2004/04/12

その120 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


〈ネファスティス・マシン〉は、理論上の存在である〈マックスウェルの悪魔〉を実際に組み込んだ装置だということになっているが、それはそもそもどんなものだったのか。
 前々回で書いたように、あるひとつの系の中で「温度差がある」状態は「温度差がない」状態(熱平衡)へ向かっていく。温度差があればエネルギーが取り出せるが、徐々にそれはできなくなっていく。これが熱力学の分野でエントロピーが増えるということだった。
 だが、ここでひとつの思考実験として、「温度差がない」状態から「温度差がある」状態に逆転させることができたとしたら、と考案されたのが〈マックスウェルの悪魔〉だった。その働きは「その91」と「その92」に書いたけど、ここでもう一度まとめておく。

 ふつうの空気で満たされた箱をふたつに区切り、極小のドアを作ってそこに悪魔(知的生命体)がいるとする。悪魔は、動きの速い分子を右の部屋に、遅い分子を左の部屋へと選り分けていく。分けるだけではエネルギーが消費されないのに、この作業を続けていくうちに箱の中には温度差ができていくから、その差を用いてたとえばピストンを動かすことが可能になり、外から力を加えなくても永久に上下動を続けさせることができる。これって、熱力学の法則を守りながらそれを破ってしまう、永久機関の完成じゃないだろうか、というのがマックスウェルの提起したパラドックスだった。
 ここでは、動きの激しい分子とそうでない分子が入り混じっているはじめの状態(エントロピーが高い)から、両者がきれいに区別された状態(エントロピーの低い)へと、箱の中の状態が変化している。悪魔は、分類を行うことで熱力学的エントロピーを減らす働きをしたのだった。分類がエントロピーを減らす

 この変化は、情報の面から見ても面白い。最初、分子が乱雑に入り混じった状態では、ある分子ひとつが、箱の中で右側にあるか左側にあるかは知りようがなかった。ごちゃごちゃに混ざっているのだから、どっちに「ある」のか確かな情報はない。
 それから始まる悪魔の分類作業は、速い分子は右、遅い分子は左、というふうに分子の位置をひとつずつ確定していく作業、つまり分子の動きと位置の情報を得る作業でもあった。次第に、位置を知りたい分子が「動きが速いのなら右側にあるよ」「遅いのなら左側にあるよ」と、確かさをもって答えられるようになっていくだろう。分子の位置について不確かだった状態(エントロピーが高い)が、より不確かさの減った状態(エントロピーが低い)に変化していく。
 乱雑な状態から整理された状態へ、分類が進むほど、情報が増える。それは、情報が増えるほど分類が進む、ということでもある。情報を得る作業がエントロピーを減らすのだ。
 いま太字にした部分と、上で太字にした部分を見比べれば、なんだか同じようなことを言っているではないか。

 それはともかく、この仮想上の悪魔を実装したのが〈ネファスティス・マシン〉だったが、大事なのは、
(1)そんな悪魔がいたとしても上に書いたシステムは実現せず、
(2)だからネファスティスはある工夫を加えて〈ネファスティス・マシン〉を作り上げた、ということだ。

 まず(1)、どうして永久機関が実現しないのか。「そんな悪魔はいないから」ではなくて、そんな悪魔がいたとしても実現しない。
 スタンレー・コーテックスがエディパにマシンの原理を説明してくれたとき→その92、彼女は素朴にこう訊いた。
《「選り分けるのは仕事じゃないの?」とエディパは言った。「そんなことを郵便局で言ってごらんなさい。郵便袋に詰めこまれてアラスカのフェアバンク行きよ、〈こわれもの注意〉の貼り紙もつけてはくれないわ」
「それは頭脳労働だけど」とコーテックス――「熱力学的な意味での仕事じゃないんだ」 》p106/p119

 じつはここではコーテックスは半可通にすぎず、まったくの無知であるエディパのほうが正しいらしいことが、前回も参照した入門書に書いてある。

 悪魔が分子を選り分けるためには、少なくとも彼に分子が見えなくてはならない。「見る」ために必要なのは光である。分類じたいは「熱力学的な意味での仕事じゃない」のかもしれないが、「見る=情報を得る」ことはそうはいかない。
《まずガスも魔物も包み込んだ閉じた系を考える。この中で魔物は分子を認識し、その運動に関する情報を得なければならない。そのためには、魔物と分子の間にエネルギーの交換が必要で、それは光子によって媒介されるとする。この光子のエントロピーに対応する温度が魔物の体温よりも高くないと、魔物はそれを認識できない。
魔物のまわりには、魔物の体温に相当する黒体放射が満ちているからである。その結果、魔物が光子を受け取る過程は非可逆過程で、エントロピーが生成される。その値を計算すると、魔物が分子を認識することによって得た情報量に相当するネゲントロピーよりも、大きいことがわかる。だから、情報のネゲントロピーがそのままガスに返されても、全体としては、エントロピーが増えてしまうのである。》杉本 p124
*「ネゲントロピー」は、「負のエントロピー」「エントロピーの低さ」のこと

 注釈書でさらりと紹介されている(pp101-2)のもこの説で、マックスウェルの悪魔については、これが公式見解のようである。
 マックスウェル以降の物理学者のおかげで、たとえ分子を選り分けることのできる悪魔が存在したとしても、エントロピー増大の過程をひっくり返してエネルギーを作り出す役には立たないことが明らかにされているのだった。
(この話に出てくる“悪魔:Demon”は「知的生命体」の意味だけど、ネットを検索していて複数ぶつかった「こうしてマックスウェルの悪魔は除霊された」、という言い方をしてみたくなる気持はわからなくもない)

 だから、「選り分けるのは仕事じゃない」と言い切った(←イエローカード)コーテックスが、ただ単純に悪魔の存在を信じ、「本物の悪魔が入っているから〈ネファスティス・マシン〉はすごいんだ」と主張するのだとしたら(←イエローカード)明確にアウトで退場ものなのだが、曲がりなりにもヨーヨーダインの技術者、何度読み返してもさすがにそこまではっきりとは言っておらず、彼の理解の程度はうやむやなままに、あのシーンは終わっていた。件のマシンの説明は、いま、発明者たるジョン・ネファスティス本人に引き継がれたわけである。

 発明者までが、「悪魔はエントロピーを減らせない」ことを知らないはずはないだろう。悪魔の問題を解決した論文は、1929年には発表されているのだ→そのPDF
 実際、彼にはわかっているのだ――というところでもう1冊、やはり前回も引いた入門書から、悪魔のパラドックスを否定した部分を書き写す。さっきの引用と同じような説明で、悪魔が分子を「見る」ために増えてしまうエントロピーの量まで数式で示してから、
《要するに、マックスウェルの魔がせっかく仕事をして気体のエントロピーを減らしても、その分以上に魔自身のエントロピーが増えてしまうのである。だから、魔は決して熱力学の第二法則を超越した超能力者ではなく、やはり第二法則がちゃんとあてはまる「ただの人」だった、ということになってしまうのである。
[…] 光が吸収されて彼の体内のエントロピーが増え続けるということは、光のエネルギーが熱の形でどんどん体内に入ってくるということであるから、彼の体はどんどん熱くなってゆく。そして、その小さい体はすぐに熱病状態になって、間もなく死んでしまうだろう。いわば、エントロピーにうなされて死ぬのである。》堀 pp236-7

 仮定上の悪魔が仮定の上で確実に死ぬと宣告されるのを見て気の毒に思うのは不思議な感情だが、ところで、このあとにこう続いている。
《もっとも、体内にたまってくるエントロピーをどこかへ持ち運んで捨てることが出来れば、魔はいつまでも仕事を続けて、気体のエントロピーをどんどん小さくしてゆくことができ、またエントロピーの小さい状態を保っておくことができるだろう。しかしそれは系の外へ熱の形でエネルギーをはこび出すのと同じことだから、系を外界へ対して開くことであり、エントロピーの小さい状態を保つために系を外に対して開き、エネルギーの流れの中に置く、という、はじめに述べた状況に話はもどってしまう。》

 悪魔の体に溜まったエントロピーを、どうにかして外に捨てる。それができれば、この箱からエネルギーを取り出すことも可能になる。でもそんなことは無理だから、やはり永久機関は実現しないのだ――と、そのような説明のために上記の引用部分は書かれているのだが、じつは、小説中の〈ネファスティス・マシン〉を可能にしているのは、まさにここに書かれている通りのアイディアなのである。
 そしてそのために必要とされるものこそ、"the sensitive"(感度の強い人間)なのだった。

…続き



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