2012/06/06

赤瀬川原平『名画読本 日本画編 どう味わうか』(1993)

名画読本 日本画編 (知恵の森文庫)


 私が古本で買って読んだのは1993年刊の光文社カッパブックス版なんだけど、それを文庫化したのが、上に貼った光文社知恵の森文庫版(2005)だと思う。たぶんそうだ。きっとそうにちがいない。

 赤瀬川原平が、14点の日本画を鑑賞して解説をつけた本である。
 選ばれているのは超がつくほどの有名作品ばかりなので、私なんかでもたいてい見おぼえがあり、そして「なんとなくこんな感じだったろう」の見おぼえしかなかったわけだが、そういった名画が、ちゃんと見ることのできる人にはどんなふうに見えているのか、その入口を教えてもらえる。
 そんなふうに、この本はビギナー向けとして作られているはずだから(しかしビギナーじゃないってのはどういうことだろう。でもそれはともかく)、赤瀬川原平は多くの場合「斬新な解釈をこころみに提出」というほど先には進まず、じっさいに目の前にあり、だれにでも同じように見えているはずの絵の見え方に的確な言葉を添えるだけである。「だけ」なのに、もうそれだけで面白い。
 作品はすべてカラーで収められているので、まずそれをしばらく眺めてからこの人の文章を読むのだけど、読むほどに作品がよく思われてきて何度も絵のほうを見返す。その繰り返しで最後まですらすら進んだ。目から鱗が落ちる、という表現を最初に作った人の気持もたぶんこんなものだったろう。

 自分独りでは「よく見る」のはむずかしい。あっさりそう書いてしまうのもどうかだが、見るにしろ読むにしろ聞くにしろ、こういう本を読んでからは、本当にそう思う。
 なにしろ赤瀬川原平の伝え方のうまさは、いつもながら、ただごとではない。この人にあっては、外界のものを見る目と、それを伝える文章がぴったり一致している。自然すぎて見過ごしそうになるが、(そうなることも含めて)これはやっぱりたいへんなことだ。目と文章が一致すると、「押しつけがましさ」がきれいに消えるのである。手品のようだ。もっと読みたいし、教えてほしい。感想はそれに尽きる。あとは引用。

 葛飾北斎「富嶽三十六景 凱風快晴」に、「大物帝王学」との言葉をあててから、鰯雲や裾野の森林の、自然なランダム加減を面白がって(いまのリンク先のGoogleアートプロジェクトはどこまでも拡大できてすごい)、まとめかたが鮮やかだ。
《見事というのは、見ていて気持ちがいいということである。それをただの描き放しではなく、こういう版画という「頭を使う」絵の中で実現している。それがかえって逆転の二塁打みたいに、透明感を倍増させているのではないか。》

 喜多川歌麿「姿見七人化粧」には、どうしても「どきり」としてしまう、というところから分析を続け、
《女性は当然、鏡を見ながらも、後ろに人がいるのを知っている。少なくとも絵師の目があるのを知っているし、それが私であるのも知っている。その結果私が多少いけない気持ちになるという方程式も知っていて、そのいけない波長のちょっとした高まりの頂点を狙って、きらりと、鏡面反射の視線を撃ち込んでくる。
 これは計算というのでもない。人間とはそういうものなのだ。だから女性はそれを知っているといっても、頭で知っているのとは違う。頭ではなく体で、人間として知っているのだ。
 歌麿のこの絵には、そういう人間が描かれている。つまりこの絵には、男性も描き込まれているのだ。》

 最後、「つまり」という語の使い方まで教えてもらった気分である。
 東洲斎写楽の「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」について述べられるのは、言われてみれば当り前のことだが、それがこんなに簡単な言葉で書かれてあるという、そのことにあらためておどろいてしまう。
《もちろん絵の中に描かれた人物の緊張が、絵の緊張を加速させているということは多少ある。でもやはり名画を名画たらしめているというのは、色と形、そして筆の勢いや材質感だ。その意味で絵というのはみんな抽象画なんだと思う。
 写楽の絵を見ているとつくづくそのことを感じる。この色の軋み、形のうねり、絵膚[えはだ]の底光り、剃刀の刃先のような線の滑り、しかしそれをそういう絵画的要素だけの馬鹿正直な抽象絵画にしたんでは、むしろ息が詰まって動けなくなる。だからそこはふっと外して、人気芝居の役者絵にしてある。》

 こういう見方をしていったとき、この人が、長谷川等伯という安土桃山の画家にもっとも引き込まれる事情は、読んでいる側でも「ああ、そりゃ引き込まれるでしょうね」と自然に納得できるように書いてある。「枯木猿猴図」の(左側)と(右側)。ここで注目されるのは猿ではなかった。
《どこがそんなに新しいのか。
 はっきりいって、これは木の描写か、それとも、そこから離れた筆の痕跡そのものなのか、それがわからなくなっているところだ。
 つまり筆の跡が、木の描写を逸脱するぎりぎりのところにきている。それをもう突き破りそうになっている。桃山時代にである。[…]
 問題はその枝の付け根である。
 筆の線が、力まかせに打ち込まれながら、一転二転と裏返って、ほとんどたんなる筆の線そのものとなって伸びているのだ。
(ちょっとそれは……)
 と、思わず注意したくなったほどである。それは筆そのものの、むき出しの線ではないかと。》

《でもこの枝の瘤に発するらしい筆の動きは、明らかに描写を逸脱して、ほとんど乱暴そのものである。絵の線でも書の線でもない、ほとんど落書きの線だといってもいい。しかもそれを、それなりに描写内に収めた松の幹の、安定したところにいきなり、これ見よがしに打ち込んでいる。
 つまりアヴァンギャルドなのだ。現代なのである。》

 本書の中で、この部分だけがほかよりはっきり熱くなっており(「畏敬」という言葉さえ使われている)、それにつられて、こちらの目も氏の目の高さにまで引っ張り上げてもらえるような錯覚がある。楽しい。
 そのあと同じ作者の「松林図屏風」を取り上げて、人も虫もまだ起き出していない朝の早い時間、隠す霧と隠される松林、さらにその向こうに隠されているものの状態を綿密に描写している、と述べてから、
《大きな絵である。高さは背丈ほどもある。ざっくりとして、寝巻のままの等伯を見るようだった。朝飯前に筆をとって、途中朝飯で中断し、そのあとどこかへ行ってしまった感じである。》

 そんな「感じ」を読まされてしまったあとでは、もうその「感じ」から離れてこの絵を見るのは困難だ。でもそれがまた的確すぎて(的確すぎると感じられて)、私はすぐに等伯の小さい画集を注文してしまった。

 ほかにも、歌川広重の「亀戸梅屋舗」(彼の構図は「Z軸を持ち歩く」と評される)だとか、雪舟の「慧可断臂図」(岩肌を描く線は中央の達磨から何を引き出すのか)、与謝蕪村「鴉図」(降る雪の魅力!)などなど、名画についての名解説が続く。
 あと500ページくらい読みたい。見巧者=伝え巧者の名は讃えられてあれ、とつくづく思った。


 なお、モネやゴッホ、マチスなどなどを扱った“西洋画編”もあって、そちらも同じように楽しいです。

赤瀬川原平の名画読本―鑑賞のポイントはどこか (知恵の森文庫)赤瀬川原平の名画読本―鑑賞のポイントはどこか (知恵の森文庫)
(2005/04)
赤瀬川 原平

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