趣味は引用
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
続き: 橋本治『ひらがな日本美術史 3』

…前回


 長谷川等伯「松林図屏風」は、それぞれ6枚の面(六曲)からできた左隻と右隻で1組(一双)になる六曲一双の大作で、その両方がウィキメディアコモンズにあったから、これまで「六曲一双」なんて言葉も知らなかったが、ありがたくリンクを貼っておく。
 → 「左隻」 「右隻

 フルサイズで見ようとするとうちではブラウザが落ちてしまうので(貧弱)、数分かけてダウンロードしたのをあちこち拡大しながら、橋本治の文章を私は読んだ。できれば同じようなことをして続きを読まれたい――と思う。以下、右隻のほうを語る一部分である。
《“重い空気の中で歪んでいるもの”がある。それは“明確なフォルムを失ったもの”で、それが描かれる絵の中には、“明確なフォルムを失わせるもの(空気)”と“明確なフォルムを失いながらも存在しているなにか(松)”の二つが同時にある。絵の中でこの二つが一つになる時、それはそのまま、“存在の一つのあり方”を示すものになるだろう。「この世界の中で、霞みながら、滲んでぼやけそうになりながらも、なにかは確実に存在している」――あるいはもっと進んで、「この世界は混沌とした一つの塊である」と。[…] ところがしかし、この絵をよく見れば分かるが、長谷川等伯は、霧とか靄とか霞なんてものを描いてはいないのだ。》

《右隻の左から二番目の面にある、薄墨の空気の塊――これは明らかに“霧”か“靄”か“霞”なのだが、しかしこの薄墨は、また同時に、“そうした空気の中で滲んで見える松の葉”の表現でもある。画面の左端へ漂って行こうとする空気、あるいは、左端から漂って来た空気は、この部分で、最も重く濃くわだかまっていると見えるのだが、しかしこの薄墨の表現は、本当は“空気”ではなく“松の葉の茂み”なのだ。“松の葉の茂み”がそのまんま滲んで膨れて拡大して、空気の中に溶け出している。画家は、そのように描いている。薄墨の粗いタッチで松の葉を描いて、その上にまた薄墨を強く重ねて、まるで松の葉がハレーションを起こしたようになっている。「水分を吸って膨張した松の葉が、内側からその輪郭を押し破って、空気の中に侵食して行った」というのが、この部分だ。よく見れば分かる。これは、「濃密な空気が松の輪郭を侵した」ではなく、「膨張した松が空気を侵した」なのである。画家の筆遣いが、ここの一ヵ所でだけ、なんだかヤケを起こしたようになって、グイグイグイと薄墨の筆が圧しつけられている。ここのところだけ、薄墨が銀粉をまぜられたみたいになって、ハレーションを起こしている。それは“霧”を描いた結果ではなく、“霧の中の松”を描いた結果なのである。「重い空気の中で滲む松林」を描いて、しかし長谷川等伯は、その「対象を歪ませる空気」を描かない。彼が描くのは、「そのまんま質量のある空気になってしまった松」なのである。
 この右隻全体を見れば分かるが、この屏風図の描かれ方、この屏風絵を描く画家の興味の中心は、「霧や靄や霞といった重い空気の中で変形した松のフォルム」なのである。だから、「対象の輪郭を滲ませる重い空気の中にある松林の絵」を描いて、この絵の作者は、「それをする空気の重さ」を描かない。ここに描かれるものは、「遮るものがなにもない中でクリアに見える、不思議な松のフォルム」なのである。》

《ここには、霧とか靄とか霞という“重く濃密な空気”はないのだ。ここの空気は軽く透明で、そこに不思議なフォルムを見せる松だけがある。だからこそ、この絵はおもしろい。極言すれば、この絵を描いた長谷川等伯は、「まともなものを描いてもおもしろくない。まともじゃない、阻害されて歪んだものを、どのような筆遣いによって描くのかを考えることこそがおもしろい」と言っているのである。この絵の作者は、「自分の持っている筆のタッチは、このような表現をも可能にするのか」と、そのことをおもしろがっていて、その“特殊を描くタッチ”が、そのまま“的確な描写”になっている。だからこそこの絵は、「にくったらしいほどにうまい」のである。》
「その五十 ジャズが聞こえるもの」 pp120-1

 いかがなものだろう。
 だいたいにおいて、文章として書き留めることができるのは、形にならない「思ったこと」や「感じたこと」のごく一部でしかないはずなのに、ここでたしかな言葉を使って組み立てられ、だれにでも読めるよう印刷されている橋本治の文章より多くのことを、私はこの絵に「見て」いただろうか。とてもそんな気はしない。
 鑑賞して感じたことの一部を文章にするのではない。このくだくだしい言語化が、鑑賞そのものなのだと思う。文章が鑑賞している。いわば橋本治も、形のない空気、感じに委ねるのではなく、形のある松を描くように具体的な言葉を連ねている――とか下手なことを言うよりも、この絵をしばらくじっと見て、またこの文章を読んでいたい。
 このあと、たっぷり左隻についての文章が続き、いったん弟子筋の画家が引き合いに出されたあと、左隻と右隻で大きくズレている紙継ぎの謎にまで、橋本治は一気に迫る。面白くてたまらない。
 そんな1章1章が積み重なって、この第3巻だけで20章にもなる。いままで知らなくて、興味もないことについて“新説”が加えられているらしいのを見物するのが楽しい、と思わされることじたいの楽しさ、などというまわりくどい面白さに引っぱられながら、しかし「面白い」というのはそれだけで単純なことでもあるよな、などと考えつつ夜な夜なページをめくっていって、1冊まるまる堪能した。ほんとうに至福の1週間だった。
 図書館に返してしまう前にとくによかった章を無理して選ぶと、この「その五十 ジャズが聞こえるもの」のほかでは、狩野永徳を扱った「その四十八 安土桃山時代的なもの」と、「その五十六 過ぎ去ったもの」がとくにキレキレですばらしかった。
(前者では永徳を、信長・秀吉より早い、時代の体現者とする。後者では「彦根屏風」について、目につくままだらだらと続けられるように見えた説明が最後の1ページで急速に収斂、この絵のあたらしい姿が立ち上がる。「うーわー」と小さくうめきながら読んだが、どちらもおそらく、むちゃくちゃに勝手なことを言っているのも伝わってきて、それもまた楽しい。もうこの本については、褒めちぎる言葉しか出てこない)

 ところで、かの長谷川等伯「松林図屏風」が収蔵されているのは上野の東京国立博物館で、公式サイトでは小さい画像しか閲覧できないのが大いに不満だったが、よくよく見れば、「2013/01/02から本館2室にて展示予定」などと、さりげなくすごいことが書いてある。
 何があっても、これは行きたい。ぜひ行きたい。そして『ひらがな日本美術史』も、自分で全巻そろえたい。


ひらがな日本美術史〈3〉ひらがな日本美術史〈3〉
(1999/12)
橋本 治

商品詳細を見る
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。