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2004/04/07

その79 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

前回…] [目次


 読むこと=書いてある内容を知ること、と考えると、当たり前だが、小説の読者は、ページが破り取られていたり汚れていたりするのでない限り、小説に書いてあることはぜんぶ知ることができる(理解できないことが書いてあっても、「理解できないことが書いてある」と知ることができる)。
 また、一人称はもちろん、三人称であっても、視点人物が固定されていればいるほど、小説に書かれることは限定されていくので、その視点人物が見聞きして知ること=読者が知ること、というイコールの状態に近づいていくはずである。
 でも、そのような場合はめったになく、視点は複数の人物に動いたり、俯瞰になったりするから、ひとりの登場人物は、たとえ主人公であっても、「小説を読んで読者が知れることぜんぶ」のうちの、一部分しか知っていない。ここから、主人公と読者の知識にズレが生まれる。
(主人公=いちばん登場シーンの多い人物、くらいの意味で使っています)

 作者の側としては、つまり、小説の側としては、「最初の1行からこの時点まででページの上に提示していることのぜんぶ」と、「ここまでで登場人物(おもに主人公)が知りえていること」とのバランスを調整しながら展開を組み立てていくのだろう。
 読者の側としては、「最初の1行からこの時点までを読んで知ったことのぜんぶ」と、「ここまでで登場人物が知っていること」のズレをもとに、緊張なり謎解きなり、この先の展開への暗示なりを受け取りながらページをめくっていくだろう。

 どうしても、主人公よりも読者のほうが知識が多くなる。エディパが「トライステロ」の名を聞くずっと前から、読者はそれを知っていた。
(逆に、たとえば、書かれていない主人公の過去など、「主人公は知っていて、読者は知らないこと」があるように思えるときもあるが、小説に書かれていなければ、そんな過去はないといまは考えるので、やはり読者のほうがよく知れる立場にいる・・・と言い切るのはさすがに無理があるだろうか)

 読者は、主人公の知らないことまで知りえて、今回のはじめに書いたように、“小説に書いてあることはぜんぶ知ることができる”。
 だが、読者の知りえること=小説に書いてあること、であるとしても、読者の知りえること=小説の知っていること、かというと、「まさか、そんなはずがない」ということになる。いや、なぜ当然のように「そんなはずがない」なのか。そもそも、小説の知っていることとは何のことか。

 いま、ここまでを読み返してみてわかるのは、この読書ノートが、Lot 49 という小説を、少しずつ擬人化する方向にもっていこうとしているということだ。擬人化というのが変ならば、「主人公」や「読者」に並ぶものとして、「小説」を対象化しようとしている。
 それが不自然なバイアスなのはまちがいないが、そのような偏った見方をすることでいっそう浮き上がってくるように思えるのが、前々回・前回と繰り返し引用した、『急使の悲劇』が終わりかけた部分で提示されるギャップである。

…続き

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