趣味は引用
尾辻克彦『整理前の玩具箱』(1982)
整理前の玩具箱 (1982年)
大和書房


 尾辻克彦/赤瀬川原平の文章って何なんだろう。
 たとえば『芸術原論』(1988)という本のなかで、印象派の絵について書かれた部分がある。まず、《絵具を塗ることが一番楽しかったのは、やはり印象派の人々ではなかったかと思う。》としたあとに、こう続く。
《キャンバスにはいちおう風景や人物というものが描かれてはいるけど、それはただ絵具を塗る快感のための手続きである。それを塗る快感の残した痕跡が、結果として絵になっている。そう思えて仕方がない。だってそこに描かれているものは、何でもない風景ばかり。何でもない静物や人物ばかり。
 そのあとの「近現代」の絵画というのは、印象派と同じことはしていられないというわけで、テーマや工夫ばかりが開発されて、自意識が絵具の外に丸出しになってくる。思えば印象派の絵には、自我の蒸発という感覚さえ味わわされて爽快である。現代美術に魅力的な絵があるとすれば、それは必ず印象派の絵具と命脈がつながっているはずである。》pp72-3

 ひとつも難しい言葉を使っていないので、すらすら読めるが、すらすら読みながらおどろき、読み終えてまたおどろいて読み返す。どうしてこんなことを、ここまで簡素なふうに書けるのか。
 小説の場合も同じだ。前にも書いたのだけど、『父が消えた』(1981)をはじめて読んだときは本当にびっくりした。
《三鷹駅から東京発の電車に乗ると、ガタンといって電車が動いた。電車はどんどん動くので私は嬉しくなった。こんなこと、まったくいい歳をしてばかな話だけれど……。でもいつもと反対の電車に乗ると、よくこういうことがある。
 私はいままで、この三鷹駅からは東京「行き」の電車にばかり乗っていたのだ。だけど今日は三鷹駅から東京「発」の電車に乗って、八王子の墓地へ行ってくるのだ。電車はいつもの三鷹駅の固まった風景を、もう一枚めくるように動き出した。いつも見慣れていたつもりの風景が、どんどんめくられて通り過ぎて行く。珍しいことである。電車というのは反対に向かうとじつにどんどんと動くのだ。この電車が動くという感じが嬉しくなってくる。》

 日常的ではありながら、理屈をはみ出したところに生まれる不思議な感覚を、まったく日常的な言葉だけを使ってこんなにも的確にあらわせることに、つくづくおそれ入った。
 私が読んだなかでは、『国旗が垂れる』(1983)収録作のいくつかでは、日常的な言葉で的確に書きあらわすことにより、非日常的な出来事と感覚まで文章として定着させてしまう、一種の逆流まで起きていたおぼえがある。
 そこまでいかなくても、小説で新人賞をもらった短篇「肌ざわり」(1979)にしてからが、(これはたしか本人ものちにどこかで自慢していたけれど)冒頭がこうだった。
《本日は晴天である。カラリと晴れわたっている。》

 いや、いまのは例としてふさわしくなかったかもしれないが、すこしも飾らない言葉で、なんでも書きあらわすことができる、そんな気持にさせてくれる文章が尾辻/赤瀬川の書くものではあちこちに発見されるので、それを目当てに、私はこの人の本を年に1、2冊のペースで買ってきては、ちびちびとめくって面白がっている。

 それでさっきまで読んでいた『整理前の玩具箱』は、時事についての文章を集めた本だった。おもに1970年代後半から80年代はじめに連載として書かれたものがまとめられているから、内容としては昔のことに決まっているが(王貞治が現役である)、「古い」感じはぜんぜんしない。
 毎回、書くことを決めてから書き始めるのではなく、まず書き始めてから、続きをどうしていくか考えつつ書き進めるやりかたなのは読んでいてよくわかる。なるほど題材が古くなってもこのスタイルじたいは古くならない、とは説明がつけられる。
 でも、それだけではない。こんなことは証明のしようがないけれども、私が30年前にこの本を読んだとして、そのときに感じるのと同じ面白さを、いまの私はこの文章に感じていると思う。
《道路工事というのはいつもやたらと傲慢で派手なくせに、やめるときはいつも黙ってやめるんですね。予告もなしに、いつの間にかやめている。気がついたらもう普通の道路になっている。あれ? という感じ。だけどもう自動車なんていうのは、あれ? とも思わないで、当り前みたいなスピードでその道路を平気で走っている。そんなあなた、日露戦争なんて、昔の話ですよ、というような感じなのだ。それはそうだ。日露戦争なんて昔の話だ、と私も思う。だけど何か、こう、割り切れないものが残る。》p66

 ここで日露戦争をたとえに出してこれるのを何度でも「すごい」と言いたい。しかも、自分の受け取りかたを細かく振り返ると、「絶妙なたとえを出した」ことだけでなく、「ここに書いてもらったことではじめて、私はこのたとえが絶妙だと知った」のである。こういうことは、どうしてもメモしておきたい。

 つぎは千代の富士が出てきたころの話で(繰り返すが30年前である)、この力士が《今ノシて来ている》という勢いが、見ただけでわかってしまう不思議について。
《それは本人の表情だけでなくて、それを見る周りの反応の仕方にもあるのかもしれない。ウルフの勢いに、周りが感じ入っている。観衆の拍手のどこがどう違うのかわからないけど、その勢いがはっきりと観衆に反射していて、その反射して輝く観衆の勢いというものをまたウルフがはっきりと握りしめて、それがさらに自分の勢いとなって輝いている。それが口ではいえないけれど、とにかく見ていてわかってしまうのだ。おそば屋さんのテレビで見ている私にさえもその勢いというものが反射していて、その反射したものがテレビの中に返って行って、それをまたウルフが握りしめている。何だかそういう感じである。》pp40-1

《それが口ではいえないけれど、》と言いながら、こんなにも明晰に文章にできているじゃないか。そう思う。
 このような調子で、ホテルの火災事故について、日本の漁船が引き揚げて棄てた「新しいネッシー」について、インベーダーゲームについて、そのほか今ではちょっと見当がつかない時事風俗について、そして当時からしても10年前になる「横井庄一」が放っていた不吉な匂いについて、もろもろの考察が並べられており、文章のかたちで発揮されるこの人特有の観察眼を、丸1冊ぶん堪能できた。

 ところで、古本で買ったこの本には、こんな栞が挟まっていた。

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 この難解な写真とコピーを、尾辻/赤瀬川ならどのように読み取ってくれるだろう。そんなことを考えていた。
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