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2004/04/10

その117 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


 カリフォルニア州バークレーにあるジョン・ネファスティスのアパートで、〈ネファスティス・マシン〉を前に、発明家本人によるエントロピー講義が始まっている。
But it was too technical for her. She did gather that there were two distinct kinds of this entropy. One having to do with heat-engines, the other to do with communication. The equation for one, back in the '30's, had looked very like the equation for the other. It was a coincidence. The two fields were entirely unconnected, except at one point: Maxwell's Demon. (p84)

《しかし、エディパには、話があまりに専門的だった。確かにわかったのは、このエントロピーというものに、二種類あるということである。一つは熱機関と関係があり、もう一つはコミュニケーションと関係がある。一方の方程式は一九三〇年代にできたものだが、他方の方程式とじつに似ていた。偶然である。この二つの領域はまったく無関係であるが、一点において関係がある――〈マックスウェルの悪魔〉だ。》p129/p146

 この「エントロピー」をめぐる話のわかりにくさは、Lot 49 を構成する数かずの奇妙な謎の中でも独特のものだということになっている。
 というのは、ここには、エントロピーと〈マックスウェルの悪魔〉と〈ネファスティス・マシン〉の話じたいがそれぞれわかりにくいということと、それらの話がこの小説の中でどういう役割を果たしているのかがわかりにくいという、少なくとも二重のわかりにくさがあるからで、不透明な話ほど大事なものに見えるのはエディパも読者も同じである。

 いまあらためてこのあたりのページを読んでいて思うのは、文章に不思議な距離があるということだ。
 エントロピーについての知識を持ったネファスティスが、それを持たないエディパに向かって語る話のうち、彼女がかろうじて「こういうことか?」と理解できた内容だけが地の文に乗せて語られている。書きぶりは、そこに誤解が含まれていれば(読者に向かって)訂正を加えてくれる調子ではない
 ネファスティスじしんの言葉が出てきても、エディパには謎かけのようにしか受け取れないし、地の文の側でもやはり、それを解きほぐしてこちらの理解を助けてくれる様子はない。理解できないエディパの「理解できない!」という叫びはそのまま書かれる。
 ひどく率直で、だからこそ距離を感じる書き方だと思う。距離というのは、“ページの上に印刷されている文字面のうしろにあるはずの背景”から、自分が隔てられている感じのことだ。
 内容がよくわからないからここにはもっと説明があってもいいはずだ、ということだけはわかる、そんな種類の話が持ち出されて、しかし説明は与えられない。小説のこういう書かれ方は、エディパにも読者にも不親切に見える。
「いいのか、それで」と言いたくなるが、このネファスティスの部屋に来る前、スタンレー・コーテックスがはじめてマシンの話をした場面もそんな調子だった→その91

 エントロピーという奇妙な概念を扱った奇妙なマシンを扱いながら、理解と誤解をまぜこぜにし、説明をあえて自制したまま素っ気なく進む地の文。「それでいいのだ」と、たぶんピンチョンは思っている。
 だから次第に、この“解説を加えない”書き方は不親切というより勇気だと感じるようになったのだが、意図的にしろ結果的にしろ、そのせいで〈ネファスティス・マシン〉がいっそう「わけのわからない機械」としてこちらの気にかかるようになっている。
 小説がそんなふうにこちらを翻弄してくるために、注釈書でこの部分についた解説はP97からP111まで、15ページにも延びている(たぶん、全項目中で最長ではないか)。それを読むと、エントロピーについて、少なくとも「エディパよりはわかった」と言えるようになることはなる。
(「ひと通りわかった」とはとても言えない。「簡単には“ひと通りわかった”なんて言えない話であるよな」ということがわかる)

 だが、肝心のエディパがわかっていないのだから、こちらもわからないまま読むほうが、より彼女に近づけるのではないか、という気持も抜きがたいのである。
 エディパに近づくのはこの小説に近づくのと同じことだと思う。近づいて近づいて、できることならこの小説の内側に入れないものかと、ずっと考えている。それには、エディパの外にある知識は邪魔でしかない。
 いっぽう、エディパの持たない知識を集め、外側から彼女の立場を可能な限りよく見ていくことで小説に近づくアプローチもきっとある。小説はエディパではない。読書は外側から行われるが、十全な知識を持って向かえば、こちらと小説との段差は乗り越えられるのじゃないかとときどき本気で思っている。
 しかし、ここで迷ったところで、できることが増えるわけでも変わるわけでもない。結局のところ、エディパに乗り移るほどには読者としての立場を失えず、ついつい調べてしまった小説外の情報を書き込まずにはいられないくせに調べ尽くすこともできない、どっちつかずで中途半端のままページをめくり、キーボードを叩いている次第である。このおぼつかない足取りで、エディパのあとを追って行くほかない。
 へんなことを書いた。以後、数回に分けて書く「エントロピー」についての話は、まちがいだらけか、正誤の判断以前のものでしかないだろう。

…続き

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