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福永信の小説 その3
その1] [その2]  [その4] [その5

 トークイベントは今日の夜。トークといえば、こういうのもありました。
 →「長嶋有・柴崎友香・福永信 鼎談(2008)」log osakawebmagazine


「ずっと五分間」「シャボン玉ひとつ」「消印」
 
 goningumiによる同人誌「メルボルン1」(2006年11月)に掲載。でも初出はまた別の同人誌なんだそうです。
 いわゆるABCDシリーズ。それは何か。
 どれも子供であるらしいAの話・Bの話・Cの話・Dの話が、1段落ずつ、それぞれごく短い断片で並べられます。
 4人の子供の関係は書かれておらず、それぞれの断片のつながりは不明です。「ずっと五分間」では、五分という時間と、町に降ってきた雪、ゲームセンターの太鼓のゲーム、というのが各エピソードに共通しており、AとBはケンカしたんじゃないかと思われますが、たしかなことはわかりません。そもそも同じ町、同じ時間、に生きているのかどうか。
「シャボン玉ひとつ」では、飛んでは割れるシャボン玉、「消印」では郵便受や手紙、といった、共通して出てくる小道具が作る、ゆるいつながりが4人の子供のつながりのすべてであるように見え、同時に、そのうしろに別のつながりがあるのではないか?(それを発見したい!)という好奇心もかき立てられます。
《大人のケンカは長いのが問題だとDは小さな頭で考えた。笑ってもらいたいがいい案は浮かばなかった。今日はただ白く何度もくもるガラス窓を見つめるしかなかった。でもとDは思う。将来僕は五分でケンカが終わる機械を発明しよう。そんなことを考えていたこの五分のあいだに雪がまた降り始めた。今度はやむことなく町中に残された四人の足あとのすべてを消した。》「ずっと五分間」


「いくさ」「公転」「星座から見た地球」

 goningumiによる同人誌「イルクーツク2」(2007年12月)に掲載。のちに大森望・日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 虚構機関』(2008)にも収録されました。
 これもABCDシリーズです。形式は前と同じで、4人の子供の身体的な行動、あるいは内面の動きが、スケッチふうに並びます。
 しかしこのシリーズ、今回の3篇のなかでも、「いくさ」のAと「公転」のAと「星座から見た地球」のAが同じ人物なのかもさだかではありません。
 そう読めるようにも思うし、そうでないようにも読めるように思う。そんな書かれかたです。
(とはいえ、たとえば「星座から見た地球」のCはチョーク(?)のようだし、Dは校舎に迷い込んだ犬です)
 さっき、私は「小道具が作る、ゆるいつながりが4人の子供のつながりのすべてであるように見え、同時に、そのうしろに別のつながりがあるのではないか?(それを発見したい!)という好奇心もかき立てられます」と書きました。
 でも、読んでいる最中の自分の気持をもっとさぐってみると、この“つながりはあるのかもしれないし、ないのかもしれない、あるならそれを見つけたい”という気持は、この小説については、それ自体で充足しているようにも思います。
 説明が足りないのではなく、あえて説明をしないのでもなく、説明が要らない書きかたを試しているのが、伝わってくる。不思議なくらい上品な印象は、そんな作品のありかたから来るんでしょう。
《Aは窓をしめた。部屋の扉もしめてしまった。耳をあてても物音ひとつしない。だからほんとにAは何もしなかったのではないかという推測もこの時点に限っていうなら可能である。けれども車にもどった半ズボンのポケットには小さくなったクレヨンが四本入っていた。指も四色にそまっていた。何かしたにちがいないのだ。》「公転」


「ここ」 (「新潮」2007年12月号)

 これまで掌篇だったABCDシリーズのロングバージョンです(実際に書かれた順番はわからないですが)。
 今作では、A・B・C・D → A・B・C・Dという進行が、9セット繰り返されます。1セットめでは、(たぶん)潜水艦の絵がプリントされた服が共通して出てくるというように、各セットに小さな留め金があって4人のエピソードをつないでいる。留め金は小道具の場合も状況の場合もあります。
 9セットはけっこうな量なので、4人がそれぞれどんな子供かがだんだんわかってくる――気もたしかにします。Aは元気な男の子、Bはちょっとませている女の子、Cは病院にいるらしい、というように。しかしいっぽうで、Dはいまひとつよくつかめないし、ほかの子も一貫しているわけではない。というか、ちゃんと、一貫しないように書いてある。
 A→B→C→D×9、という、書かれている順番を飛び越えて、たとえばAのエピソードだけを拾って続けて読む、ということもできますが、そうした場合、Aがいつも同一人物なのかわからないし(だれの部分でも、最低1回ずつは猫になっている話が入っているようです)、ひとりのエピソードでも、時間の順序はごちゃごちゃしています。はなはだしいのはDで、赤ん坊のときもあれば幼稚園生のときもあり、そこから誕生直後、さらには母親のおなかの中にいるときまでさかのぼったりします。

 4人に関係があるようなないような書きかたも相変わらずで(6セットめ、バスをめぐるエピソードで急接近するようにも見えます)、引っ越しや手紙など、これまでのABCDシリーズを思い出させるようなシチュエーションもあり、さまざまな手がかりによって記憶をくすぐられながら、たくさんのシャボン玉がにぎやかに浮かんでははじけるのを見ているような読書体験でした。
 シャボン玉が垣根の上を飛ぶように、この小説は時間や場所といった境界の上を飛び、さらにまた別の境界も越えていくようですが、こういう思わせぶりな感想はともかく、わからないことが苦にならない書きかたがされた小説、というか、「わかろう」とする読みかたとは別の読みかたを(あるいは、「わかろう」とする読みかたとは別の読みかた)こちらに自然とうながしてくる小説、という意味で、「ここ」はすごく面白かった。

 リングノートを開き、ページをまたいで真ん中に横線を引き、4つに区切る。左ページ上段にA、下段にB、右ページ上段にC、下段にD、の話を順番にメモしていく。そんな読みかたをしていたら、だんだん小説が「見えてくる」ようで楽しかったです。筋や人間関係の複雑な小説でメモを取るのはよくやりますが、そういうのともちがって、ホチキス止めしたコピーに印刷されている小説が、自分のノートからも立ち上がってくるような感覚がありました。
 以下、「ここを引用すると格好がつくんじゃないの」という作者の声が聞こえるような気もする部分を引用。
《自分が読んでいる言葉のつらなりを彼もたどったのだと思うとそれだけでBは幸福な気分に浸ることができた。読んだ痕跡が残っているわけではなかった。読む前と読んだ後で見た目は何も変わることはなかった。けれどもたしかに二人の視線がこの本の上で重なり合っている。そう信じることができた。そしてもうじきに読み終わるのだ。》

 あれ、関係はあるようでなかったような。


*そろそろ時間切れなので、残っている2作、「一一一一」「午後」については、今日のトークイベントのあとに書くつもりです。
(読むのは間に合いました。「一一一一」は何度も笑わされてしまうストレートな変化球。「午後」はABCDシリーズです。「ここ」の次が「午後」というのがいかにもこの作家らしいと思ったら、関係しているのはタイトルだけじゃないんです。これもすごい)

*ところで、このABCDシリーズを読んでいると、谷川俊太郎の、子供を扱った詩を何となく思い出します。「ここ」には、とくにCとDの部分について、『はだか』に入っている「さようなら」を並べてみたい気もしました。これです。

その4] [その5
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