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2010/12/05

リディア・デイヴィス『話の終わり』(1995)

話の終わり
岸本佐知子訳、作品社(2010)

《もしも誰かにこの小説のテーマは何かと訊ねられれば、いなくなった男の話だと私は答える。》p12

《そういう景色も気候も私には目新しかったので、熱心に観察した。》p34

 大学教師であり、翻訳の仕事もしている「」が、何年もまえに付き合って別れた男、「」とのあいだの話を、小説として書こうとしている。
 当時の「彼」は学生で、「私」と年齢に12歳のひらきがあった。交通事故のような恋愛のはじまりから、唐突な終わりまで――その後「私」が終わりを受け入れるまで――の小さな出来事の数かずと心の動きの連なりを、できる限り正確に文章化するのが「私」の目標であるようだ。
 いつ、どこで、何があったのか。起きたことを正確に描くには、周囲の様子も詳細に書き込まねばならない。どう考え、どんな感情が生じたか。昂揚、冷めた思い。うねる疑心、期待と嫉妬、また揺り返し。「私」は当時の自分をピンセットでつまみあげ、色と形を確認する。明かりに照らし、ひっくり返してしげしげと眺める。的確にメスを入れ、切り口の繊維を虫眼鏡で拡大する。
《私は彼の先に立って歩いたが、家の前まで来たとき、彼が伸び放題になって垂れ下がっているつるバラのつるを手で押さえて、刺が私に当たらないようにしてくれた。でも真っ暗ななかでそれができたはずはないので、もしかしたらそれは別の日の昼間のことだったのかもしれない。あるいはその夜のことだったが、じつはそんなに真っ暗ではなかったのかもしれない。じっさい、そこが真っ暗なのは私のその夜の記憶の中だけでのことで、現実にはすぐそばに街灯が二本立っていて、そのうちの一つの明かりは私の部屋にまで入ってきていたはずだ。》p20

《どんなに彼を無視し、隣に座っていながら背を向けていても、その濃密さは少しもそこなわれることなく、むしろ彼との距離がいかに近いかをよりはっきりと認識させられた。まるで相手から得られる喜びをいっとき遮断することで、その喜びがいっそう濃度を増したかのように。だが私のこういう矛盾した気持ちを彼も感じて、傷ついていたにちがいない。》p90

 回想は物語にはならず、日記とも異なり、「彼」と自分を題材とした観察記録の様相を呈する。けれども、2回起きた似たような出来事は、1回にまとめて書いたほうが結果として正確な文章になる(こともある)。「私」が目指すのは、そういった道すじの先にある正確さであるらしい。
 その方向をとったからには、出来事を並べる順番はカレンダー通りにしておけばいいというわけにはいかないし、“登場人物”の名前をどうするかもおおいに悩ましい問題となる。そしてなにより、何を書いて何を書かないのか、という選択がつねに立ちはだかる。とうてい、スムーズに書き進められるものではない。そこで「私」は、自分がそれらの困難に足をとられる姿も小説に書いていく。
《しばらくして私は小説の最初の部分をエリーに渡して読んでほしいと言った。急がなくていい、時間のあるときに読んでくれればいいからと言いはしたが、思った以上に待たされた。最初のうちは、なかなか読んでくれないことも気にならなかった。自分でもそのことについてあまり考えたくなかった。小説から少し離れていたかった。》p43

《きのうは一時間ほど、どうすればいいのかわかったような気になっていた。こう思ったのだ――気に入らない部分は取ってしまえばいいんだ。そうすれば残ったものはすべていいものになるはずだ。ところがまた別の声がした。この声はしょっちゅう横から出てきては私を混乱させる。そんなに性急に書いたものを削るべきでない、とその声は言った。》p99

 つまり観察の対象には、「彼」と「過去の私」だけでなく、それを書いている「いまの私」まで含まれる。すると当然、記述には、友人知人のみならず「いまの私」のパートナーも登場せざるをえないし、そうなれば、パートナーの父親とその看護婦もひっぱり出して描くことを「私」は選ぶ。
 さらに「私」は、すでに自分が書いた文章にも訂正と補足を施し、別角度から再びとりあげるのを厭わない。だから分析の俎上には、「自分の書いた文章」、小説から削除した部分、使わなかった材料までのせられることになる。
 こういったすべてが、一切の曖昧さを排した冷静な筆致で書かれ、書き直され、少しずつページが重ねられていく。必要以上に煩瑣で、奇をてらったやりかたに見えて、その実、これほど素直な回想はない。

 思い出す、というのは難しい。過去の事物や感情は、頭の中の倉庫にしまわれており、取り出してホコリを払えばすぐにもテーブルに置ける物体ではまったくない。思い出すとは、そのたびごとに現在の地点から、ばらばらになった過去の要素要素を点検し、その場でひとつの出来事に組み立て直す作業であるだろう。片足は現在を離れない。過去を再構成する、手続きまで含めて回想なのだ。だからリディア・デイヴィスは、この小説を書き進めていく手続きを隠さない。
[…] いったん起こったことを起こった通りに書いてしまうと、自分でも不思議なくらい後からはいくらでも変更したり削除したりすることができた。いちど書いてしまいさえすれば、それで自分の中の何かが満たされてしまうのかもしれなかった。》p56

《いくらでも変更したり削除したり》されるのであれば、残された記述(回想の手続き)を読んでも、本当には何が起きていたのかはわからない。
 だが、彼女にとって最も重要なのが《いちど書いてしま》うことであった以上、書かれた手続きを読む者は――内容の真偽を問わず――書く「私」を追体験できる。再構成の過程を通じ、「私」の視点がこちらのものになる。
 そこから何が見えるのか。思うに、『話の終わり』の本体はここにある。
《彼の体に腕をまわすと、指先や腕の皮膚にまず触れるのは彼の着ている服の生地だった。腕に力をこめるとはじめて、その下にある筋肉や骨が感じられた。彼の腕に触れるとき、実際に触っているのは木綿のシャツの袖だったし、脚に触れれば、触っているのはすりきれたデニムの生地だった。》p48(太字は引用者、以下同じ)

《彼の車の中がどんなふうだったか、このあいだから思い出そうとしている。何か赤いものが見えるが、それが彼のチェックのシャツなのか、車にいつも置いてあった毛布なのか、それとも座席の色なのか、はっきりしない。古びた車に特有の、ひからびた座席の革や中の詰め物のむっとカビ臭いにおいがしたこと、そしてそれに重なるようにすがすがしい洗濯物のにおいがしていたのは覚えている。》p85

 いったい、ここにあるのは何なのだろう。
 触れるのはまず服の生地だった、というところまでいってしまう正確さ。脳内で目を凝らせばより多くが思い出せるとでも言うようなまなざし。いずれも、過剰な観察から生まれる過剰な回想行為であり、ほとんど、深刻な表情で口にされる冗談と見分けがつかない。

 観察と分析によって引き出されるこのような描写では、「彼」のことはきっかけにすぎず(もちろんきっかけほど大事なものはないが)、そこを入口にして「私」の外界へのチャンネルが開き、回想する視線は「彼」の周囲へ伸びていく。自分、「彼」、その他の人たちといった、人間に対してなされるのと同じ丹念さでもって、自分を取り囲む風景が、「過去の私」を通し、「いまの私」によって吟味された言葉を与えられていく。
《私たちは陽のあたる細い道路脇に停めた彼の車の中に座っていた。道の両脇は白い歩道で、そこから短く刈り込まれた小さな芝生の庭々がフェンスなしに始まっていた。芝生の奥に建っている家はどれも小さな白い平屋で、赤い瓦屋根をのせていた。一軒の家の横には背の低いヤシの木があり、その隣の家の横には多肉質の葉を持つ低木、そのさらに隣の家は赤い花をつけている蔓植物だった。芝生の他にもう一種類だけ植物を植えるのがこの通りのしきたりででもあるかのようだった。少し傾いた陽射しが白い歩道と家々の白い壁に明るく照りつけていた。どの家も低く小さく、周囲にほとんど木もなかったので、広々とした青空が頭上に開けていた。》p62

「○○があり、その向こうには(隣には、先には)××があり、」といった構文が多用され、文章は視線の動きをなぞる。おかしなたとえだが、むかしの時代劇で、ふすまを両側に開け放つと次の間にもふすまがあって、それも開けると次のふすま、というふうに、奥へ奥へ、向こうへ向こうへと、「私」の視線は伸びていく。
 回想の伸展は、具体的な視線の伸展というかたちをとる。目に見えるものだけをありありと描きながら、見えない情感まで浮き彫りにする、とも読めるし、もはや情感とは切れた、純粋な写生とも読める。ここでも見分けはつかない。
《ガソリンポンプの横で、何かを待っているように二人でぎこちなく立っていると、道路の向こう側をゆっくりと電車が走っていくのが見えた。そのさらにずっと向こうには別の丘があり、てっぺんにヤシの木が一列に並んでいるのが見えた。私たちの背後では、低い建物の陰になって見えなかったが、太陽が水平線すれすれにかかっていて、それの投げかけるあたたかなオレンジ色の光が丘の上のヤシの木に当たり、もっと近くの、町の中央にある噴水を囲むようにかたまって植えられた背の低いこんもりとしたヤシの木々にも当たっていた。》p176

《やたらと雨の多い月だった。空がにわかに黒くなり、雲が蟠[わだかま]ったかと思うと、雨が垂直に、叩きつけるような激しさで落ちてきて、しばらくするとすぐに止む。太陽が顔を出し、晴れた空に輝く。家の外の水たまりの反射が、台所の黒っぽい木の戸棚の上で蛇のように動く。濡れた屋根が太陽の熱であっという間に蒸発し、黒いこけら板のあちこちから蒸気が立ちのぼり、それが風に吹き払われて白煙のように屋根からたなびいた。そうしてしばらく晴れ間が続いたあと急にまた空が暗くなり、ふと振り返って部屋の奥にあるベッドのほうを見ると、その一角から黒い影が、まるでベッドの上の黒い上掛けからわき上がってくるかのようにみるみる広がっていくのが見えた。》p185

 どのページを開いても、何を対象にしても、ひとつも精度をゆるめない視線により描写の探求が行われ、外界が文章に取り込まれて、次のページへ続いていく。いくらでも引用できるし、したいが、話の終わりにあえて最良の例を選ぶなら、それはここだと思う。
《そんな夜更けだったせいなのか、それとも自分のしていることが明らかに常軌を逸していたせいなのか、あるいは自分のぶざまさや、わざわざ寝巻から服に着替えてまでこんなことをしているせいなのか――理由はともかくも、競馬場の駐車場を回りこむように大きくカーブした広い道をトレーラーキャンプ場の方へ向かい、遠くに海岸沿いのハイウェイを南に向かう黄色いヘッドライトの列と北に向かう赤いテールライトの列を望み、そのもっと遠くに線路を北から南に近づいてくる列車の一つ目のライトと、それがまっすぐな線路に反射する一対の細長い光がきらめくのが見え、走っている私の両側にはただ空虚な暗闇の、幾重にも折り重なった空虚さと暗闇の濃淡の層があるばかりで、駐車場の鉄条網のフェンス越しに、がらんとしたむきだしの地面と茶色い小川、そしてその向こうに真っ暗な丘の斜面がわずかに見分けられる、そんな中をひた走っていると、私がそれらの景色を見ているのではなく、景色のほうが私を見ているのだという気がしてきた。がらんとした空き地の広がりのなか、動いているものは私だけだった。そして、まるで景色が私の姿を映しだす鏡ででもあるかのように、私は急に我に立ち返り、自分がたった今していることに否応なしに向き合わされた。》pp102-3

 もっと遠くに、その先にあるものを見ようとする(書こうとする)視線が(文章が)、「私」を発見する。一周回って見えてくる「私」。風景も自分の内面も分け隔てなく、観察の対象、外にあるものとして書いていく、そのような書きかたを徹底することによって、自分の外に出る。

 よくこんな方法を選んだものだ、と言うのには意味がない。まちがいなく、リディア・デイヴィスにはこの題材はこういうふうにしか書けなかった。
 その「こういうふう」が、「このような」ものであることにつくづく驚いた。
 『話の終わり』は、そんな小説である。

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