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2010/12/19

長嶋有「マラソンをさぼる」(『祝福』に所収)

祝福
河出書房新社


 長嶋有のあたらしい短編集『祝福』は、女主人公もの→男主人公もの→女主人公もの、と交互に繰り返される計一〇編だそうで、オビには「ひとり紅白歌合戦」とある。
 じっさい大晦日に紅白を眺めながら読んでいったらきっと楽しいと思うが、とてもそこまでは待っていられず読みはじめた。

 冒頭の一編「丹下」(すごくいい)のことはちょっと措く。二編め「マラソンをさぼる」について、どうしても書いておきたいことがある。
(「マラソンをさぼる」についてというよりも、「マラソンをさぼる」のごく一部についてでしかないから、状況の説明はしない。ネタバレではないと思うけど、“小道具バレ”ではあるので、そういうのが嫌なかたは注意されたい)

 高校生男子の会話中、唐突にこのような話題が出てきたのである。
《「なあ、おまえ、浅香唯の『セシル』って歌、知ってるか」[…]「その歌詞にさぁ。『映画で観たセシルのように嘘はつきたくない』みたいな言葉があるんだけどさぁ」[…]「それってさあ。映画で観たセシルみたいな嘘つきにはなりたくないって意味かな。それとも映画で観たセシルが正直だったように、自分も嘘をつかないって意味か、おまえどっちだと思う」》p34

 読みながら「な、」と息が詰まり、頭が熱くなった。なぜなら、これ、まったくこの通りの疑問を、私も二〇年以上にわたって持ち続けてきたからである。
 まず曲を聴いていただこう。帰るなら今のうちである。



 アイドルや歌番組の全般に関心が薄かった小学生当時の私でも、この歌がヒットしていたのは身をもって知っている。みっつ歳の離れた姉がこの歌を好きで、一時期、よく歌っていたからだ。私にとって、これはそういう歌だった。
 映画で見たセシルのように 嘘は言いたくない

 姉の歌声が聞こえてくるたび、私はいつも、「セシルは うそつきなんだろうか、そうじゃないんだろうか?」と気になって仕方がなかった。通知表に毎回「元気がない」と書かれる小学生男子の頭の中で、誰だか知らない外国人のセシルはクルクル回って姿を変えた。
 そこで私は思いきって、あるとき、気持よく歌っている姉にストップをかけ、ここまでの疑問を説明して、意見を求めた。
 それはたしか夏休みの一日で、昼間でも薄暗い台所、姉がクリーム色をした背の高い冷蔵庫に寄りかかって立つ格好を今でもおぼえている。
「おねえちゃんは どっちだとおもう?」
 姉は一瞬視線をさまよわせて黙り込み、冷蔵庫の上段、冷凍室の扉についた取っ手を左手で握って、放した。それから私の顔を見据え、「あたしはあんたのそういうところが嫌いだ」と言って、台所を出て行った。外で鳴いていた蝉の声が少し大きくなった気がした。

 セシルが嘘つきなのかどうか、自分が悪いことをしたのかどうか、片付かない思いを残しつつ、このとき私は、“どんなに考えても、組み立てのせいで意味を一通りに確定できない文章がある”ことを知った。私にとって、これはそういう歌だった。
 けれども話はここで終わらない。むしろここから始まる。
 映画で見たセシルのように 嘘は言いたくない

 あの夏の日以来、私は、「○○のように」のせいで意味が二通りになってしまう文章をセシル文と名付けた。
 そして、読んでいる文章の中で「ように」が出てくるたびに、セシル文になっていないかどうか、チェックを繰り返しながら大きくなった。
 よほど急いでいるのでなければ、このセシルチェックは欠かさなかったし、飛ばすときは「いまチェックしないのは急いでいるから」という自覚がつねにあった。自分で文章を書いていて「ように」を使う場合は、セシル文になってしまわないか、決して確認を怠らなかったと断言できるし、どうしても直せないときは、「直せないけど気付いてはいるんだからな」と何者かにむかって言い訳をした。
 だから私の読書歴はそのままセシル歴といっても過言ではないし、「セシル文にならないよう気をつける」というのが、私の唯一、意識して守っている作文ルールである。
(ちなみにこのルールをセシル文であらわすと、「セシル文のように『ように』を使わない」になる、のだろうか。考えるといつも途中でこんがらがる)

 そしてそうやって、読むにせよ書くにせよ、目の前を何千回だか何万回だかの「ように」が通り過ぎていくその一回一回ごとに、毎回必ず私の脳内では、さっきの浅香唯「セシル」の一節が小さなボリュームで流れていたのである。
 ここに誇張はない。二〇余年にわたり、私の頭の何パーセントかはこの外国人女性に占められており、浅香唯の印象はとっくに蒸発してしまったのに、素性の知れないセシルへの注意は万年雪になって、もはや「気にしている」という意識さえなくなっていた。私にとって、これはそういう歌だった。

 そうして二〇一〇年も十二月の後半を迎え、今朝も新聞を読みながら「あ、ここはセシル文になってるよ」と一ヶ所チェックした。
 そのあと、amazonから届いていた『祝福』を何の警戒心も持たずに(持つはずがない)読みはじめ、自分がひっそり抱いていた疑問が、ページの上にまったくふつうに印刷されているのを発見する――
 私が受けた衝撃の何分の一かでも、想像していただけるだろうか。
《「その歌詞にさぁ。『映画で観たセシルのように嘘はつきたくない』みたいな言葉があるんだけどさぁ」[…]「それってさあ。映画で観たセシルみたいな嘘つきにはなりたくないって意味かな。それとも映画で観たセシルが正直だったように、自分も嘘をつかないって意味か、おまえどっちだと思う」》p34

 くだんの疑問は、「私だけの疑問」ではなかった。でも、いま感じているのは“仲間”に出会えたよろこびだけではない。
 だいたい、「セシル」はヒットしたのだ。そして、自分の考えるようなことは、たいてい誰かが(それも、たくさんの誰かが)考えている。だから、セシルをめぐるこの疑問が「私だけの疑問」だなんて、そもそも思っていなかったはずである。わかっていた。頭ではわかっていた。
 それでいて、おそらく三日に一回は何らかの文章を通して姿をあらわすセシルについて、私がこれまで、ただの一度も「ググってみよう」という気にならなかったのは、その事実を事実として認めるしかなくなるのを避けたかったからなのかもしれない。セシルの疑問は「私だけの疑問」にしておきたいという、一種の独占欲があったのかもしれない。
 しかし、いまこうやって「私だけのもの」が「そうではないもの」に変わっても(それは事実関係である)、ここまで書いてきたこれまでの私の一方的な思い入れは消しようがないし、この疑問はこれからも自分にとっては特別なままであるということのほうに、かえっておそろしいような気持をおぼえている。それは事実関係ではないからだ。

 短編「マラソンをさぼる」の初出は二〇〇三年だと巻末にあった。七年ものあいだ、この小説の存在も知らずに自分は何回セシル文を読んでいたのか考えると、ほとんど呆然としてしまう。私はセシルの出てくる映画が何なのかさえ、調べようとしなかった。
 いま、あらためてググってみると、この歌への賛辞は引きもきらない。そしておおむね、褒められているのはここである。
 人は大人になるたび弱くなるよね

 そこじゃないだろ、としか思わない私だが、それでもたしかに大人にはなった。姉はいまでは一児の母となり、RV車を運転して実家へ遊びに来る。「セシル」をおぼえているかは訊いたことがない。

 だいぶ前から着地点を見失ったままキーボードを叩いているが、岸本佐知子のエッセイ集『気になる部分』に、「真のエバーグリーン」という文章が入っていた。
 いま、残念ながら本が手元にないので記憶だけで書くけれども、「エバーグリーン」とは、“自分の中でいつまでも色褪せない、不朽の作品”といった意味らしく、「あなたのエバーグリーンは?」と訊ねられると、音楽でも映画でも、人はいわゆる名作や、強い思い入れのある傑作の類を答えがちである。
 でも本当にそうだろうか、と岸本佐知子は疑う。
 エバーグリーンと言えるほど、人は頻繁に名作のことをふり返り、傑作についての記憶を更新しているのだろうか。そういうたいそうなものではなく、じっさいに日常生活の中でもっともよく思い出しているものこそが、真のエバーグリーンの名にふさわしいのではないか。
 そこでこの人は、たしか「ひと月くらい、自分の頭に浮かぶ物事をつぶさに観察した結果」として、幼少時に読んだ漫画のあまりに間の抜けたセリフや、映画の看板にあった謎のタイトルや、耳について離れないCMソング(そのくせ一部聞き取れていない)などなどを並べていったのだった。
 そんなことを書いてもいいんだ、というおどろきで、「真のエバーグリーン」は、私が二〇〇〇年以降に読んだすべての文章のなかでベスト五に入る。もし未読のかたがいらしたら、ぜひ読まれたい。

 そしてその伝でいうならば、「セシル」が私のエバーグリーンのひとつであることはまちがいない。私が嫌だと思ってもだめである。これからも、「○○のように」にぶつかるたびに私は立ち止まり、セシルチェックを繰り返しては、耳にあの歌を聴くだろう。だからおそらく、こういうことだ。

 人はエバーグリーンを選べない。エバーグリーンが人を選ぶ。

 正直に告白すると、この文章を書くのに費やした時間を使っていれば、『祝福』の残りはじゅうぶん読み切ることができた。
 私はこんなことをしていてよかったのだろうか。映画で見たセシルのように嘘は言いたくない。


祝福祝福
(2010/12/11)
長嶋 有

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気になる部分 (白水uブックス)気になる部分 (白水uブックス)
(2006/05)
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コメント

非公開コメント

はじめまして

ピンチョンに関する記事を探していて、ここにたどり着きました。

本当に素晴らしい内容の記事ですね。
この記事を拝見して、私にとっても、『セシル』は永遠の曲になりました。

しばらく更新なさっていないようですが…、是非また再開してください。楽しみにしています。

おそれいります

1年以上、コメントいただいたことに気付かないでおりました。
まだご覧になっておられましたら申し訳ありません。
「セシル」の呪縛は依然、解けずにいます。
更新はぼちぼちやっていくつもりです。

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「祝福」長島有

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