趣味は引用
その75 ― ピンチョン Lot 49
競売ナンバー49の叫び

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『急使の悲劇』あらすじの続き。

 ファッジオへ馬を走らせるニコロは、スカムリアとの境にある湖のそばまでやって来ている。ここはかつて、ファッジオの近衛兵が(おそらくはアンジェロの手によって)謎の失踪を遂げた当の場所だ→その68
 よせばいいのに馬から降りたニコロは、アンジェロがファッジオのジェンナーロに宛てて書き、いま自分が運んでいる当の手紙を取り出して読んでみる。
 それでようやく事態の急変を知った彼は、アンジェロの並べた嘘八百を観客に向かって朗読しながら、いま本物の王子(自分)が故国へ帰るのだ、と胸を熱くする。ところが。
Offstage there is a sound of footpads. Niccolo leaps to his feet, staring up one of the radial aisles, hand frozen on the hilt of his sword. He trembles and can not speak, only stutter, in what may be the shortest line ever written in blank verse: "T-t-t-t-t..." (pp56-7)

《舞台裏で賊のやってくる物音がする。ニコロは跳びあがって、放射状の通路の一つを凝視、手は剣の柄にかけたまま凍りついたようだ。体は震え、口がきけず、どもるだけだが、洩れ出てくる音は、恐らくこれまでに書かれた無韻詩のうちでもっとも短い行であろう――「T・t・t・t・t・・・・・・」というのだ。》p88/pp98-9

 さっきまでのもったいぶった遠回し表現(“儀式化された躊躇”)は何だったのか、と拍子抜けするくらいあっさりと、あやしい者たちが姿を現す。
 ただし、先の場面で誰も口にしなかった(口にすることを避けた)彼らの名前は、いまここでニコロの口からも、「T」という頭文字が示されただけだ。
As if breaking out of some dream's paralysis, he begins, each step an effort, to retreat. Suddenly, in lithe and terrible silence, with dancers' grace, three figures, long-limbed, effeminate, dressed in black tights, leoards and gloves, black silk hose pulled over their faces, come capering on stage and stop, gazing at him. Their faces behind the stockings are shadowy and deformed. They wait. The lights all go out.

《まるで夢か何かで体が痺れてしまったかのように、一歩また一歩と、ようやくのことで退きはじめる。ふいに、しなやかな恐るべき静けさで、ダンサーのように優雅に、三人の人影が長い手足で、女性的に、黒いタイツ、レオタード、手袋に黒い絹のストッキングを頭からかぶって、はねまわりながら登場し、動きをとめ、ニコロを凝視する。ストッキングに隠された顔は影に埋もれて歪んでいる。三人は待つ。照明がすべて消える。》

 あやしすぎる。そして、垣間見えた彼らの姿はすぐに消えるから、ニコロにとっても、劇場の観客――エディパ――にとっても、そして読者にとっても、はっきり見えなかったという点ではみな同じなのかもしれない。
 じつは今回の引用部分の前に、はっきりこう書いてあった。
We also see Niccolo, in the scene following, for the last time. (p56)

《次の場でニコロも最期を迎える。》p87/p98

 これまで、何人かの人物に対する拷問は舞台上でしつこく演じられていたが→その66、この場面に限っては、思わせぶりな暗転で隠されてしまう。
 起きているのは、いちばんの善玉であるはずのニコロが殺されるという極めて直接的な出来事であるはずなのに、それを表現するやり方は、最も肝心なところをうやむやにするのである。
《ある種のことどもは声に出して語られない》
《ある種の事件は舞台で上演されない》

…続き
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