趣味は引用
福永信の小説 その2
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 そういえば、1年くらい前に『アクロバット前夜』を読んだとき、感想を書いていました(→これ)。いま出ている『アクロバット前夜90°』は、これをタテ組(ふつうの本)にしたものです。
 では前回の続き。

「五郎の読み聞かせの会」 (「群像」2004年9月号)

 書き出しは鮮やかです。
《誤解する余地などどこにもない、明確なそれは危険を知らせる声だった。》

 切迫した気配。が、早くも次の行から様子がおかしくなります。
《口をふさがれたのか、声はもう聞こえなかった。お兄さまというのだから、妹であるはずだった。返事がないのはその兄が、声も届かないほど遠くにいるからだろうか。いや、兄の首筋にキラッと光るナイフを見て、妹は叫んだのかもしれなかった。声が聞こえなくなったのは自分の首筋にも冷たいナイフの感触を感じたからかもしれなかった。》

「はずだった」「かもしれなかった」と、ちっとも確かではありません。「妹」らしき声がたぶん「兄」を呼んでいるようです。
《しかし妹の笑い声が聞こえたことで五郎はその想像に若干の修正を施す必要を認めた。いったい曲がり角の向こうで何が起こっているのか。》

 曲がり角の向こう、「妹」と「兄」のあいだで、何ごとか事件が起きているらしい。曲がり角のこちら側にいる「五郎」には、それを直接には見ることができない。小説は五郎の視点で記述されている――らしい。
 
 兄は穴に落ちたらしい。妹はそれを見下ろしているらしい。はたまた、兄はだれかにオシリを叩かれるらしい。
 
 五郎からははっきりとはうかがえない、だから想像として伝えられるしかない記述をもとにして、さらにこちらは状況を推測するしかありません。
 しかし、次に書かれることがすでに書かれてあることをひっくり返すような記述が続き、しまいには「兄」「妹」と、五郎の関係がひっくり返ります。というか、五郎が「兄」「妹」関係に組み込まれ、かつ、分裂するような。よくわからないと思いますが、よくわからないのです。
 ここに書かれたアクションでゆいいつ確かなのは、五郎が、電信柱に貼られた広告から「0753936179」と書いてある紙片をちぎりとることくらいしかありません。しかし、
《五分のなかにすでに十分は含まれているようにすら感じることもないではなかった。コゲくさいと思って顔をあげると「兄」の頭が燃えていた。》

 こんなことが平気で書いてある小説のなかで、何が確かで何が確かでないと言えるのか。きっと別の読みかたが必要なんでしょう。
 あと、校舎のピロティ、というような言葉づかいが面白いと思いました。私は知りませんでした、ピロティって。


「私の洛外図」 (「群像」2005年5月号)
《本誌掲載の短編小説(平成十六年九月号)に私は十桁の数字を書き込んだ。》

 というわけで、これは先の「五郎の読み聞かせの会」を書いた作家の後日譚、というかたちをとっています。十桁の数字はもちろん「0753936179」。これが「私」の自宅の電話番号で、「五郎の読み聞かせの会」を読んだ読者が電話をかけてきたというのです。しかもそれは、小学生の男子でした。
《小さな友人はつっかえつっかえあいさつを述べた。だいぶ緊張しているようだった。[…] 助け船を出そうとすると、あわてた様子で切らないでほしいと懇願する。ちゃんと喋るから待ってほしいというのである。深呼吸するように伝えると、短く息を吐くのがわかった。》

 そして少年の話と、少年の話を聞く「私」の話が続き、半年もすると、「私」は少年から、やはり電話で初恋の相談を受けたりするのです。なんだこれ。
 ありていに言って、今回もわけのわからないまま終わるのですが、この作品が前のとちがうのは(ちがうように見えなくもないのは)、どうしてわけがわからなくなっているのかを説明しているように受け取れなくもない記述が作中に挟み込まれている点です。
《私は四百字詰で五十枚から六十枚ほどの短編ばかり書いてきたができればもっと短くしたいと考えている。考えているばかりでなく、実際に日夜枚数を削るべく刻苦勉励している。》

[…] あまりに短くしすぎてなくなってしまってはいけない。なくなってしまっては、なにもなかったことになる。なにもないというのは最悪の事態である。できるだけ短く削りながらしかもすべてそろっているようにしなければならない。そして余った時間に別のことをする。散歩したり、公園でくつろいだり……》

 つまり、この短篇がよくわからないのは、本来は書かれていた部分が削りに削られたせいである、というふうに読めなくもないのです。
 いや、本当にそうだとは私も思ってはいません。
 いまの引用で大事なのは、創作の方法論ではなく、最後の「そして余った時間に別のことをする。」の部分だと思います。散歩したり、公園でくつろいだり、あとは、たとえば小学生と電話をしたりというような。
 ともあれ、必要そうな情報とそうでなさそうな情報を、いちど厳しく峻別したうえでミキサーにかけ混ぜ直したような書きかたでもって、「私」は背が高いようだとか、京都のどの辺に住んでいるかとか、少年の母親に接近したみたいだ、というような記述が並べられています。さっぱりわからないが、わからなさが面白い、と、これははっきり言えます。
(電話の少年が、先の短篇の「五郎」なんじゃないかと読めるように書いてある、というのは言うまでもありません)


「寸劇・明日へのシナリオ」 (「新潮」2006年2月号)

 この「新潮」2006年2月号には、小島信夫の「残光」と、青木淳悟の「いい子は家で」(作品集『いい子は家で』の表題作)中原昌也の「点滅……」がまとめて載っています。が、買ったときにこの3作は読んでいたのに福永作だけ未読だったので、いま初めて読みました。ライブ感!(嘘)
《    第一場
よくぞ、ここまでつづいたと、ほめてやるべきかもしれないし、そう思う者も、また思わない者も、大半が、白河コリンヌに対して、いい子だから、どうか、大きなニキビができる前に、すみやかにここ(アパートの一室)を退出してほしいと祈る気持だった。父・高文が事故死し、遅く帰宅した母・さゆりは、シャワーを浴びただけでまたしても出掛けてしまい、白河家(一戸建、築十五年)は無人だった。》

 壮大なのか、ちまちましているのかわからない始まりですが、「寸劇」なので6ページしかありません。かつ、2ページ目が読めなくてしばらく「?」となりました。
 というのは、文芸誌なので文字の印刷は2段組みなのですが、この作品、上段の1行目は下段の1行目へと真下に続き、それから上段の2行目→下段2行目という続きかたをするのです。全ページが真横に続いていた『アクロバット前夜』に較べればささやかとは言え、気付くまでは何ごとなのかとぎょっとしました。
 書かれている内容については、家出した娘・コリンヌと、その父である高文のことがいろいろ述べられていますが、家出の理由はよくわからず、高文の騙されかたもよくわからず、母・さゆりは「正装した男の子」を連れてきて家のことを任せると言い出し、コリンヌはなぜか見知らぬ男・田内のアパートに籠城するし、それに先立って高文は交通事故で死んでいる。
《助手席の窓からは誰もが知る人気者のキャラクターのぬいぐるみが、まるで、ぼく、これからながいながいセリフを吐くぞ、とでもいうように短い右手を挙げ、顔を夜空へ向けていたという。》

 妙に思わせぶりですが、この小説、このような一文一文、段組も含めたひとネタひとネタにそのつど反応する、という以上の読みかたはいかなるものかをこちらに考えさせるよりほかにねらいはないのではないかと疑いたくもなってきます。
 ……言わないでおくつもりだったのですが、やはり言います。「コリンヌ」て

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