趣味は引用
ヴィトルド・ゴンブロヴィッチ「コスモス」(1965)
コスモス―他 (東欧の文学)

工藤幸雄訳、『東欧の文学 コスモス他』(恒文社、1967)pp185-338に所収


 親もとを飛び出した学生らしい「ぼく」と、その友人で勤務先の上司とうまくいっていないらしいフクスがある夏の日、それぞれ思い詰めた頭で林の中を歩いていると、針金で縛り首にされたスズメの死骸に遭遇する。いったい誰がこんなことを? これは何かあるにちがいない
 2人は元銀行支店長のレオン氏夫妻の家に間借りすることにした。たちまち「ぼく」の意識を占めるのは、そこで働く女中カタシアの唇(事故のためひきつれている)と、夫妻の若い娘レナの唇(みずみずしく肉感的)であった。唇の向こうに唇。ふたつの唇にはどんな関係が? そしてスズメと唇の繋がりは?
《ぼくらはズボンをはいた。
 部屋はいまや決然とした、明確な行動によって満たされた、この行動は倦怠、けだるさ、気まぐれから始まったものであったが、何やら低脳めいたものを内蔵していた。
 なまやさしい仕事ではなかった。》p210

 勝手に翻弄されていく2人。部屋の天井を見上げれば、傷が矢印をなしている。矢が指しているのは……あのスズメが吊るされていた方向だ!(誰が、何を伝えようとしている?) 意気込んで調べに行くと、今度は塀に木切れがぶらさげられているのが発見された。スズメと木切れ! 「謎」を「解明」するには女中の部屋に忍び込んで調べるしかない。果たしてそこでは、縫い針、ペン先、ヤスリが各所に突き刺してあった。いったいどういうつもりなのか? そして、え、レナは既婚だったんだよ!! なんだって!? もう大変である。
《僕には物語ることができない……この物語を……なぜならぼくは ex post[事後に。]話をしているから。》

《それにしても事後ではなしに物語ることはできないものか? どんなことにせよ、それ自身の無名[アノニム]な現われのなかで本当に表現し、伝えることはできない、あるつぶやきが生まれる瞬間、そのままにそれを伝えることはだれにもできないのではないか、混沌から生まれたわれわれは、描こうとする対象と結びつくことができず、それを目にしたとたんに、われわれの視線のもとで秩序が……そして形が生まれてしまうのではないだろうか……》pp207-8

 何事かを筋道立てて物語ることが、こうしているあいだにも無数に発生しては消える出来事、硬軟取り混ぜあっちこっちに存在する事物の群れのごく一部を因果関係の糸で結びつけ、吊り下げてみせる作為の謂いであるとは、とくべつにどうこう言うまでもない、当たり前のことだろう。上の引用は小説が始まってまもないページに書きつけられている。
 周囲に繋がりを見出して、そこから何ものかの意図――それも、悪意のあるらしい意図――を勝手にくみ取り、それを自分たちのまわりに広げることで作り出した状況のなかで「ぼく」とフクスは脅え、もがく(もちろん、状況は誰かに「作られた」ものとして感知される)。
 それがどんな意図なのか、一片たりとも内容はわからなくても、意図があることは譲れない。ああ、パラノイアものなのだなあ、と思って読み進むが、てんやわんやの「ぼく」があるものを実際に吊り下げることから自分も状況を作る側に参加したらしいこの小説の後半は、こんな説明ではぜんぜん見通しがきかない。

 何ものかが送ってくるサインを、繋がりの発見によって受け取っていた「ぼく」が、自分もサインを発する側にまわったら、自分こそ“何ものか”である。そして、発信する側にまわったのに、サインの内容はわからないままである。するとどうなるか。まず、たいへんに読みにくくなる。
《ある一つの対象に過度に注意を集中すれば、放心を招きがちである。その一つの対象が周囲をおおいかくしてしまうのである》p197

 ごく最初、始まって10ページ足らずでこんなこともわかっているくらい聡明である「ぼく」の目には、もはや繋がりしか見えなくなるし、頭は繋がりのことしか考えられなくなる。いや、「見えない」「考えられない」なら自省の滑り込む隙間があるからまだよかった。聡明さはそのままで、目は繋がりしか見ない、頭は繋がりしか考えない、それで彼の言葉は、繋がりについて、その繋がりのなかから語られるようになる。中身、知らないくせに! 小説の後半はそんなふうになっていく(たぶん、なっていく。よく判読できない)。
《鳥が空に現われた――高速で動かない――禿鷹か、鷹か、鷲か? ちがう、スズメではない、だが、それがスズメではないということによって、それは非スズメとなる、そして非スズメであるがために、どことなくスズメとなる……》p273

 おそらくこういうことではないか―― ふつう繋がりは、この世界を理解するための留め金として作られる。手がかりが何もないと、すべては流れていってしまう。放っておいても、人は無自覚に繋がりを作り、その留め金に頼って生きている。
 それなのに、まず、繋がりは自分で作っていると認識したうえで、なおかつ繋がりの内実を満たせない「ぼく」にとって、留め金は真の意味で失われる。世界は流動を始める。
 フクスからは急に関心が失われ、代わりに(代わりに?)「湯わかし」がせり上がってくる。かと思えば、小市民に見えたレオン氏の抱えていたこだわりの記憶がぶり返し、新キャラともども大騒ぎになる。およそ楽しくなさそうなピクニック。体臭のきつい女。とばっちりをくらう司祭。エトセトラ。そして、それらを描写する意味不明な造語の数かず。

「ぼく」が集中し、小説は放心するから、何が書いてあるのかじつのところはわかりようがない、というところまではなんとかわかったと思う。べつに何かが「わかる」ことを求めて小説を読んだりはしていないつもりだが、この小説に“秩序(コスモス)”という題をつけた野心の片鱗くらいは感じとれたような気がする。でもどうだろう。
《おれは妖女と戦っているのか、生きた神に挑んでいるのか!……これは何? これは何か! 太陽のように熱い甘い夢が、草を、花を、山を包んだ、草の葉ひとつそよがない。ぼくは動かなかった。立っていた。だが、ぼくの立ち往生は次第に無責任なものとなり、気違いじみてさえきた、ぼくには立っている権利がなかった、それは不可能、行かねばならない……それでも立っていた、》p305

 ポーランド-アルゼンチンの鬼才・ゴンブロヴィッチとのファーストコンタクトは、こちらの完敗だった。1965年に出たこんな小説が、2年後には翻訳出版されているというのもすごいことだと思う。



 ○  ○  ○

■ この単行本、ほかの収録作はブルーノ・シュルツ「肉桂色の店」、「クレプシドラ・サナトリウム」の2篇。後者は抄訳。

■ 検索して見つかる感想ブログを3件。どれも非常に面白く、それだけでも「コスモス」を読んだ甲斐があったというもの。

・モナドの方へ:
 http://d.hatena.ne.jp/leibniz/20051013/1129275910

・「石版!」:
 http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20080721/p1

・キリキリソテーにうってつけの日:
 http://d.hatena.ne.jp/owl_man/20101003/p1
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