趣味は引用
その87 ― ピンチョン Lot 49
競売ナンバー49の叫び

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 ドリブレットの考え方には、もうひとつおそろしさがある。

 ぼくの言葉をどれだけ細かく調べても、どれだけ丹念に台本を読み解いても、ぼくが見ている現実はつかめないよ、と彼は言っている。
 ここでは芝居『急使の悲劇』の話だったが、これはむしろ、彼の現実認識一般に拡大してとらえるべきだろう。するとこうなる。
 ぼくの現実はぼくだけのもので、ほかのだれにも見ることはできない。ぼくが映写機になって外部に投影する星空、それがぼくにとっての現実だ。

 現実についてのこのような見かた、いわば「人間=映写機」論には見おぼえがある。それはほかならぬエディパの現実認識で、第1章の終わり、レメディオス・バロの絵画になぞらえて語られていたものだ→その9~

大地のマントを織りつむぐ」というバロの絵を見て、これは私のことだとエディパは感じた。そこに描かれている囚われの少女たちと同じように、私が生きている世界、私が見ている現実は、私が自分でそのように織りなしたものであり、私が私である以上、私はそこから出ることができない→その10

 世界も現実も、私が/ぼくが独りで作っているものでしかない。そう思い定めている点で、自分の塔に閉じこもり外の世界を織っているというエディパの現実観と、自分を映写機として外に世界を投影するというドリブレットの現実観は、双子のようによく似ている。
 ただしエディパが、「私はここから出られない」と悲観的になっているのに対して、ドリブレットはそうではない。彼は逆に、創造の楽しみめいたものを感じているようにも見える。というのは、「ぼくの見てるものは誰にもわからないよ」という認識は、エディパのような諦念ではなく、「ほかの誰にも作れないものをぼくは作っているのさ」という自負に転じているように見えるからだ。
 それなのに、あるいは、それだからこそ、ここではドリブレットのほうがより淋しげに映る。
 もしぼくが消えてしまったら、ぼくの演出した、ぼくの意図を込めた今日の芝居も、消えるだろう。残るのは実在したものだけだから、郵便組織「テュルーン、タクシス家」は残るだろうし、その敵(トライステロ!)も、実在したなら残るだろう。でもそんな化石に意味はない――

 そんなふうに、芝居のあと、ドリブレットがシャワーを浴びながらエディパの質問に答える(つまり、答えない)この短い場面は、自分は孤独であるほかないのだと決めつけたふたつの魂が、一瞬だけ交差して、すぐに別れていく味わい深いシーンであるはずだが、それと同時に、動きはじめたエディパの探求にいきなりベッタリと巨大な疑問符が貼り付けられる、問題含みのシーンだということを繰り返しておく。
 結局のところ、ドリブレットが「単なる言葉にぼくは命を吹きこんだ」とか「どれだけ言葉を調べたって、真実には行き着けない」というときの「命」や「真実」の内実は、なんにもわからない(彼以外にはわかりようがない)ということだけが、わかったのだった。

…続き
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