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福永信の小説 その1
その2] [その3] [その4] [その5

 今週末、3月13日(土)に吉祥寺の古本屋「百年」→サイトで行われる、福永信さんと古谷利裕さんのトークイベントに行くことにしました。せっかくなので、福永さんの小説で、これまでの作品集『アクロバット前夜』(2001)『コップとコッペパンとペン』(2007)収録されていないものも読んでおこうと思い立ちました。
 それでどんな未収録作品があるのかネットで調べ、区立図書館に出かけていって、文芸誌のバックナンバーからコピーしてきました。図書館の端末で請求票をプリントして受付の人に渡し、書庫から出してきてもらうのを待っているあいだは、おもにハーレクインの棚を眺めて過ごしました。目が洗われる思いでした。
 それはともかく、うちにあったものも含め、集まったのが以下です。
 
  「根木山」(2002)
  「五郎の読み聞かせの会」(2004)
  「私の洛外図」(2005)
  「寸劇・明日へのシナリオ」(2006)
  「ずっと五分間」「シャボン玉ひとつ」「消印」(2004-6)
  「いくさ」「公転」「星座から見た地球」(2007)
  「ここ」(2007)
  「一一一一」(2010)
  「午後」(2010)

 このほか、いちばんあたらしい「一一一一三」は、「文藝」の今のところ最新号(2010年春季号)に掲載のため、コピーがとれませんでした。買えよって話ですが、私もそう思う。あと、「早稲田文学」のフリーペーパー版、「WB」でも、Vol.10からVol.16.にかけて「三か所」というシリーズの連載がありましたが、うちにはぜんぶは揃っていません。バックナンバーがすべてここで読めるはずですが、まずは手元に、紙のかたちであるものから読んでいくつもりです。
 とはいえ、あまり時間がないので(これを書いている今は月曜の真夜中です)、土曜までにぜんぶ読めるかあやしいし、読めたとしても、大急ぎで書くので、せいぜい各作品がどんな作品なのかの紹介程度になると思います。
 
 つまり、これから先の文章は、上記リストがあればそれで充分な蛇足になりそうです。
 そういうのとはちがって、福永作品を綿密に論じたものとしては、それこそ土曜日の対談相手、古谷利裕さんの、「中学生以上と小学生以下、現世と冥界」があります。面白いことはまちがいないが、どこがどう面白いのか説明しようとすると途方に暮れてしまう福永作品にじっくりつきあって、こちらもすごく面白い。『人はある日とつぜん小説家になる』(2009)に入っています。
 また、『コップとコッペパンとペン』の刊行に際して行われた、佐々木敦さんによるインタビューがこちらにあり、上記作品のいくつかが、どうして単行本に入っていないのかも語られています。
 
 なお、未収録作をさがすうえでは、「WhosWho」というサイトの、このページが役に立ちました。まさにこういうものをさがしていた。大感謝です。
 とはいえ、上に並べたのは、あくまで今回、私が集められたものだけです。それに、小説として発表されたと考えられるものと、小説以外として発表されたと考えられるものとを、はっきり分けてしまってよいのかどうか、特にこの人の場合には疑問でもあります。そこまで言わなくても、単行本として出た『あっぷあっぷ』(村瀬恭子さんと共著、2004)さえ、私は持っていないのでした。
 では、以下蛇足――


「根木山」 (「文學界」2002年3月号)
《自宅を出ると、素敵な匂いが私を取り囲んだ。向かいの家の庭に咲いたオレンジ色の小さな花だった。緑色の葉が重なり合い、鮮やかに目に映える。毎年咲いていたのだろうが、勤めていたあいだはまるで気づかなかった。
 退職後しばらくは、もてあますほどの時間にむしろ追い立てられる思いで、資格だ、やれ習い事だと、いろいろ精を出していた。》

 突然どうした。いや、これは、定年を迎えた初老の男性を語り手とした小説なのです。上述の佐々木敦インタビュー→これでは、「ほんとにベテランの作品として読まれてしまう面白さをねらった」旨の発言がありましたが、なにしろ私は、これが福永さんの作品だとわかって読んでいる。だから面白さは半減かというと、しかし、そうはなりません。
《四十年近く会社の、そして社会の歯車として働いてきた。》

 そのまんますぎ。ベテランのふりをするにしても、もうちょっとうまい「ふり」があるんじゃないだろうか。そのような意味で、やはり面白いのです。独白にしろ情景描写にしろ、なんだか人形劇のようで可笑しいなあ。そんなふうに思っていると、語り手の「私」は、これまでの通勤の日々には素通りしていた喫茶店のマスターと、花の香りがどうしただとか、「何げない会話」を楽しみます。
《いや、意味がないのではない。私はここで大切な何かを受け取った。むろん花の名前を知ったという類いのことではない。そうではなくてもっと大切なもの。以前、凡庸な言葉にこそかけがえのない真実が宿ると剣豪は語っていた。マスターはキンモクセイの枝を指先でもてあそんでいた。》

 剣豪が出てしまいました(二度と出てきません)。いったいベテランのふりをするつもりは本当にあるのでしょうか。そう思わされるフレーズは、この先にも次々と出てきます。
《勤めていた頃にはちょびヒゲのちょの字も思いつかなかった。しかし今は自由の身である。ちょびヒゲといわず、思う存分ありとあらゆるヒゲを生やしてみるのも悪くない。》

 また、もっともらしいことでも、言いすぎると笑えてきます。
《なぜ、正直に、私はくそを踏みましたといえないのか。たったそれだけのことではないか。私の体内にはまだ、さもしい競争社会の原理に貫かれた汚れた血が流れているのかもしれない。自身のミスを隠蔽しようとする灰色の血が。あるいは、他人に責任を転嫁しその他人もまた別の他人に同じことをする、そんな永遠のらせん階段を作る遺伝子が。》

 これらのとってつけたようなフレーズのバカバカしさは、とってつけただけにとっつきやすいので、もっと引用したくなりますが、それよりも変なことになっていきます。
 語り手やマスターのほかにも、この短篇には、喫茶店のカップル、妻、お隣の鍋島夫妻、意味ありげな少年少女、宅急便の運転手ほか、たくさんの人間が出てくるのですが、何事かが起きているようであっても、だれが何をしてどうなっているのかさっぱりわかりません。ある程度は推測できそうなのですが、すべてを語る語り手じしんが、上の引用の調子でどうかしています。
《出かけて来るとはいったものの、帰るつもりはなかった。そもそも私の家ではないので、帰ってこなくて当然だが。》

 何を言っているんだ。そのうえで、後半に進むにつれ、登場人物たちの役割の交替、立場の交換がめまぐるしく起き、脱線すべきレールも満足に敷かれないまま、小説は脱臼して停止します。
 そんな幕切れを私は「きれい」だと受け取りましたが、何よりそれは、この短篇が、初老ではない福永さんの、初老のベテランのふり(役割の交替)によって書かれているという、おかしな二重底の上に成り立っているからだと思いました。初出誌の外に出しても、じゅうぶん面白いと思います。
《蟹は超おいしかった。》

 だから何を言っているんだ。
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アクロバット前夜90°アクロバット前夜90°
(2009/05/27)
福永 信

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コップとコッペパンとペンコップとコッペパンとペン
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福永 信

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福永 信村瀬 恭子

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