趣味は引用
ウラジーミル・ナボコフ『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』(1941)
セバスチャン・ナイトの真実の生涯
富士川義之訳、講談社文芸文庫(1999)

《ぼくは、六つ年上の少年時代のセバスチャンが、豪華な石油ランプの点った家庭的な雰囲気のなかで、上機嫌で水彩絵具に手を出していたときのことを思い出す。その石油ランプの柔らかなピンクの色合いは、今やぼくの記憶の中に燦然と輝いているので、彼自身がみずから湿った絵筆をとってピンク色に塗ったみたいに思われる。》P23

 この小説は、ロシアで貴族の家に生まれながら革命のためヨーロッパに渡った過去をもつ語り手の「ぼく」が、異母兄で作家になったセバスチャン・ナイトの短い生涯を綴った伝記、という形式をとる。子供時代に祖国を追われてからはほんの数回しか会うことがなかった兄に寄せる語り手の感情は複雑で、伝記は主観的な色彩を帯びてくる。
 記憶と情報を想像力によって繋ぎ合わせ他人の過去を再構成する作業は、実は新たな創造行為にほかならない、しかも事情は自分の過去についても同じである――といったようなことを考えるためには、なにもこの小説でなくてもいいだろう。
 この小説でなきゃだめなのは、セバスチャンの元秘書が「ぼく」に先んじて発表した杜撰な伝記「セバスチャン・ナイトの生涯」への反論や、兄がものした特異な作品の紹介と読解も織り込んだ複雑な形式をなめらかに動かす、語りの素晴らしさのゆえだ。セバスチャンの影を追いかける「ぼく」の筆致は、ときおり感情のままに時間の隔たりを越えてしまう。かつてセバスチャンと一緒だった女性の家を、語り手は探し当てて訪ね、その夫に迎えられる。
《「こんな格好で失礼します」と彼は言った。「ひどい風邪にやられたものですから。ビショップです。あなたは妻に会いたがっておられるそうですね」
 ぼくは突然閃いた奇妙な空想の中で、十二年前にぼくが会ったとき、ピンク色の鼻をして嗄れ声だったクレアが引いていたあの風邪をさては移されたのではあるまいか、と思った。》P112

 過去と現在を繋ぐ筆のすべりを繰り返すうちに、やがて語り手はセバスチャンの事実を飛び越えて真実に届く。「ぼく」はあくまで「ぼく」のまま、実感するにいたる、「ぼくはセバスチャン・ナイトなのだ」と。

 本を閉じてから、このスリリングな変容の後ろにはすべてを演出した作者が控えていると思うと、なにかそらおそろしくなる。『エドウィン・マルハウス』のミルハウザーも、きっとこれが好きだったにちがいない。
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック