趣味は引用
福永信の小説 その4
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 吉祥寺の古本屋「百年」での福永信+古谷利裕トークイベント(2010/03/13)に行ってきました。トーク中のお2人の格好を私は忘れません。


「一一一一」 (「すばる」2010年1月号)

 確認から。小説というのは、書かれた文字の順番に従って、だんだんにできあがっていきます。「先生に一面識もない青書生の僕が、突然こう云う手紙を差し上げる失礼を御免し下さい。」と書いてあったら、「先生」と「僕」がいることになり、これは「手紙」であるということになる。
 この“書いてあれば、そういうことになる(ウソも含めて)”というのがかえすがえすも不思議で、たまに気になるのですが、福永信さんの「一一一一」は、この原理を逆手に取った作品であるように読めました。こんなふうに始まります。
《――どちらまで?
「11階をお願いします」
――そんなら、このままでよし、と。もしかすると、あなた、一昨日、ここに引っ越して来たばっかりでは?
「そうです」》

 マンションのエレベーターに乗り合わせた年長の男性と、30代らしい男性。2人の対話が延々と続きますが、年長のほうの一方的な語りかけに30代のほうは相づちを打つだけで(「そうです」)、それによって年長者の話がそのまま事実になっていきます。そもそも、聞き役が30代というのも決めつけでしかありません。
《――[…] 一つ聞かせてくれないか。どうだろうか、寝苦しい・胸部に圧迫感がある・なぜか汗が大量に出るといった身体の異常をおぼえたのではないか、二晩連続で。
「じつは、そうなのです」
――やっぱり…。おそらくそうじゃないかと思ったのだがね、というのは、いわくつきの格安だから。
「ええ」
――がまんなさい、じきに慣れてくるから。
「そうですね」
――説明は受けていたんだろうからね、事前に。説明を聞いて、背筋がゾッとしたものの、ほかに行き場もないんだし、何しろ、格安だったのだから。
「そのとおり」》

 こんな調子。これはどうしても、聞き役の背景が「暴かれていく」というのではなしに、背景がどんどん「作られていく」わけです。たしかにどんな小説でもやっている工程を、これ以上ないくらいあっけらかんと、まるっきり公開しながら進めていく。
 とめどなく出てくるのは、聞き役のほうの夫婦間の不和、その発端と展開、などなど。おもいッっきり生電話で、みのもんただけが喋る、みたいなものでしょうか。それは嫌だろう。
《――もう我慢できない、あなた、出て行って、いや、わたしが出て行く、と、さっさと荷物をまとめたのだ、彼女は、かかえていた膝をくずして、立ち上がって。どこへ行くのだと問うきみに、何か含みを感じたのか、実家以外にあてがあると思っているの、といったのだね、吐き捨てるように。
「ええ」
――むろん、あてがあるのだ、実家以外に、ほんとうは。
「おそらく、そうでしょう」》

 語る側の言うことを聞く側がぜんぶ承認して話ができていく。こうもあからさまだと、語りながら、語られているのとはズレのある内容を読者に届けるという、“信頼できない語り手”なんかの付け入る余地はありません。橋田壽賀子のドラマを2人芝居にしたら、こうならざるをえないのではないか(勝手なことを書いていますよ)。

 しかし、たとえ聞き役がぜんぶ承認しても、いや、承認するからこそ、語られる内容は整合性から自由になれ、奇妙なひねりをもつことができます。仮定と事実がひとしく踏まえられ、前後の話題が変なところでつながるし、細部のありえない照応のせいで、話のなかに人間が何人いるのかも怪しくなる。
 面白いところをなるべく見落としたくなくて、つまり、ちゃんと笑いたくて、あちこち何度も読み返しました。唐突に、3行だけ“地の文”が挟み込まれるのも、なりふりかまわないギャグのひとつとして私は読んでしまいました。それにしても、相づちのタイミングとバリエーションが見事です。
《――それで、血はつながっていなくても真の父親というべきワンボックスカーの運転手の男は、ハンドルを切り返すと、もと来た道を戻った、と。
「そうですね」
――何か忘れてやしないか、大事な家族の一員を。
「犬ですね」
――ご名答。ブレーキを踏んで、「すまなかったな、ワン公」と一礼して詫び、扉を開けたのだ。
「そのとおり」》

(*まちがえました。地の文は都合2ヶ所、計6行あります。失礼しました。2010/04/10追記)


「午後」 (「新潮」2010年2月号)

 ABCDシリーズ。これだけを単体で読むならば、前回書いた「ここ」の紹介がそのまま通用すると思います。
 A・B・C・D、4人の子供の短いエピソードが1段落ずつ順番に並べられ、それが9セット繰り返されます。子供たちの関係は不明、年齢も性別も、手がかりはいくつかありますが、決定できるようにはなっていない。1人1人が9セットを通して同じ人物であるとも限らなくて、またときどき猫になる
 4×9=36のエピソードに一貫した説明を与えることのできる「正解」があり、それを解き明かそうという姿勢で読む小説ではありません。
 ひとつひとつのエピソードにはまったく難しいことは書かれておらず、コーヒー牛乳や水鉄砲、バスの運転手、ポシェット、夏休み、といった小道具にくすぐられながら、思わぬところでエピソード同士をゆるくつなげる細部の関連を見つけて、その都度その都度「おおっ」と反応する。そうやって、行きつ戻りつしながら読むようにできている小説なんだと思います。
 すると「このように読めなくもない」「ほかにもまた、このようにも読めなくもない」という感想が自分のなかにどんどん増えていって、それらを並べていくとこの作品に似てきます
「こう読めなくもない」の枠は相当広く、死んでしまった子(幽霊?)の視点さえ平気で併置されている。まったくおそれいりました。

 しかし、「午後」が真価を発揮するのは、前作「ここ」とあわせて読んだときでした。
「午後」にある36個のエピソードの書き出しは、「ここ」の書き出し36個を再利用しています。各段落の1文めは「ここ」と同じで、それから別の展開が続く、というようになっている。
 そうすると、「午後」におけるAのエピソードは、「ここ」のAのエピソードと関連をもっている(と読めなくもない)ことになり、Aの世界は「午後」の9つ+「ここ」の9つに拡大する。同じ工夫がB・C・Dの3人ぶんにもほどこされています。
(この響き合いをより深めるために、「午後」の6セットめだけは、どの書き出しも「ここ」のものをたくみに改変しています。7セットめからはもとに戻り、1文だけでなくそれ以上の量の文章が「ここ」そのままになったりします。この念の入れよう!読んでいてうれしくなります)

 私は「ここ」「午後」も文芸誌をコピーしてきて読んだため、2作を両方広げて見くらべながら進むことができ、これはラッキーでした。さらに自分でノートも取りつつ、「この部分とこの部分が!」「この部分もあの部分も!」と、あちらこちらで静かに乱反射するたくさんの細部を味わいました。
 見落としはまだまだきっとあるにせよ、こうなると、エピソード間、作品間を行ったり来たりするのは、4人の子供だけでなく自分もじゃないか、とさえ思えてきます。
 どこまでも楽しげでありながら、子供たちは死の方向にむかい、しかし、死の先にも進んでいくこの不思議な小説は、読むことがそのまま作品への参加にもなる小説でもありました。
 そして、このシリーズが「ここ」「午後」の2作で終わる必要は何もないことを考えれば(ないと思うし、実際、ほかにも書かれてきたのだから)、ABCDの世界はさらに広がり、増殖可能なわけです。
 そんな小説を私は知りません。いま自分はすごいものを見てるんじゃないか。そんなことを思って、興奮しながらこれを書いています。
《Aがこの町にもどってきたという。砂ボコリをまとって風にとばされた黄色い麦藁帽子が足下にころがってきてとりあげるとAがかけよってきたという。Aじゃないかとびっくりして声をかけたがあたまだけペコリとさげて帽子をかかえて去っていったという。Aではないという声もある。たしかにAがこの町に戻ってくるなんてありえないことだしそもそも大人になっているはずだ。だがこの日ほうぼうで当時と同じまだちっちゃなAを見かけたという声があがった。》「ここ」/「午後」


*トークイベントで聞き、新潮社の公式ツイッターでも発表がありましたが→これこのABCDシリーズをまとめた単行本が6月末に出るそうです。
*そして、この終わらないように見えるABCDシリーズ、(次の単行本でどうこうというのではなく)福永さんのなかには終わりかたがあるんだそうです。いったいどんなものになるのか、楽しみでなりません。

その5
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