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その107 ― ピンチョン Lot 49
The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 独り者のコーエンは、エディパに自家製のタンポポ酒を出してくれる。タンポポは2年前に墓地で摘んだもので、その墓地はもう高速道路を作るために取り壊されてしまいましてね――

 たちまちエディパは「信号を識別」する。というのは、高速道路の建設会社が墓地を取り壊す際に、掘り起こした人骨を煙草会社にフィルターの材料として売る、という話を以前に聞いていた→その58からだ。つながりがある、と彼女には確信されるのだろう。
 だがあのときの会話では、「ピアスの場合は墓地ではなくて、イタリアの湖から引き揚げられた人骨を使っていた」と説明されていたのだから、この連想は、つながりと言ってもいわば“空白のつながり”のようなものである。それは、つながっているのかどうか。
 しかしそんな疑問を挟ませまいとするかのように、というよりはむしろ、ないつながりをつなげる理路を拓こうとするかのように、地の文は一気に畳みかける。今回と次回の引用文はひと続きであり、ひと続きであることに意味の大半がかかっているのだけど、便宜上2回に分けて読む。
She could, at this stage of things, recognize signals like that, as the epileptic is said to --- an odor, color, pure piercing grace note announcing his seizure. Afterward it is only this signal, really dross, this secular announcement, and never what is revealed during the attack, that he remembers. Oedipa wondered whether, at the end of this (if it were supposed to end), she too might not be left with only compiled memories of clues, announcements, intimations, but never the central truth itself, which must somehow each time be too bright for her memory to hold; which must always blaze out, destroying its own message irreversibly, leaving an overexposed blank when the ordinary world came back. (p76)

《事態がここまで進展して来ると、この種の信号を識別することができるようになっていた。癲癇患者に識別できると言われているのと同じだ――発作を予告する、ある種の匂い、色、澄んだ、突き刺すような装飾音などを。あとになってから憶えているのは、この信号だけ。信号とは、じつは無価値なかす、世俗的な予告であって、発作中に啓示されたものとは無関係である。エディパは、これが終わったとき(終わるものだとして)、自分にもまた、残っているものは手掛かり、予告、暗示などの記憶が集まっているだけで、中心にある真実そのものが残ることはないのではないかと思った。中心にある真実は、なぜか、いつ出現しても明かる過ぎて記憶に耐えない。いつだってパッと燃えあがって、そのメッセージを復元できないように破壊してしまい、日常的な世界が戻ってきたときに残っているのは露出過多のための白紙だけということになるのではないか。》p117/p132 *下線・太字は引用者

 たぶんここでは、小さな事物から啓示の予告を感じ取る → 啓示の到来 → 啓示が過ぎたあと、の3段階が語られている。はじめと終わりは世俗的=日常世界の出来事であり、ただ啓示だけがそのような世界を離れた、非日常、あるいは超常的なものである真実を一挙に開示する、とエディパは考えている――と地の文は語る。

 とつぜん手掛かりのほうで自分のところまでやって来て、そこから一瞬、真実を幻視しかける。取り逃がした、と生々しく実感することにより、真実をもたらす啓示があったことが事後的に認知される。そんな経験をエディパは重ねてきた。
 それは感度強化ゆえの思い込みかもしれない、との可能性を残す補足はこれまでも丁寧に施されていたが、ここでいよいよ、そんな真実ははなから自分の手には掴めないものなのではないか、という地点にまで彼女は至っている。
 手掛かりも予告も、真実そのものとは無関係である、と地の文は言う。世俗の物事に囲まれて暮らす普通の人間にとって、啓示を組立てる素材は、些細でつまらない日常の事物に決まっている。それは「その3」で夫ムーチョの神経を苛んだ、中古車の車内に残された生活の残りかすと変わりがない。日常世界の手掛かりが、完全につながりの切れたところにある非日常の真実を示しても、生身の肉体を持ち俗世に生きる人間には届きようがない。自分と真実とでは、属している場所が違うのだ。
 だから、手掛かり(日常)の先にそんな真実(非日常)が本当に待っているとして、それを告げる啓示を感知したとしても、真実はその瞬間にのみ体験されるものとしてあるだけで、啓示の過ぎたあとには持ち帰れない。

 日常を“俗世"というならば、非日常は“聖"となる。聖なる体験は、保存することも、世俗の言葉に翻訳することもできない。そうまとめればそんな気もしてくるが、この小説ではそれはどういうことになるのか。

…続き

(なお、引用した原文中で1ヶ所だけ下線を引いた not を素直に取ると、たぶんおそらく原文は訳文よりも、もう1段階、遠回しだったのではないかと思うのだが、修辞として日本語に加えることはできるだろうか。しばらく考えたが無理だった)
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