2011/10/16

長嶋有『安全な妄想』(2011)

安全な妄想
平凡社

 だれもがあの番組を見たという。だが、いったいだれがあの番組を本当に見たというのか。

 長嶋有のエッセイ&エセー集『安全な妄想』に収められた「愛しのジャパネット」および「続・ジャパネット考」というふたつの文章は、ジャパネットたかたから何の利益も得ていない人間の記したものとして唯一、ジャパネットの社史に刻まれてしかるべきテクストであると思われる。
 だれの人生にとっても素敵な何かではない、《むしろノイズに近い存在》であるあのテレビショッピングを、2008年には《ほぼ毎晩みていた》という長嶋有が描き出すのは、見ているつもりでまるで見ていなかった、あの番組の姿である。
《彼らはいつも「ぽん」と押す。デジカメのボタンも、ハードディスク内蔵テレビの録画ボタンも。「ご覧のように、ぽんと押しますと」という。怖い機器ではないことを擬音で示している。女性陣は色のことを「お色」という。》「愛しのジャパネット」p65

《「最近は社長ではなく若い男性がやっている」と簡単にいうが、それは誰のことか。塚本君だろうか、中島君か、それとも浦川君だろうか。若者だけで複数いるのである。》「続・ジャパネット考」p189

 指摘の正確さのみならず、《と簡単にいうが、》がすでにおかしい。この言い回しの中に、あの番組を本当に見た者がいる。
 ここで十全に発揮される観察力と、それをもとにふるわれる熱弁は、当然ながら対象をジャパネットに限定しない。本書の1冊を通し、外部のさまざまな事物におぼえる“納得のいかなさ”や、内面に渦巻く私的なこだわりの漏出をきっかけとして急に起動される考察は、うやむやなままにこれはもとからこういうもの、と割り切って受け入れていたこの世界を、たちまち長嶋有の世界に書き換えていく。そこには、「餃子パーティー」と称されるイベントの前半、参加者全員で餃子を包んでいる時間は「パーティー」の名に値しない!といった主張を理路整然と(かつ、拳を振り上げて)述べる大人がいるのである。

 発想が、あるいは目のつけどころがまったく独自なのか。そうではないと思う。少なくとも、それだけではないと思う。たとえば、携帯電話の機種を変える際に待たされる四~五十分についての文章。
《先日、久々に機種変更したのだが店員は「そうですね、だいたい」と僕ではなく壁の時計をみながら、やはり四十分といった。》
「待ち時間」p216

「だいたい」で言葉を句切ったあとの、《僕ではなく壁の時計をみながら》というしぐさを見たおぼえは多くの人にあるはずだ。“そこを拾って文章にする”のが特異なのであり、その選択まで含めた観察眼があれば、とくべつに珍奇ではない発想も、にわかに輝きを帯びる。
 だれによってでもいい、初夏を迎えると自動販売機の「あたたか~い」がすべて「つめた~い」に切り替わってしまう、だけど夏だって「あたたか~い」が飲みたいときがあるんだよ、という意見が口にされるのを、または活字になっているのを、わたしたちはこれまでにいったい何十回聞かされ、読まされてきただろう。
 そんな、内容じたいはもっともでありながら(もっともであるだけに)、えんえん繰り返されてありきたりになってしまった物言いを、長嶋有もまた取り上げてみせる。いまいちど、あえてこの件を訴えかけるには、人はどんな声音と話法をもって向かうべきなのか。ハードルは高い。回答はこうだ。
《少し前、暑い日があった。
(くる!)と思った。授業中に一人だけ「魔の波動」をキャッチしてしまい、顔をあげた少女のように。
(近い)とも。街の自動販売機の、あたたか~い、が、つめた~い、に置き換わってしまう瞬間がやってくる!
(待って!)授業中なのに立ち上がってしまう。
「どうした、長嶋」チョークを持つ手を止め、怪訝そうな老教師に早退を告げ、後ろの扉から駆け出す。
(いけない!)「あたたか~い」をなくしてはいけない! 少し暑くなったからって! だってまだ、肌寒い日がくるもの!
 なぜ自販機のホットドリンクはすぐになくなってしまうのだろうか。》
「あたたか~い」pp36-7

 最後の1行での戻りっぷりがたまらない。
 ではでは、広く共感される題材を記述する、文章力が特異なのか。それはもちろんそうである。だがページをめくるほどに、やはりそこだけには還元されない、根本の部分がどうかしている例も次々に出てくるのだ。
 引用はしないが、好みの女性に「してほしい格好」として溶接工のマスクを挙げ、作業中、こちらに気付いた彼女がそれを外してくれるシチュエーションがなぜ魅力的なのかを考察し、説明を行う文章は、ジャパネットと並んで本書の白眉をなしていると思う。
 というのはつまり、わたしはそこで示される理路にかなり説得されてしまったからだった。しかも長嶋有じしんは、論理の筋道に乗って、溶接工よりさらに遠くへ行く。どうかご自分で確かめられたい。

 こうしてみると、いきなり発生しているように見える妄想も、じつは強固な理屈の積み重ねの末に花開くものであり、理屈を支える考察は小さな観察ひとつひとつの結果であることからして、妄想力と観察力がひとりの人間の中に同居するのは当然のこととして納得されてくる。
 今年2011年のはじめ、大相撲の八百長メール事件が世間を騒がせた。あの問題について、メールの内容ではなく文面そのもの、それも語尾にだけ注目した人間を、わたしは長嶋有のほかに知らない。そんな人、いないと思う。
(さらに長嶋有は、「そのメールに絵文字は使われていたか」を気にし、新聞社に尋ねさえしたという)
《僕が気になるのは「では、ゆっくりと休んでね!」とかだ。「橋を渡った所で待っているよ!」も異常だ。》

《「最終的には右をさして寄り切りかすくい投げ辺りがベストだと思いますよ~」。
[…]頻出する感嘆符に「思いますよ~」。これまでの八百長疑惑の時と今度の件との決定的な差異が、このノリにこそある。
 我々も時にメールがきついニュアンスにならぬよう「~」や「!」をつけるが、彼らはそれのみを選び続け、別のノリを迂回した。》
「思いますよ~」pp214-6

 観察力の人・長嶋有はなによりも、言葉を観察する作家だった。それでいて、この『安全な妄想』の雰囲気は、特設・公式サイトと見事に一致する。これはいったいどういう本で、長嶋有とはどんな人物なのか。読み終えて、ますますわからなくなっているのである。

 終わりにもう1ヶ所、「続・ジャパネット考」から、どうしても引用しておきたいところがある。あの番組での高級ブランド腕時計の売りかた・買われかたに疑義を呈したあとである。
《ただ、白手袋の浦川君が「素敵ですよね、クリスタルガラスに長針と短針が・・・・・・」とかいって拡大されたオメガの文字盤が、本当にそのときの時間を指している時があり、そのことにはかすかに興奮もする(やはりそんなテレビ放送は、他にない)。》p193

 ジャパネットで売られるオメガの時計によって、テレビの中とテレビの外がつながっていることに気付かされた、おどろき。それを伝える長嶋有の文章によって、この瞬間、エッセイの中とエッセイの外はつながっている、と読んでいるわたしも気付かされ、そのことにかすかに興奮した。
 もう少し詳しく書く。
 ほとんどすべて同時代の時事風俗を扱っている『安全な妄想』の中でも、この一節だけ感触がちがう。ナマの時刻がぜんぶの虚飾をはぎ取り、テレビの枠さえ無化して“事実だけになる”瞬間を書いたこの部分の印象を説明するのに、唐突だが、「小説っぽい」という以外の言葉をわたしは持たない。
 というのは、この感じには(新聞記事でもルポ・ドキュメントの類でもなく)まず小説でいちばんおぼえがあるからで、それこそ長嶋有なら『ねたあとに』(2009)がすぐに連想される。山荘に集まって遊び続ける大人たちを描いたあの長篇のうち、携帯電話の電波が入りにくいという話題が出るところ。
《「何年か前に、コモローの友達が、電波がくるかもって屋根にのぼって着信してたよ」とおじさん(友達は、一応いるらしい)。皆で天井を見上げる。当たり前だが屋根の上は(もちろん、数年前の友達も)みえず、電球に虫がたかっていた。》p169

 ここの《皆で天井を見上げる。》の一文は、登場人物の「皆」だけでなく、読んでいるこちらまで、いっしょに天井を見上げる動作に加わらせてしまう。
(じっさいに見上げるのではなくても、動作の実感を与えられる)
 この小説は、ここのやりとりで突然、「皆」の中に読者までも“巻き込みにくる”。このやりとりを覗き窓にして、小説がこちらを見ているように感じられたのを、わたしは生々しくおぼえている。

 紙の上やディスプレイの上に書かれたものでありながら、不意にこちら側への通路を開く文章。そういうのが、わたしは小説の中でもっとも「小説っぽい」部分だと思う。そして「小説っぽい」文章は、小説ではないところでもたまに発見される。
 もともと生放送のテレビショッピングだから相当に薄かったはずの「あちら」と「こちら」を隔てるバリアを、まったくのゼロにまで解除するオメガの文字盤も、上の一節と似た働きをしているのではないか。
 だとすると、その不思議な瞬間のことを書き留めた長嶋有の文章が、同じようにこちらを高揚させるのも不思議ではない――いや、読み返すほどにいっそう不思議さが募る。
 ジャパネットも『安全な妄想』もおそるべし、なのである。



ねたあとにねたあとに
(2009/02/06)
長嶋 有

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コメント

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溶接工の女子萌え

長嶋氏の著作は未読ですが、溶接工の下りが面白くてつい考えてしまうと、思い当たる件がひとつ。「フラッシュダンス」という八十年代の映画はご覧になりましたか。あれ、考えてみれば溶接工の夜はダンサーの主人公女性、という設定でした。長嶋氏の深層意識刷り込みにそのあたりのリンクがあったら楽しいですが、世代的に噛んでいるか、どうか。こちらの充実した内容で、更新を楽しみに読ませていただいています。

Re: 溶接工の女子萌え

「フラッシュダンス」は未見なのですが、

> 考えてみれば溶接工の夜はダンサーの主人公女性、という設定

妙に惹かれるところがあるので、いずれ見てみたいと思います。

(3ヶ月、コメントいただいたことに気付かないままでいました。
 まだご覧になっておられましたら申し訳ありません)