2004/04/04

その80 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

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 邦訳だけ再掲する。ここにあるズレは、ほとんどステレオグラムのように立体視できる。
いかに聖なる星の桛といえども護れない――
 ひとたびトライステロとの出会いを定められた者の運命は

 トライステロ。その言葉は第四幕が終わり、すべての照明が一瞬消えたそのとき、宙に漂った。暗闇に漂ってエディパ・マースを当惑させたが、まだ後日にいたって発揮するほどの力をふるいはしなかった。》p90/p101、太字は引用者

 小説を読むという行為の大枠の中で、この部分には、(1)はじめて「トライステロ」の名にぶつかってとまどうエディパと、(2)あらかじめこの名を章の冒頭でサインのように予告され、そのうえでぶつかる読者と、(3)エディパではなく、エディパを見ている読者にだけ向けてさらに次のサイン(太字にした部分)を送ってほくそえむ小説、という三者(エディパ読者小説)が、層を別にして存在している。

 そして、“三者が、層を別にして存在している”と書きながら同時に付け加えないといけないのは、登場人物であるエディパは小説に含まれており、エディパを描いている部分とそうでない部分のどちらも、等しく文章という言葉の連なりなのだから区別のしようがないということと、なにより、読者は小説と別にいる、ということだ。

 最初に書いたこと(三者がある)は思い込みが激しく、次に書いたこと(そんな三者はない)は常識的、というわけではないと思う。ふたつの見方は両立する。
 先に書いた段落(エディパ読者小説、と太字を使っている段落)は、小説を読んでいる最中の意識の働き方で、次の段落(エディパ、読者、小説、と太字にしていない段落)はそうではないときの意識、というふうに分けるのでは、あまりに粗雑だしうさんくさいかもしれない。
 だが、「その7」「その17」や「その41」や「その51」、そして今回冒頭の引用部のような部分に繰り返し出遭うにつけ、小説エディパより先の地点から彼女を引っ張り、エディパは彼女を翻弄する小説のなかで泳がされているように見えてくるのはまちがいない。
 さらには、読んでいる読者が、地の文がエディパについて語っているときには自分もエディパに寄りそい、地の文がエディパを離れたときには、それはそれで、語られている内容に寄りそっている、つまり、自分が小説の流れに沿って泳いでいるように感じられてくる――たとえば、《まだ後日にいたって発揮するほどの力をふるいはしなかった》と書かれていれば、「後日っていつ?」「発揮される力って?」「気になる!どうなるの!?」と反応を小説の側に返しながら先に進む――のも確かなことなのだ。
 小説を読んでいて見えてくること、感じられることになるべく近い言葉をその都度ひねり出して書きつけるのを、この読書ノートの目的にしようとしていることに、いま自分で気が付いた。

 次回から、小説に戻る――と書くときの「小説」は、太字にしなくてよかったのだろうか?

…続き

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