2011/12/03

若島正『乱視読者のSF講義』(2011)

乱視読者のSF講義 
国書刊行会


 若島正がSFについて書いた文章をまとめた本。
 タイトル通りにSFの短篇を1篇ずつ取りあげた12回の講義が前半に収められ、後半には、より広くSFを扱ったさまざまな文章と、特別にジーン・ウルフを論じたり語ったりしたものが集められている(ウルフの超短篇も訳載+読解されている――「ガブリエル卿」)。
 といっても、SFに詳しくない私のような人間にもたいへん面白く読めた。それは乱視読者・若島正の姿勢が一貫してこのようなものであるからだろう。
《わたしがよりどころとする立場は、単なる小説読者として小説を丁寧に読むことであり、SFというジャンルの中だけにしか通用しない議論にはさほど興味はない。》p15

 そういえば『乱視読者の帰還(2001)にも、忘れがたい一節があった。
《作品を論じるにあたって、わたしは難解な批評用語を弄ぶつもりはない。丸い卵も切りようで四角というのは、わたしの趣味ではない。むしろ、丸い卵は丸いということを言うつもりだ。わたしは小説の勘所にしか興味がないのである。》p228

 この姿勢はもちろん本書にも共通しており、とくに前半の講義部分でそれは顕著だ。毎回、ひとつの短篇を取りあげ、必要最低限の筋の紹介と必要最小限の背景の説明がなされ、あとはたしかに「丁寧な」と形容するのが最もふさわしく思われる読み解きが展開される。
 膨大なSFの読書体験と、膨大な読解の実践経験を持つ人による講義が、そのどちらも持たない読者(私のことです)にも「手が届く」、少なくとも「手が届くように感じられる」のだから、おかしな感想だが、読みかたの丁寧さにも書きかたの丁寧さにも、ありがとうございますと言いたくなった。

 ではこれがきわめて正攻法でわかりやすい、SF初心者に向けただけの講義およびエッセイかといえば、おそらくそうではない。おそらく、と書かざるをえないのは私じしんは初心者だからだが、そんな留保は捨てて「そうではない」と言い切りたい気持でいっぱいだ。
 前半の講義部分で、H.G.ウェルズから始まりスタニスワフ・レムで終わる作品の選択にしてからがこの人独自のものであるだろうし、あくまで個々の作品に即しながら、それでもたびたび繰り返されるテーマ群――たとえば「“言葉で表せないもの”は小説に書けるのか」といった問題は、SFだからどうこうではなく、人間が書く小説の限界をさぐる様相を呈して刺激的なことこの上ない。
(レムがすごい、というのは(もしかすると未読の人からも)納得を取りつけやすいかもしれないが、その源流はウェルズにあり、しかもウェルズはもっとすごい、というのは(未読の私には)新鮮でおどろかされた。読まなくては)

 そして、決して単純でも簡単でもない小説の勘所を明快な言葉と論理で解きほぐしていく中で、ときおり華麗なレトリックが炸裂するのがたまらない読みどころになっているのは、若島正のほかの本と変わらない。
《従って、ディックの短篇の「にせもの」とレムのディック論の「にせ者」とは厳密には同じではない。それはわかっているのだが、ディックとレムのあいだに「にせもの」という(必ずしもほんものとは言えない)補助線を引ける、その偶然を今回は利用してみたい》p119

 このような行文に出くわすたびにページの端を折っていったが、「まったく普通の言葉だけを使いながらすごいことを言っている」例は、読み返すほどに多くなった。
《こうして、形式的にも内容的にも、「GOLEM XIV」はSFから、そして小説そのものから逸脱することになる。》p133

 使われている言葉がまったく普通なだけに、いま一部分だけ引用しても、この一節が出てくるに至る本文の運びの迫力は伝えようがないのがとてももどかしい。その最たるものとして、トマス・M・ディッシュを論じた講義の第十回、次の一文が出てくるページの端を、私はほかのどのページよりも強く折った。
《距離ができると、不思議にわかりやすく見えてくるものである。》pp108-9

 普通だ。まったく、普通だ。だが、「いま、この人は何かものすごいことを言ったんじゃないだろうか」という、かすかで強烈な印象に引っぱられ、読み終えた第十回をもういちど最初から読み直してみるとき、まだ前置きといっていいあたりに置かれたさっきの一文がスプリングボードになって後半の論旨が方向付けられていく呼吸には、あらためて目を見張らされるのである。どうか実物で確かめられたい。
(講義部分では、毎回の締めとなる最後の段落が、つねに格好よく決まっている。そのうち「今回はどう締めてくれるのか」も期待して読んでいった)

 あわせて、これだけ面白く発見に満ちた書物を読んでいて、私がもっとも「!」となったところをメモしておきたい。それは、いちばん低級な小説は何か、と訊かれて「SFだ」と即答した英文学の教授のことをカート・ヴォネガットが書いており、そんなのてっきり作り話だと思っていたが、あれはどうやらロバート・スコールズだったらしい、という説の紹介だった(p219)。そうか、推測とはいえ、まさかのスコールズだったか……。
 しょうもないといえばしょうもないエピソードである。しかし若島正だって書いているではないか――
《本を読む意味は、どこまでも個人的なものである。発見の驚きと喜びは、たとえそれがどれほどささやかなものであっても、読者個人にとって大きな意味を持つものであればそれでいいのだ。》pp270-1

 誰よりも魅力的に小説を読み解ける人がこんなふうに考えていることに、おどろくべきなのだろうか。こんなふうに考えている人だからこそ、誰よりも魅力的に小説を読み解けるのだと私は思っている。




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