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2004/04/07

その72 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


『急使の悲劇』あらすじの続き。

 ここから芝居の雰囲気が変わってくる、という。
《そこはかとない冷気のようなもの、ある種の曖昧さが台詞の中に忍びこんでくる》p85/p96

 要は、台詞の性質が変わってくるということらしいのだが、その変化については具体的に書いてあった。書き方は具体的だが、内容は曖昧である。
《これまで、名前を名づけるのは文字どおりか、隠喩としておこなわれていた。しかし、いま、公爵が殺害の命令を下すに当たって、新しい表現形態が取って代わる。一種の儀式化された躊躇とでも呼ぶしかない表現形態である。ある種のことどもは声に出して語られないことが明示される。ある種の事件は舞台で上演されない。》pp85-6/p96*強調は引用者

「名づける」とは、それまで正体不明だった何ものかをその世界に定着させることだろう。もっと言えば、それまで存在していなかったものに安定した輪郭を与え、存在させる行為が「名づけ」である。名前が存在を生む。
 その「名づけ」が、劇中でここまでは《文字どおりか、隠喩としておこなわれていた》という。
 ここであげられている「文字どおり」と「隠喩」のふたつは、“さまざまな名づけ方”の代表例のふたつとしてであって、「文字どおりか、あるいは隠喩(換喩でも提喩でもなく)のどちらかだけによって」というふうに、方法を限定してほかのやり方を排除する含意はないと思う。
 というのは、いまの部分は「ここまでは、どのような方法にせよ、名づけは行なわれていた」という意味のはずだからで、それは続きを読めばわかることだ。

 それがこのあたりから先になると、「新しい表現形態」として「一種の儀式化された躊躇」が導入されるという。いったいどういうことかと思うが、さらに続きを読むと、「実際にあるもの、実際に起きたことに、名を与えるのが躊躇される」=「名づけが留保されるようになる」と、簡単に受け取ってよいようだ。

 何らかの、確かにある(いる)はずの対象への名づけが、行なわれなくなっていく。つまり、その確かにある(いる)はずの存在を劇中に定着させるのを意図的に避けたまま『急使の悲劇』は進むようになり、それをもって、その確かにある(いる)はずの存在を作中に定着させるのを意図的に避けたまま、Lot 49 は進むことになる。
「存在しているはずのものに名前が与えられない」ことになると、次に浮かぶのは「名前が与えられないせいで、存在しているはずのものの存在があやふやになる」事態である。
 どうしてそんなことをするのか? そして何より、そんなふうに存在が曖昧なままにされる対象、曖昧なまま存在する対象とは何なのか? という話に、もちろんなっていくだろう。

 それにしても、この変化のプロセスを語る地の文は、くだくだしく不穏な雰囲気をはらむばかりで、「それってどういうことなの?」という疑問の核心にズバリと答える書き方の正反対であり、まるでこのあたりの文章じたいが「一種の儀式化された躊躇」のもとで綴られているかのようである。
「一種の儀式化された躊躇」を説明する文章が「一種の儀式化された躊躇」をなぞっているのは当然のことだ――とまとめるとき、読む側でレベルの混同が起きていると思うのだが、おそらくこの小説も、こういう混同を燃料にして進んでいる様子がある。

その70」でも少し書いたように、『急使の悲劇』という芝居は、地の文による説明以外には小説の中でかたちを持たないのだから、芝居の持つ特徴について述べる文章が、その芝居と同じ特徴を帯びているというのは、ほとんど同語反復でしかない。
 それだからこそ、その「ほとんど」からわずかにはみ出して見える部分が、こちらを魅了してやまない。その部分とは、これから登場する、確実にこの芝居の登場人物であるはずの者たちなのだけれども。

…続き

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