2004/04/08

その85 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

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・「トライステロ」を知っている者が、秘密を隠す微笑をする
・「トライステロ」の刺客の姿を、実際に舞台上に出す

 どうしてこのような演出を加えたのか、というエディパの(そして読者の)問いに、ドリブレットは答えない。
 演出の仕方からして、この人は「トライステロ」なるものについて何かを知っているにちがいない。それを教えてもらえれば、自分が巻き込まれている探求の大きなヒントになるはずだ。何の根拠もないままそんな直観を抱くエディパに、ドリブレットは言う。
 きみたちは言葉(words)に取り憑かれているんだ、いいかい、あの芝居が存在するのは、台本のコピーの中でも、もとのペーパーバックの中でもなく、ぼくの中なんだ――
"That's what I'm for. To give the spirit fresh. The words, who cares? They're rote noises to hold line bashes with, to get past the bone barriers around an actor's memory, right? But the the reality is in this head. Mine. I'm the projector at the planetarium, all the closed little universe visible in the circle of that stage is comingout of my mouth, eyes, sometimes other orifices also." (p62)

《「だからぼくの存在の意味があるんだ。精神に肉体を与えること。言葉なんてどうでもいい。言葉ってのは俳優の記憶を取り囲んでいる骨の障壁を突破するための、ゴール・ラインの小ぜりあいを押さえておくための、機械的な音だろ? だけど、現実はこの頭の中にあるんだ。このぼくの頭の中。ぼくはプラネタリウムの映写機だ。あの舞台の円形の中に見える閉ざされた小宇宙はぜんぶ、ぼくの口から、目から、ときにはそのほかの穴からも、出てきたものさ」》p96/pp107-8

「言葉なんてどうでもいい」と断言するドリブレットの言葉から、それでも考えていくと、彼が言っているのはこのようなことになるかと思われる。

 ドリブレットが芝居で表現したいのは、台詞(言葉)のひとつひとつではない。それは手段でしかない。
 頭の中に何かがある。その何かを外に出すためには、言葉で書かれた戯曲が必要になる。
 ただしそれは、何かを言葉(役者の台詞)で表現する、ということではない。何かは言葉に翻訳できないものである。
 言葉そのものは(伝達される内容ではなく)伝達手段に過ぎない、とはよく言われることである。言葉を利用することで、頭の中にあるものを外に運び出せる(表現できる)。重要なのは、その外に出される何かであって、何かを外に出す伝達手段のほうではない。
 こういう書き方をすると、何かは言葉というトラック(伝達手段)に載せられて舞台上に運ばれてくる荷物であるかのような即物的な印象を受けるが、ドリブレットじしんの比喩に従えば、何かは「ぼく」の台本を介して、つまり役者の体と言葉を映写機として、プラネタリウムのように舞台上へ投影されるという。言葉が物質なのはきっと間違いないが、伝達される何かは映像に転化される。そんなイメージが広がる。
 プラネタリウムで見るべきなのは、投影された星座であり小宇宙である。映写機をつつきまわしても仕方がないのと同じように、芝居を見て言葉ばかりを云々するのには意味がない。どれだけ細かく言葉をたどっても、何かは見つからないのだから。それで「言葉なんてどうでもいい」。

 では、星座として、小宇宙として投射される何かとはなんのことか。
 ここまで、頭の中にある何か、という言い方をしてきたが、もういちどドリブレットの台詞を(言葉を!)よく見れば、彼はあっさり、頭の中に現実があると言っていた。
the the reality is in this head. Mine. I'm the projector at the planetarium
《「現実はこの頭の中にあるんだ。このぼくの頭の中。ぼくはプラネタリウムの映写機だ」》

 だから、上に書いた説明の何かはすべて、ドリブレットにとっての現実、と置き換えて読むことができるはずである。
 はずではあるのだが、そうやって読み直してみると、これはひどくおそろしい考えだ。ぼくの言葉をどれだけ細かく調べても、どれだけ精密に台本を読み解いても、ぼくが見ている現実はつかめない、だからそんな意味のないことはやめたほうがいいよ、と、彼はそう言っていることになる。
 おそろしい考え、とさっき書いた。そのおそろしさは2種類ある。

…続き

★長い追記:

 最初に引用したドリブレットの発言の中で、ここがどういう意味なのよくわからない。以下、自分がどのようにわからないかをメモする。
The words, who cares? They're rote noises to hold line bashes with, to get past the bone barriers around an actor's memory, right? (p62)

志村訳:《言葉なんてどうでもいい。言葉ってのは俳優の記憶を取り囲んでいる骨の障壁を突破するための、ゴール・ラインの小ぜりあいを押さえておくための、機械的な音だろ?》(p96/p107)

 つながりはたぶんこうなっている。

■ 言葉は機械的な音(rote noises)だ
      ↑ゴール・ラインの小ぜりあい(line bashes)を押さえる(hold)ための
      ↑俳優の記憶を取り囲む骨の障壁を突破する(get past)ための
(to hold... と to get past... は両方とも rote noises にかかる形容詞的用法のto不定詞)

 巻末の解注には《このあたりはアメリカン・フットボールの試合を比喩に使っている。》としか書かれていないが(p270/p300)、ここにある「ゴール・ラインの小ぜりあい(line bashes)」が何をどう喩えているのか、わからない。
 いや、本当はまず、line bashes が「ゴール・ラインの小ぜりあい」という意味になるのかどうかが自分では確認できなかった(手元の電子辞書に入っているなかでいちばん大きい研究社の新英和大辞典第6版でも、名詞bashの意味は「強打」「へこみ」「お祭り騒ぎ」くらいだし、line bash では項目が立っていない)。もし line bashes がアメフトの用語として「ゴール・ラインの小ぜりあい」になるとしても、何と何が争う「小ぜりあい」を、何のために「押さえる」のかはいっそうわからない。
 あるいは、そこまでは考えなくても、何かごたごたして邪魔になる衝突・騒動として頭蓋骨のあたりに「小ぜりあい」があるとする。で、言葉とはふつう考えられているほどたいそうなものではなく、その頭蓋骨まわりの小ぜりあいを抑え、骨の障壁を突破するために使われる機械的な音ぐらいのものでしかない、ということかもしれない。
 すると今度は、「記憶を取り囲む骨の障壁を突破する」際の、突破する方向がどちらなのか、よくわからなくなる。俳優の外から頭蓋骨を突破して記憶の中へ、なのか、頭の中(記憶)から頭蓋骨を突破して俳優の外へ、なのか。
 俳優の外から頭蓋骨を突破して記憶の中へ、だとすると、いったい何がその方向で俳優の記憶の中に入るために機械的な音(言葉)を使うのか、どれだけ志村訳を読み直しても考えつかなかった。
 それで、頭の中(記憶)から頭蓋骨を突破して俳優の外へ、だとすると、上でずっと書いたような、何かを表現する(外に出す)こととつなげて読めなくもない。
 人間の頭の中に(記憶の中に)何かがある。でもそれは、ふだんはまわりの頭蓋骨が障壁となっているせいで、外には出せない。でも俳優は、劇の台詞という言葉を喋る。言葉じたいにたいした意味はないが、口を動かしてそんな機械的な音を発することが、頭の中と外の障壁を崩し、境界でのごたごた(小ぜりあい)を抑える働きをして、俳優の中にあった何かを外に出すのを助けてくれる、その程度には言葉は役に立つ、でもその程度のものなんだから、言葉にばかり注目するのは愚かだよ――こんなふうにドリブレットは言っていると解すれば、続けて彼の用いる映写機の喩えにつながっていくように読めなくもない。
 仮にこのように読めたとしたら、面白いのは、俳優が喋る言葉(台詞)はもちろん、俳優にとっては他人の言葉であることだ。劇作家が書いた言葉、演出家が喋らせる言葉、そんな他人の言葉(機械的な音)を口にすることが、俳優じしんの中にある何かが障壁を突破して外に出てくるのを、助ける。なるほど、という気がする。
 でも今のは、日本語ばかりをいじって考えたことである。原文の構造を変えずに書き直すと

The words are rote noises to get past the bone barriers around an actor's memory.

こうなるはずだが、これでいま書いたように get past を「頭の中(記憶)から頭蓋骨を突破して俳優の外へ」という方向で読めるかというと、結局、よくわからない。

 さらにさらに、2011年刊行の佐藤良明訳『競売ナンバー49の叫び』(新潮社)は、同じ部分をこう訳している。
The words, who cares? They're rote noises to hold line bashes with, to get past the bone barriers around an actor's memory, right?

佐藤訳:《言葉がなんだって言うんだ。そんなもの、繰り返される騒音以上のものではない。セリフを役者の耳に響かせて、骨の内側に記憶させるための念仏さ。》p97

 志村訳とぜんぜんちがう! ……気を取り直してまた最初から考え直してみると、まずはこうじゃないだろうか。

■ 言葉なんてものは line bashes を hold するのに使う rote noises でしかない、それは「役者の記憶を取り囲んでいる骨の障壁を突破する」ための rote noises でしかないんだ

 get past the bone barriers around an actor's memory は、逐語的にはおそらく、志村訳のようにしか読めないと思う。さっきは get past する方向を中から外(俳優の頭の中から外へ)と考えた。でも佐藤訳はそうではなく、外から中(俳優の外から、頭蓋骨の中の memory へ)ととっているようだ。それにその前に、 line bashes を「ゴール・ラインの小ぜりあい」とはとらえておらず、だからhold のとり方もちがっている。

■ 言葉なんてものは、line bashes を保持する(hold)ための rote noises でしかない、それは役者の骨という壁を通り抜けてその中の memory に届けるための rote noises でしかないんだ

 これが佐藤訳の原型じゃないかと思う。で、何を memory に届けるのかと考えると、line bashes しかないのではないか。すると

■ 言葉なんてものは、line bashes を保持するための rote noises(繰り返される騒音)でしかない、それは line bashes を役者の骨の中の memory に届けるための rote noises(繰り返される騒音)でしかないんだ

 言葉という騒音によって保持される line bashes、骨の中の記憶に届けられる line bashes とは何なのか。
 役者が言葉でもって保持し、記憶の中に入れる(=記憶する)んだから、それは「セリフ」なんじゃないか。ごちゃごちゃごちゃごちゃ、台本の行の上で大騒ぎする、セリフたち。

■ 言葉なんてものは、ごちゃごちゃしたセリフをおぼえておくために繰り返される騒音でしかない、それは(セリフを)骨の中の記憶に届けるために繰り返される騒音でしかない

 これをまとめて、
《そんなもの、繰り返される騒音以上のものではない。セリフを役者の耳に響かせて、骨の内側に記憶させるための念仏さ。》

 こうなった、というふうに考えてみると、いきなりすっきりする。志村訳を踏み台にしてひねり出していた、「他人の言葉を機械的に発話することで頭蓋骨という障壁が崩れ、頭の中の何かを外に出せる」という大仰なことよりも、ここでドリブレットがシャワーを浴びながら言いそうなのはこっちのほうなんじゃないかという読み方に、ここまで書いてきて、だいぶ傾いてきた。とはいえ、彼は直後にプラネタリウムの比喩を使って大仰なことを口にするのだが……
 どちらにしろ、原文を「訳文に合うように」考え直すというのは、英語が読める人からしたら正反対の読み方だ。そろそろギブアップである。
…続き

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