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2004/04/08

その87 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


 ドリブレットの考え方には、もうひとつおそろしさがある。

 ぼくの言葉をどれだけ細かく調べても、どれだけ丹念に台本を読み解いても、ぼくが見ている現実はつかめないよ、と彼は言っている。ぼくがプラネタリウムの映写機となって、ぼくの現実を舞台上に映し出す。もしぼくが死んだら、ぼくの現実も消える。
 ここでは芝居『急使の悲劇』の話だったが、これはむしろ、彼の現実認識一般に拡大してとらえるべきだろう。彼は、「ぼくの現実はぼくひとりのものだ」と言っている。

 現実についてのこのような見かた、いわば「人間=映写機」論には見おぼえがある。それはほかならぬエディパの現実認識で、第1章の終わり、レメディオス・バロの絵画になぞらえて語られていたものだ→その9~

大地のマントを織りつむぐ」というバロの絵を見て、そこに描かれている囚われの少女は私だとエディパは感じた。彼女たちと同じように、私が生きている世界、私が見ている現実は、私が自分でそのように織りなしたものであり、私が私である以上、私はそこから出ることができない→その10

 世界も現実も、私が/ぼくが独りで作っているものでしかない。そう思い定めている点で、自分の塔に閉じこもり外の世界を織っているというエディパの現実観と、自分を映写機として外に世界を投影しているというドリブレットの現実観は、双子のようによく似ている。
 ただしエディパが、「私はここから出られない」と悲観的になっているのに対して、ドリブレットはそうではない。彼は逆に、創造する者の特権を感じているようにも見える。というのは、話しぶりを追っていくと、「ぼくの見ているものはほかのだれにもわからないよ」という認識が、彼の場合、エディパのような諦念ではなく、「ほかのだれにも作れないものをぼくは作っているんだ」という自負にどこかで転じているように映るからだ。

 それなのに、あるいは、それだからこそ、ここではドリブレットのほうがより淋しげである。
 もしぼくが消えてしまったら、ぼくの演出した、ぼくの意図を込めた今日の芝居も、消えるだろう。残るのは実在したものだけだから、郵便組織〈テュルーン、タクシス家〉は残るだろうし、その敵(トライステロ!)も、実在したなら残るだろう。でもそんな化石に意味はない――

 こんなふうに、芝居のあと、ドリブレットがシャワーを浴びながらエディパの質問に答える(というか、答えないまま喋る)この短い場面は、自分は孤独であるほかないとなぜか決めつけたふたつの魂が、一瞬だけ交差して、すぐに別れていく味わい深いシーンだが、それと同時に、動きはじめたエディパの探求にいきなり巨大な疑問符がベッタリ貼り付けられる、問題含みのシーンだということを繰り返しておく。

 結局のところ、ドリブレットが「たんなる言葉にぼくは命を吹きこんだ」とか「どれだけ言葉を調べたって、真実には行き着けない」と言うときの「命」や「真実」の内実は、なんにもわからない(彼以外にはわかりようがないと彼が自分で考えている)ということだけが、わかったのだった。

…続き

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