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2012/06/20

橋本治『ひらがな日本美術史 3』(1999)


 こないだ赤瀬川原平の名画読本 日本画編 どう味わうかを読み、どの絵もたいへん魅力的に鑑賞されているなかで、いちばん前のめりになって「すごいすごい」と語られていたのが長谷川等伯の2作(「枯木猿猴図」と「松林図屏風」)だった。
 どちらも名作中の名作とされているのだろうに、私はそれまで名前も知らなかった長谷川等伯、「ああ!こういうときに読むべきなのがあの本なのかもしれない」と図書館に行って、そういう本があるということだけは知っていた橋本治の『ひらがな日本美術史』、ずらり全7冊が並ぶうちの第3巻を借りてきた。


ひらがな日本美術史〈3〉ひらがな日本美術史〈3〉
(1999/12)
橋本 治

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 よく見たら(チラ見でも)表紙がすでに「松林図屏風」の一部分なので期待は高まるものの、落ちついて最初のページからめくっていくと、そのようなとっかかりがなくても、ごくごく単純な意味でこの本はめっぽう面白かった。まずそのことについて書く。

 第1巻と第2巻を読まずにいきなり入ったこの3巻では、安土桃山から江戸時代に入ったあたりの美術品が扱われる。
 図版が豊富なうえに1枚1枚が大きく、きれいなのも楽しいし、いまさらながら、本当にいまさらながら、橋本治の“噛み砕き力”は無類である。
 たとえば「その四十三 絢爛たるもの」という章では室町時代の着物についてあれこれ語られるが、「織りの着物」と「染めの着物」では模様がどうして・どのように違ってくるのかという説明を面白く読んでいる自分に自分でおどろいてしまう。なぜ、これまで興味のゼロだった着物の話を?
 だって、面白いのである。やたらと詳しい説明が、あきらかに個人的な関心に貫かれてぐいぐいページの上を進んでいくのを追うのが面白く、もっと読みたい、もうずっと読んでいたい、と思わせるように書いてある。
 そして奇妙なことに、読んでる最中の自分をさらによく観察してみると、橋本治の説明のうまさ・語りの巧みさによって、これまで興味のなかった着物への興味が生まれて面白い、というのでもたぶんないのである。
 依然として着物に興味はない、興味はないままなのに(着物は例です)、それについて書かれてある文章は面白くてどんどん読んでしまっているという、そのことも面白いと、どうやら私は思っている。
 じゃあ興味って何なんだ、という別の方向へもそれこそ興味が湧いてくるのだが、おそらくここにあるのは、どれだけ個人的な関心に発し、どれだけ偏った想像をたくましくしても、対象(着物)への距離と読者(私)への距離はいつでもきちんと保つこの人の文章でもってはじめて現出させることのできる、“橋本治の空間”なのだろう。
 あくまで素人・門外漢であるとのスタンスを崩さない橋本治は、美術品の前に畏まったりはぜったいしないが、こちらを子供扱いもしない。それは、繰り返しになるけどこの人が、ひたすら自分の関心にのみ貫かれてものを書いているということの言い換えでもある。

 そんな調子で、鎧の胴の部分が箱形から筒型に変わったのはどうしてかとか、「小袖」と「大袖」の作りの違いとか、うねうねと書き続けられていく事柄のすべてを、こちらは面白がって読んでいく。
 美術品(絵、建物、茶碗、エトセトラ)に向かう橋本治は、あちらこちらをくどいほど見ては細かい事実を拾い上げ、いっぽうでは大きな歴史背景を縦横に語り、そうやって、ときにうっとうしいほどたくさんの言葉を重ねながら、とつぜん推測や飛躍に走ることもためらわないし、《ロマンチックな詮索》をしたくなったときには「これからロマンチックな詮索をするよ」と宣言してから存分にそれをする。
 そのぜんぶが、興味を持てるものについてでも持てないものについてでも、面白く読めるよう噛み砕いてある。そして、“まとめ力”も無類だった。
《貧乏になることができない金持ちは、「自分達にそれは出来ない」ということを棚に上げて、「自分達と違っている」と貧乏を笑う。「違う」だけが問題になって、まだその違いの持っている“よさ”が発見出来ない。余白を作る技法を持ちながら“余白を作る”ということをしないのは、そのためなのだ。》「その四十三 絢爛たるもの」p34

 これは「雪持芦水禽模様縫箔」なる着物についてのまとめだけど、もはや着物のまとめだけにとどまらなくなっているので笑ってしまう。
 いま、この部分だけ引用したせいで、“え? ただの一般論じゃないの?”と思われてしまわないか心配だ。そうではない。いや、作品から引き出されてくる一般論だから一般論なのはまちがいないのだけど、やはり、作品から引き出されてくる一般論は一般論ではないというか、いわゆるふつうの一般論を支える一般論になるのである。
「である」と言ってもおよそ説明になっていないので、個々の作品を鑑賞する具体的な言葉を引いてみよう。
 本書の中盤、「その五十 ジャズが聞こえるもの」という章で、いよいよ長谷川等伯「松林図屏風」があらわれる。長くなるので以下次回。


…続き

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