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その108 ― ピンチョン Lot 49
競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


 (ここは前回の引用部分からつながって流れている)
In the space of a sip of dandelion wine it came to her that she would never know how many times such a seizure may already have visited, or how to grasp it should it visit again. Perhaps even in this last second --- but there was no way to tell. She glanced down the corridor of Cohen's rooms in the rain and saw, for the very first time, how far it might be possible to get lost in this. (p76)

《タンポポ酒を一口すするだけの時間にエディパが思ったことは、すでにいままでに何回そのような発作に見舞われているのか、次に見舞われたら、どのようにして掴まえたらよいのか、まるっきりわからないだろうということだった。ひょっとしたら、いま、この一秒間にも――だが、わかりようもない。エディパは雨の日のコーエンのアパートの続き部屋の通路を見はるかしながら、いまはじめて、このようにして果てもなく迷うことがありうることを知った。》pp117-8/p132

 手掛かりを探してあちこち動き回りながらエディパが求めているのは、気になる事物の意味を明らかにし、つながりのありそうな出来事のすべてに説明をつける、合理的な解答ではなかった。表向きはそういうものを追っていても、事物のあいだのつながりは「自分で埋める」、意味は「自分で創る」ものだというのが彼女の自覚したスタートラインであるはずだった(→その89→その100)。

 それが前回と今回の部分を読んでみると、エディパは「自分でつながりを創ろう」と思いながら、やっぱり自分の外に真実を求めていたように見える。
 あるいは、自分でつながりを創るといっても、そのつながりは、みずからの体を張った探求の報酬として、自分の外から自分のもとに真実として到来する――そのような事態として「つながりを創る」行為をとらえているのかもしれない。
 いずれにしても重要なのは、エディパにとって真実とは“聖なる体験"で、それゆえ俗なる自分の知覚を越えるのじゃないか、というところまで突き抜けてしまっていることだ。
 これから探求の果てに真実を体験しても、あとから確かめられないのは大きな問題だが、《すでにいままでに何回そのような発作に見舞われているのか》わからない、というのも問題だ。じつはもう真実は到来しているのかもしれない。そもそも、何を探すのか。
《いまはじめて、このようにして果てもなく迷うことがありうることを知った。》

 あらためて、この小説はこれからどうなるのだろう。
 探求物語としてのLot 49 は、「私はひとつの世界を投射すべきか?→その89の時点で底が抜け、いまの“真実=聖なる体験=届かない”で、天井も開いてしまった。この小説の中に謎を閉じ込めておくのは、無理であるように思われる。

 しかし、こういったちゃぶ台返しが、様々な手掛かりの発見と並行して起きるのがこの第4章のめまぐるしさである。
 呆然とタンポポ酒をすするエディパ(それは読者の姿でもある)の前に、すかさず今度は、ごくふつうの意味で重要な手掛かりが――具体的で、世俗にまみれた小さな手掛かりが――コーエンから示されて、小説の軌道は再び“謎を追いかける”方向へ戻される。

…続き
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