文章は、きわめて地味で実用的な映像に説明とツッコミを加えながら無類に面白く、文章によるコントのような様相を呈する。映像の描写なのに、この映像+説明は映像化できない)

 そんなふうに、一族のふるまいを観察するカメラに語り手はなっているので、彼ら彼女らとたしかに同じ場にいても「私」の存在はどこか薄く、性別さえどちらでもよくなっている。
 長嶋有はこれまでも、男女両方の語り手を自在に操り作品を書いてきた(2010年の短篇集『祝福なんて、1話ごとに語り手を男/女で交替する「1人紅白歌合戦」だった)。だが今作での女性化には、上述の経緯が感じとれるぶん、これまで以上に力が抜けている。そんな言い方があれば、達意の女性化、と呼びたい。
 性別について触れたので、「私」のことをもうちょっと書く。
 作品の前では、作者のことはどうでもいい。小説と作者は関係ない。それはまことに正しい一般論だが、どうしても「今度は女になってるんだな」と考えてしまうのと同じように、どうしても、『佐渡の三人』で語られる家族と、作者・長嶋有の家族の関係が気になってしまう。
 もちろん、考えてわかることではないから「どれぐらい現実に即しているのか」という詮索はそこで終わり、小説と現実の関係についての「?」が始まる。
 収録作が文芸誌に掲載された時期はこうだ。

 「佐渡の三人」(2007年1月号)
 「戒名」(2009年3月号)
 「スリーナインで大往生」(2011年11月号)
 「旅人」(2012年6月号)

 出来事があるたびに作品化していった結果だろうこの不定期ぶりにはこちらもすこし厳粛な気持になるが(作品化されなかった出来事もあるかもしれない。それは知りようがない)、ここでメモしたいのは現実と小説と現実の奇妙な重なり方である。

「スリーナインで大往生」での弟は、5年近く前の「佐渡の三人」を読んでおり、説明の不備を作者である「私」に糾す(p106)
 いや。いやいやいや。何気なく書かれているが、ここでは相当に複雑なことが起きている。
 長嶋有(現実)が「私」(フィクション)になって書いた「佐渡の三人」は文芸誌に掲載され(現実)、それを弟(フィクション)が読んだことになって、長嶋有(現実)はそのことを「私」(フィクション)に語らせながら別の小説(フィクション)に書き入れているのである。
 ここで、“長嶋有が書く”という行為と“「私」が語る”という行為は、現実とフィクションの両方にまたがっていることがわかる、などと書いたらますます混乱は増すだろう(もう書いた)。さらに、最終話でまた佐渡へ行き、いつもの寺でいつもの坊さんに会うシーンにも驚嘆する。
《「みつこの孫の道子です」過去最多納骨を誇る私が頭をさげたところで、坊さんは笑いながら「『佐渡の三人』のね」といい、ぎょっとした。えっと声もでた。
(私の書いた文章を読んでるのか!)
 坊さんは余裕ある表情のまま、特に感想をいわなかった。》「旅人」p167

 おそらく、いちばん素直な受け取り方は、“坊さん(現実)vs.長嶋有(現実)”という現実の関係がそのままフィクションに転化されている、というもので、しかしそのように読む場合であっても、フィクションの中で「私」が占めているはずの位置に、ここでだけ長嶋有が割り込んでしまっていることになる。作者だって作中に入ればフィクションになるから、フィクションにおける語り手のマイクを長嶋有は「私」から奪ってしまっている。
 そんな複雑なことではない、この小説世界では、当の連作の作者は「私」ということになっている、坊さんもたんに小説の登場人物であり、ただそれだけのことだから、いまのも“坊さん(フィクション)vs.「私」(フィクション)”の構図で見ればよい――そうまとめられれば簡単だが、長嶋有が書いたにしろ「私」が語ったにしろ、ひとつひとつの作品はフィクションの中ではなく、現実に発表されているのがキモだと思う。
 それら先行作を読むことによって(読んだと書かれることによって)、フィクションの弟はひきこもりのまま現実へ越境し、現実の坊さんはいちどだけ佐渡から東京に出てきたようにフィクションへ侵入する。そして、そのようなめまぐるしく魅惑的な状況に長嶋有は、もとい「私」は一切、触れない。
 このように虚実皮膜のキワキワを無造作に歩いてみせる長嶋有の足取りは、誰よりもまず、大江健三郎に似ていると私は思う。
(以前書いた感想:宙返り取り替え子

 現実とフィクションの境目に立つ「私」が、自分の一族の、生者と死者の境目にいる面々を通して、生と死に思いをめぐらしつつ、何をするかといえば、身のまわりの親族を、よく見ようとしている。
《私はあらたまって前を向く。変な家だなあ。動いたのは自分の首なのに、家のせいという気がする。》「スリーナインで大往生」pp135-6

『佐渡の三人』は、そんな“境目から見る”小説である――というまとめは、よくない。
 重なってはいても別々なことを、解釈しやすいように混ぜてしまってはいけない。そんな大事なことも、じかに「私」の言葉で、この小説には書いてあったのである。
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